第7話:約束
「苦しい……息が……! 助けて……!」
フラッシュバック。
濁流に飲み込まれ、肺に泥水が流れ込んでくる絶望的な息苦しさ。
水面から差し込む光が遠ざかり、自分の体が冷たい川底へと引きずり込まれていく恐怖。
それは間違いなく、十七歳の『神代真』が最期に味わった死の記憶だった。
「はっ、はぁっ……! はぁっ……!」
俺の体は、まるで氷水ぶっかけられたようにガタガタと激しく震え出していた。
自分の首を掻きむしるように押さえ、過呼吸気味に肩で息をする。
(あいつの……死のトラウマか……!? 嘘だろ、なんでこんな時に……っ!)
川の中で溺れている子供を助けに行かなければ。
頭では分かっているのに、足の裏が地面に縫い付けられたように一歩も前に出ない。体が本能レベルで、あの茶色く濁った水流を激しく拒絶している。
「お兄ちゃん……っ! どうしよう、あの子が……!」
俺のジャージの袖を、羽奈が青ざめた顔で強く引っ張った。
その怯えきった声で、俺はようやくハッと我に返った。
「……羽奈」
俺は、川で流されていく子供と、岸辺で泣き叫ぶ母親、そして隣で震える羽奈を交互に見た。
心臓が早鐘のように打ち鳴らされている。激しい葛藤が脳内を駆け巡る。
(俺は……ここで、羽奈を守るって決めたんだ。もう二度と、あいつと同じ過ちを繰り返すわけにはいかない)
もし俺がここで飛び込んで、また死んだら。
羽奈は今度こそ、本当に一人きりになってしまう。あんなにも泣いて「おかえりなさい」と言ってくれた妹を残して死ぬなんて、絶対にやってはいけないことだ。
俺はギリッと奥歯を噛み締めた。
見捨てるべきだ。助けを呼ぶとか、岸からロープを投げるとか、自分が死なない方法を探すべきだ。
(でも……目の前で死にかけてる子供を見捨てて……俺は、羽奈と笑って生きていけるのか……?)
脳裏に、あの真っ白な空間が浮かんだ。
ずぶ濡れの学ラン姿で、「僕の代わりに妹を守ってください」と深く頭を下げた、十七歳の彼の顔が。
――あいつなら、絶対に見捨てねえ。
自分の命が惜しくて子供を見捨てるような奴なら、最初からあんな自己犠牲なんて選んでいない。
俺がここで背を向けることは、あいつの気高い魂に対する最大の裏切りだ。
俺は、持っていた空のペットボトルを地面に落とし、しゃがみ込んで羽奈の小さな両肩をガシッと掴んだ。
「羽奈。よく聞け」
「だめっ! お兄ちゃん、行かないで! いやだ!」
俺のただならぬ決意を感じ取った羽奈は、顔を真っ青にして首を横に振った。
俺は、三十二歳の大人の強さと、兄としての究極の優しさを総動員して、力強く微笑みかけた。
「大丈夫だ。俺は絶対に戻ってくる。お前を置いて、死んだりしねえよ」
俺は立ち上がり、羽奈の背中を近くにいる泣き崩れた母親のほうへと向かわせた。
「おばさんと一緒に、ここで待ってろ! 絶対に川に近づくな!」
「お兄ちゃぁぁぁぁん!!」
羽奈の泣き叫ぶ声を背に受けながら、俺は靴を脱ぎ捨てた。
怖い。トラウマで足の震えが止まらない。
でも、俺は行く。
「俺は神代真だ! 二度目の命、無駄にはしねえぇぇッ!!」
俺は、渦巻く濁流の川に向かって、迷わずダイブした。
ザバァァァンッ!!
