第8話:白い部屋、ふたたび
「……げほっ! はぁっ、はぁっ……!」
大の字で倒れた状態から、俺は咳き込みながら上体を起こした。
肺に詰まっていたはずの泥水もなければ、足が攣った痛みもない。身につけているジャージはずぶ濡れだったけど。
「ここは……」
視界いっぱいに広がるのは、見覚えのある果てしない空間。
上下左右の感覚がない、無機質で真っ白な部屋。
「また、この白い部屋か」
俺は頭を抱え、自嘲気味に笑いを漏らした。
「ははっ……バカだな、俺」
拳で、何もない床の空間をドンッと叩く。
胸の中にあるのは、後悔と、自分の無力さへの怒りだけだった。
「結局、あいつと全く同じ死に方しちまった」
俺はゆっくりと立ち上がり、虚空に向かって声を張り上げた。
「おい神様! いるんだろ!」
俺の叫びに呼応するように、目の前の空間が揺らぎ、冷たい光を放つあの幾何学模様が静かに出現した。
『……』
神は何も言わない。ただ、規則正しく回転しているだけだ。
俺は、怒りよりも諦めと後悔が入り混じった表情で、神を見上げた。
「よお。結局死んじまったよ。カッコつけて飛び込んだけど、このザマだ。俺は、羽奈の側にいてやれなくなった」
俺は、神に向かって深く頭を下げた。
「悪いが、羽奈のこと……妹だけは、ちゃんと見ててやってくれよ。あいつが一人で生きていけるように、せめていい人に出会えるように……頼む」
だが、神の幾何学模様は、不規則に激しく明滅を繰り返すだけで、いつまで経っても返事がない。
まるで、致命的なエラーを起こしたシステムのように。
『……』
「……なんだよ。何か言えよ」
俺が顔を上げた、その時だった。
「……お兄ちゃん!」
俺の背後から、聞き慣れた甲高い声が響いた。
ビクッと、肩が跳ねる。心臓を直接鷲掴みにされたような、恐ろしい悪寒が背筋を駆け上がった。
「……え?」
ここに、その声の主がいるはずがない。
だってここは、死んだ人間だけが来る場所のはずだ。
俺は恐る恐る、スローモーションのように背後を振り返った。
「……なんで、こんな所に……」
そこには、全身ずぶ濡れになり、涙で顔をぐしゃぐしゃに腫らした羽奈が立っていた。
靴の片方は脱げ、着ていた服からはポタポタと水滴が落ちている。
「お兄ちゃぁぁん……っ!!」
「……嘘だろ」
俺は、目を見開いたまま膝から崩れ落ちた。
「なんでお前が……どうしてここにいるんだよ……っ!!」
羽奈が泣きながら駆け寄り、俺の胸に飛び込んで抱きついてきた。
「わぁぁぁぁん!!」
俺は震える両手で、羽奈の背中を抱きしめた。
ずぶ濡れの服。そして、恐ろしいほどに冷たい、生命力を失った感触。
「冷たい。……羽奈、お前……」
俺は羽奈を抱きしめたまま、ギリッと歯が砕けるほど食いしばり、神に向かって血を吐くような絶望と怒りの咆哮を上げた。
「神ッ!! どういうことだ説明しろォォォォッ!!!」
冷たく光る幾何学模様の神は、チカチカと焦ったように明滅を繰り返した。
そして、これまでの一切の感情を排した事務的なトーンとは明らかに違う、人間臭い焦燥を帯びた声で答えた。
『……私にも全く予想外の事態だ。まずは落ち着いて聞け』
「落ち着けるか! こいつは岸で大人と一緒に待ってたはずだぞ!」
俺が怒鳴りつけると、神は淡々と、しかしどこか気まずそうに語り始めた。
『お前が子供を押し上げた直後、助けられた母親はパニックに陥ったのだ』
「パニック?」
『そうだ。母親は自分の子供だけを抱きかかえ、あろうことか、側にいた羽奈をその場に置いて逃げ出した』
俺は愕然とした。
「……は? 逃げた? 羽奈を一人で残して……?」
『一人残された妹は、激流に飲み込まれていくお前を見て、手を伸ばそうと岸の泥に近づきすぎた。そして――』
俺の腕の中で、羽奈がビクッと肩を震わせた。
「ごめんなさい……っ! お兄ちゃんが、沈んじゃうから……っ!」
羽奈は俺の胸に顔を押し付け、しゃくりあげながら泣き続けた。
「助けなきゃって思って、手を伸ばしたら……足が、滑って……っ」
俺は羽奈の小さな頭を、両手で包み込むように抱きしめた。
「謝るな! お前は悪くねえ! 悪いのは俺だ……っ!」
悔しさに顔が歪む。
俺が、中途半端な正義感を出したせいで。俺が足さえ攣らなければ。俺がもう少しだけ上手く立ち回っていれば。
いや、そもそもあのバカ親が妹を置き去りにさえしなければ!
「なんてこった、俺は彼になんて言い訳すればいいんだ……! あんた、神ならなんとかしろよ!」
俺が叫ぶと、神の幾何学模様は形を崩し、まるで頭を抱えているような丸いフォルムに縮こまった。
『私に言われても困る! お前の言う通り、天界の魂管理システムは大穴だらけのポンコツかもしれん!』
「……は? あんた、神だろ? なに開き直ってんだよ」
『前回の回収ミスに続き、今回のイレギュラーな魂の同時ロストだぞ!? 私は間違いなく、上層部から重大な管理責任を問われる!』
神は、もはや威厳の欠片もない、やけくそ気味な声で叫んだ。
『辺境宇宙の石ころ管理担当に降格処分だ! 始末書じゃ済まされんのだぞ!』
「あんたの左遷や始末書なんて知るかよ! 問題は羽奈だ!」
中間管理職のような悲哀を漂わせる神に、俺は詰め寄った。
「頼むから、羽奈を地球に戻してくれ。俺の魂なんか消滅してもいいから!」
『不可能だ。一度肉体を離れ、この空間に来た魂は現世には戻せない。それはお前が一番よく知っているはずだ』
神の言葉に、俺は拳を強く握りしめた。
「じゃあどうすんだよ! 十一歳のガキを、地獄にでも送る気か!?」




