――第94章・砕けた絆――
三か月後――
オマリロは台所で、年老いた背中を軽く鳴らしていた。
そこへノノカがすっと寄り、彼の体を支える。
「マスター、手伝います。何を取ろうとしてたんですか?」
「冷蔵庫のカップだ。高くて届かん」
ノノカはすぐにコーヒーカップを取って、彼に手渡した。
「はい、マスター。ほかに必要なものがあったら、何でも言ってください」
そう言って彼に抱きついてから、ノノカは離れ、階段に座っているザリアの隣へ行く。
「どうだった?」
「どう言えばいいかな」
ノノカは肩をすくめた。
「第六と第七との戦い以来、マスターは明らかに老いが進んでる。私はそれすら可愛いと思う。だって、今でもめちゃくちゃ強いのは変わらないし。でも、体には本当に負担が来てる」
「だからこそ、私たちがいるんだろ」
ザリアは答えた。
「ねえ、ソウシン見た?」
「リカとレイと一緒。湖のほとりでのんびりしてる」
「マスターも連れてくべきかな?」
「いや……」
ノノカはオマリロの方を見た。
「ここにいて見てた方がいい気がする」
二人はそのままオマリロの隣へ座り、やわらかな笑みを向ける。
オマリロはコーヒーを口に運びながら、テレビでゴルフを見ていた。
ふと杖を落とし、ザリアがすぐ拾い上げる。
「はい、先生」
彼女は伸びたドレッドを見て、目を細めた。
「これ可愛いっすね、先生。いつの間にこんなに伸びたんすか?」
「年だ。年を取れば、髪も伸びる」
「まさかそのまま老いて塵になるとか言わないでくださいよ!」
ザリアは慌てて抱きついた。
「もうだいぶ疲れて見えるんだから!」
「老い続けるだけだ。死は関係ない」
「よかった……」
そこへリカとレイが、全身びしょ濡れのまま家へ戻ってきた。
リカは髪の水を絞りながら、二人の方を見る。
「もう、ほんとに! 弟ができるのはいいけど、たまにすっごい面倒なんだよ! 髪に水かけないでって言ったのに、何すると思う? 髪に水かけるの!」
レイはくすくす笑った。
「私はソウシン大好き!」
二人もオマリロに気づき、ザリアたちと並ぶように腰を下ろした。
「こんにちは、マスター!」
リカが明るく言う。
「マスター、具合はどうですか?」
レイが心配そうに尋ねる。
「背が痛い。指もしびれる」
「やっぱり年ですよね……」
ザリアが小声で呟いた。
「まだ九十八歳にもなってないのに、見た感じ百二十くらいっす」
「この状態でまだ歩けてるのが奇跡でしょ」
ノノカも言う。
「ほんと、伝説だわ」
そこへソウシンが勢いよく飛び込んできた。
「ただいま、みんな! クラゲ持ってきた!」
彼が掲げたクラゲを見て、リカが慌てて立ち上がる。
「ソウシン、それ戻してきなさい!」
「やだー! へへ!」
ザリアはオマリロの空になったカップを取り上げた。
「まあ……少しずつ普通に戻ってきたって感じっすね」
だが、その言葉の直後。
ハンが階段を下りてきて、無表情のまま台所へ向かい、手を洗ってから水のボトルを取った。
「……全部は、だな」
ノノカが冷たく吐き捨てる。
ハンはオマリロへ短く手を上げた。
「先生」
「少年、一日中部屋にいた。外へ出ろ」
「すみません。気づきませんでした」
女子たちは一斉に彼を睨む。
ソウシンだけが歩み寄って、ハンの腕をぺしっと叩いた。
「やあ、ハン!」
「やあ、ソウシン」
オマリロがゆっくり立ち上がる。
「マスター!」
レイが慌てた。
「背中が……! 座っててください、氷持ってきます!」
しかしオマリロはしっかり足で立ち、背を鳴らした。
「空気が張っている。グループがまだ一つでない。来い。訓練だ」
女子たちは顔を見合わせる。
ハンはそのまま二階へ戻ろうとしたが、オマリロが止めた。
「訓練には少年も入る」
「……はい、先生」
オマリロは杖をつきながら道場へ向かい、全員もその後をついていく。
彼が杖を床に鳴らすと、皆が座る。
ザリアはハンの近くに座っていたことに気づき、すぐソウシンと場所を入れ替えた。
「今日は何するんすか、マスター?」
オマリロはかすかに腕を上げる。
「昔の訓練。片方が対象を守り、片方が壊す」
彼は近くの箱を開けた。
黄金の光が漏れ、紫色の結晶片が飛び出し、巨大な一つの結晶へと再構成される。