「ぐっ……! 想像以上に流れが速え……!」
水中に飛び込んだ瞬間、ものすごい水流に体が持っていかれそうになった。
視界は茶色い泡にまみれ、上下の感覚すら奪われそうになる。
トラウマによるパニックが喉元まで這い上がってくるのを、社畜時代に培ったクソ意地と根性だけでねじ伏せた。
「動け! 動け俺の身体! あの子に追いつけ!」
必死に水を掻き、水面に顔を出す。
数メートル前方を、浮き沈みしながら流されている子供を発見した。
「いたっ! おい、頑張れ! 今行く!」
「ごぼっ……たず……け……」
子供は水を飲み、完全に沈みかかっている。
俺はクロールで必死に進もうとするが、濁流の強烈な勢いに何度も押し返された。
「くそっ……! 進まねえ!」
波に顔を打たれ、視界が泥水で塞がれる。
体力が急速に奪われ、限界が近づいていた。
(息が……腕が、鉛みたいに重い……)
焦燥感が胸を焦がす。
(だめだ……届かねえ……。俺一人じゃ……)
意識が遠のきかけたその時。
もし、あの流されているのが羽奈だったら、という最悪の想像が脳裏を過った。
(もしアレが羽奈だったら……俺はここで諦めるのか?)
否。絶対に諦めない。
十七歳のあいつは、濁流の中で必死に子供を投げ上げた。
(あいつは諦めなかった。最後まで、命を燃やしたんだ!)
俺はカッと目を見開き、再び水面から顔を出して吠えた。
「諦めるかぁぁッ!!」
その時だった。
岸辺のほうから、甲高い声が聞こえた。
「お兄ちゃん!!」
見れば、羽奈が岸辺ギリギリのところまで走り、俺が落とした一リットルの空ペットボトルを振りかぶっていた。
涙で顔をくしゃくしゃにしながら、力いっぱいペットボトルを川へ投げ入れる。
「これ、使ってぇぇッ!!」
ポンッ、と。
俺の数メートル先の水面に、ペットボトルが着水した。
「ペットボトル……! 羽奈が、投げてくれたのか!」
俺は最後の力を振り絞って右手を伸ばし、流れてきたペットボトルをガシッと掴み取った。
「よしっ!」
ペットボトルを胸に抱え込むと、確かな浮力が体を支えてくれた。
これならいける。浮きがあれば、あともう少し前に進める。
俺はペットボトルの浮力に助けられながらバタ足で進み、ついに沈みかけた子供のそばに到達した。
「捕まえたっ!!」
水中で、子供の細い腕をガシッと掴む。
絶対に離すかよ。俺は子供を抱え上げて水面に出し、大きく息を吸い込んだ。
「ぷはっ! 大丈夫だ、もう大丈夫だからな!」
だが、その直後。
俺の顔が、極度の苦痛に歪んだ。
「ぐぁっ!? 足が……っ!」
無理な体勢で濁流に逆らい続けた代償。右足のふくらはぎが限界を迎え、激しく攣ったのだ。
激痛で足が全く動かなくなる。水流に揉まれ、容赦なく口の中に泥水が入り込んできた。
俺は、ペットボトルごと子供を抱きかかえ、岸に向かって思い切り押し出した。
「そこだっ……! 岸の大人に捕まれ!!」
岸に集まっていた大人たちが手を伸ばし、俺が押し上げた子供の手を引っ張り上げるのが見えた。
「よし、子供は引き上げたぞ!!」
大人たちの安堵の声が聞こえる。
よかった。助かった。
だが、子供を思い切り押し上げた反動と、足が攣って泳げなくなった影響で、俺自身は川の中心の、最も流れの速い激流へと引きずり込まれていた。
「……っ!」
顔が水面に沈んでいく。周囲の音が、急速に遠のいていく。
(……あ、やべえ。体力が……一ミリも残ってねえ……)
もう、指一本動かせない。
光の届かない冷たい水の中へ、深く、深く沈んでいく。
(……ごめんな、羽奈)
ゆっくりと、目を閉じる。
(二人で助けたのにな。ゴメン、絶対に戻るって、約束したのに)
視界が暗闇に染まる。
俺の意識は、プツンと途切れた。
(また……死ぬのか……俺……)