「旭川ダンジョンの結晶だ。昔の弟子たちもよくやった。今度は新しい弟子たちの番だ」
「つまり、これを壊せばいいんですね?」
ノノカが確認する。
オマリロは頷いた。
「三組。順番に回す。守る側、壊す側。組は今から決める」
「リカは私!」
ザリアが即答する。
「じゃあ私はレイで」
ノノカも続けた。
ハンは黙ったままだったが、ソウシンが彼の腕をつかんだ。
「僕、ハンと!」
「いや」
オマリロが切り捨てる。
「組は私が決める」
「……はい」
彼はレイとソウシンを指した。
「組」
続いてノノカとリカ。
「組」
その時点でザリアは嫌な予感に気づき、露骨に下がった。
「先生、待ってください。エメルとか、先生自身でもいいじゃないですか! 私ひとりでもやれますから!」
オマリロが杖を床に鳴らすと、ザリアはぴたりと黙る。
「負けた組が少年を取る。少年もグループの一員だ。公平でなければならん」
「失礼ですけど、マスター」
ノノカがハンを睨みながら言う。
「こいつは全員一致で追放って決めたんです。でもマスターが言うなら……まあ、許容します」
しかしオマリロの視線を受けて、彼女はすぐ口を閉じた。
「黙ります。すみません」
オマリロはザリアとハンを指す。
「防衛」
そしてソウシンたちへ。
「攻撃」
ザリアとハンが位置につく。
ハンは手を差し出した。
「……頑張ろうか?」
ザリアはその手を払い落とす。
「触んな、裏切り者」
「分かったよ」
オマリロが杖を鳴らす。
「始めろ」
開始と同時に、レイが月光弾をハンへ放った。
ハンはそれを避けて転がり、キューブを展開する。
「キューブ、解法を走査!」
『解法を八通り検出』
「最適解を使え!」
ザリアは月光弾を飛び越え、レイへ槍を振るった。
だがレイは結界で防ぐ。
その隙にソウシンが結晶へ突っ込むが、ハンのキューブが壁へ跳ね返るトリップワイヤーを撃ち出し、彼を拘束した。
「悪い、ソウシン」
「謝らなくていいよ、ハン! かっこいい技!」
ソウシンはワイヤーに触れ、高速振動させて抜け出す。
そしてハンをすり抜け、結晶に向かって拳を叩き込んだ。
「くそ……速い」
ハンのキューブが今度は網を張り、ソウシンごと結晶を覆う。
レイと戦いながらザリアがちらりと見て、舌打ちする。
「ばかかよ……!」
彼女はハンを押しのけて網を引きちぎり、その間にソウシンの拳が結晶へ入り、ひびが走った。
ザリアはソウシンを蹴り飛ばす。
レイが割ろうとした瞬間、ザリアが槍を投げ、月光弾は逸れてリカとノノカの方へ飛びかけた。
「レイ!」
リカが悲鳴を上げる。
「髪に当たるって!」
「ごめん!」
ソウシンはハンの周囲をぐるぐる回り、満面の笑みを浮かべる。
「準備して、ハン! 行くよ!」
ハンは腕時計型の装置を展開し、レイとソウシンの前に電撃の門を形成して進路を塞いだ。
「このまま守り切れば勝てる」
ハンがザリアへ言う。
「俺がゲートと檻を張る。結晶は絶対に――」
だがザリアは無視した。
電撃の門を蹴り飛ばし、前へ出る。
「おい、待て!」
彼女が突っ込んだせいで結晶が無防備になり、レイの一撃が通りそうになる。
しかしザリアは間一髪でレイに体当たりし、月光弾の方向を逸らした。
「やばっ! 見えない!」
リカが声を上げる。
「まだだ!」
その背後で、ソウシンはすでに結晶の前に立っていた。
手を触れる。
「取った!」
彼の振動で結晶は目にも止まらぬ速さで共鳴し、そのまま粉々に砕け散った。
「攻撃側の勝ち」
オマリロが告げる。
「なんでだ……?」
ハンは目を見開く。
「いつ動いた?」
「レイが目を引いて、僕が入る!」
ソウシンは嬉しそうに言った。
「連携だよ!」
「連携、か……」
ハンは小さく呟く。
「俺たちには、もうない」
彼がザリアを見た瞬間――
ぱしん、と鋭い音が響いた。
ザリアの平手がハンの頬を打ち、彼は床へ倒れ込む。
「私に話しかけんな、裏切り者!」
ソウシンが慌ててハンの前へ立つ。
「ザリア、それはだめ!」
リカはソウシンの肩を抱き寄せながら、オマリロへ向かって言った。
「ソウシンが優しいのは分かります。でも、こいつはそれに値しません」
彼女は真っ直ぐオマリロを見る。
「マスター、もう終わりにしませんか? あなたは立ってるだけでもきつそうです。それなのに、こんな悪い虫の相手までしてたら、もっと壊れます」
「皆も同じ気持ちか?」
オマリロが問う。
女子たちは揃って頷いた。
「こいつ、いらない」
リカが言う。
「もう二度と顔も見たくない」
「同感」
ノノカも冷たく言い放つ。
「信用できない上に、自分が可哀想みたいにうじうじしてるのが最悪」
「私はみんな大好きだよ!」
レイが言った。
「でもハンは違う! もう友達じゃない! 敵!」
「マスター、お願いです」
ザリアも訴える。
「こいつのせいで先生はこうなった。封印でも追放でも何でもいい。こいつが反省してるように見せたいだけで、甘やかさないでください」
「女子たちの意見、受け取った」
オマリロは杖を放り投げた。
「ジュゲン闘士――呪詛六角装」
「マスター、何を……!」
ハンが息を呑む。
黒金の鎧がオマリロの全身を覆う。
「女子たちが少年を追い出したいなら、結晶を砕け」
彼はハンとソウシンを見る。
「来い。防衛だ」
「せ、先生!」
リカが慌てる。
「そんな無茶しないでください! その状態で!」
「ほんとにそれやる気?」
ノノカも眉をひそめる。
「見てくださいよ、自分の体!」
「来い」
オマリロは命じる。
「結晶を砕けば、少年は消える」
女子たちは顔を見合わせる。
「……分かった」
ザリアが答える。
「できるだけ優しくやる!」
結晶が再形成される。
ザリアはすぐ槍を投げたが、オマリロが剣で弾く。
そしてハンへ指示した。
「頭を使え。結晶を守れ」
「何すればいい、先生?」
ソウシンが元気よく尋ねる。
「圧をかけろ」
「わかった!」
ソウシンは一気に女子たちの間を駆け抜け、足を取らせる。
レイは二つの月刃を作り、一つでオマリロの剣とぶつかり、もう一つを結晶へ飛ばした。
だがハンのワイヤーがそれを打ち落とす。
「結晶に近づけさせるな!」
ハンが叫ぶ。
「今なら守り切れる!」
しかしザリアは彼を完全に無視していた。
そのまま突っ込み、レイに迫る。
レイの月光弾が飛ぶたび、ハンは対応する。
リカは手を重ね、シジルを生み出した。
〈シジル生成:ライフスティール〉
それを即座に砕き、結晶から生命力をじわじわ奪っていく。
ソウシンはリカを壁へ押しやった。
「今日はだめだよ、リカ!」
「ちょっと! お姉ちゃんに当たるの!?」
「へへ!」
ザリアとハンの応酬は続く。
ハンはひたすら彼女の攻撃を避けるばかりだった。
レイとノノカが結晶へ迫るが、オマリロの弓から放たれた矢の雨がそれを阻む。
やがて弓が消え、オマリロは輝く手をかざした。
「ジュゲン後備者――神々の拘束」
黄金の鞭が女子たち全員を縛り上げる。
同時に結晶は姿を消した。
「時間切れ。女子の負けだ。少年は残る」
女子たちは力尽きるように崩れ落ちた。
「……分かったよ」
ザリアがしぶしぶ呟く。
オマリロは元の姿へ戻り、その瞬間ハンが支えようと駆け寄る。
「先生、大丈夫ですか!」
だがリカが彼を押しのけた。
「触らないで!」
彼女とレイがオマリロを支える。
「体、限界だ。休む」
ザリアは杖を拾い上げ、三人で彼を二階へ連れていく。
ノノカも後ろに続いた。
ハンはその背中をただ見送る。
「ソウシン……どうしたら、みんな俺を許してくれると思う?」
「本当のハンを見せればいいよ!」
ソウシンは笑った。
「僕が知ってるハンを見せれば、みんなずっと怒ってなんていられない!」
「でも……どうやって……」
「そのうち分かるって!」
ソウシンはそのまま出ていき、ハンだけが道場に残された。
???――
エメラルドは木々と建物の間を進み、青森の街を歩いていた。
「青森ダンジョン……どこだ」
逃げ惑う人間たちを無視し、車を踏み潰しながら進む。
やがて桜の木が並ぶ公園へ辿り着いた。
ベンチの一つから、奇妙な黄金の光が漏れている。
触れた瞬間、それは炸裂した。
隠されていた黄金のダンジョンゲートが姿を現し、すぐさま開く。
「ニュガワの封印が消えた今、この獣は俺のものだ」
エメラルドは笑った。
「妹よ、もう少しだけ待っていろ……」
彼はゲートの中へ足を踏み入れる。
「今、行く」
侵入と同時に、大地が激しく揺れた。
背後でゲートは閉じ、砕け散って消える。
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