第4話:ただいま、羽奈
重い。
真っ暗な泥水の中の奥深くへと、ゆっくり沈んでいくような感覚だった。
だが、息苦しさはない。代わりに、膨大な量の『情報』が、脳のひだに直接書き込まれていくような、ぐわんぐわんとした目眩が襲ってくる。
(……ここは?)
ぼやけていた視界が、不意にパッと開けた。
目に飛び込んできたのは、無機質で真っ白な天井と、ジージーと微かな音を立てる蛍光灯。そして、鼻の奥をツンと突く、むせ返るような消毒液の匂い。
「――はぁっ、はぁっ……!」
俺は、弾かれたようにベッドの上でガバッと上体を起こした。
肩で息をしながら、自分が糊の効いた病院の寝巻きを着ていることに気づく。
恐る恐る、自分の両手を目の前にかざしてみた。
キーボードを叩きすぎて指にタコができている、タバコ臭い三十二歳のオッサンの手じゃない。節が目立たない、細く、若々しい十代の手がそこにあった。
「マジで……生き返った。あの、高校生の体で」
手の中には、確かな血の巡りと熱がある。
幽霊だった時の、あの空気を掴むような虚無感はない。
「痛ッ……!」
不意に、頭をハンマーで殴られたような鈍痛が走り、俺は両手でこめかみを押さえた。
「なんだこれ。頭の中に、ものすごい量の記憶が……っ」
フラッシュバック。
授業中の退屈な風景。友人たちと買い食いしたコロッケの味。徹夜で挑んだテスト勉強。両親の葬式で見た、黒い服の大人たちの冷たい視線。
そして、小さな手のひらを握りしめ、夕焼けの帰り道を歩く記憶。
「あいつの、十七年分の人生……!」
記憶は全てある。あいつが何を見て、何を感じてきたのか、知識としてはっきりと脳に刻まれている。
だけど、それはまるで『他人の映画のダイジェスト』を見せられているような、奇妙な感覚だった。
俺の自我は、間違いなく『三十二歳の神代真』だ。納期に追われ、上司に媚びを売り、コンビニ弁当で胃を壊していた社畜の俺だ。
でも、今現在の場面に通訳のように十七歳の彼の記憶が乗っかってきて……自分の輪郭がブレていくようで、頭がおかしくなりそうだった。
俺は、バクバクと嫌な音を立てる胸を強く掴んだ。
「この、溢れてくる『妹への強烈な愛情』は、俺のものか? それとも、彼の感情か? 分からねえ……」
その時。
ガラッ、と病室のドアが勢いよく開いた。
「お兄ちゃん……!」
息を切らして立っていたのは、小柄な少女――十一歳の羽奈だった。
記憶の中にある姿そのままの、大きな瞳を持った可愛らしい妹。
「は、羽奈……」
ビクッと肩を震わせ、俺は咄嗟にオッサンの反応をしてしまった。
羽奈は泣きそうな顔でベッドに駆け寄ろうとして――ピタッと、不自然に足を止めた。
何かに違和感を覚えたように、俺の顔をじっと見つめている。
「……あれ?」
(やばい、中身が三十二歳のオッサンだってバレたか!?)
俺の額を、ツーッと冷や汗が伝う。
長年連れ添った兄妹の直感というやつだろうか。纏っている空気のオッサン臭さを嗅ぎ取られたのかもしれない。
羽奈は、小脇に大事そうに抱えていた一冊のファンタジー小説を取り出し、胸の前でギュッと抱きしめた。
「……お兄ちゃんじゃ、ないの?」
その震える声と、古ぼけた小説の表紙を見た瞬間。俺の脳裏に、強烈な記憶がフラッシュした。
それは十七歳の真が、毎晩のように羽奈の枕元で読み聞かせていた本だった。勇者が魔王を倒しに行く、王道のファンタジー。
そして、真っ白な空間で、「代わりに妹を守ってください」と微笑んだ少年の顔が重なる。
(……そうだ。俺は、あいつに託されたんだ。俺が狼狽えてどうする)
俺は一つ、ゆっくりと息を吐き出した。
社畜時代に身につけた愛想笑いでも、不器用なオッサンの顔でもない。
三十二歳の俺の覚悟と、十七歳の彼の愛情を混ぜ合わせた、最高に優しくて穏やかな笑顔を作った。
「……ああ。本物のお兄ちゃんはね、今、魔王を倒しに行ってるんだ」
羽奈は目を丸くして、手元の本と俺の顔を交互に見た。
「魔王を……?」
「そうだよ。この本みたいにな」
俺はベッドから身を乗り出し、羽奈の目線に合わせて真っ直ぐに見つめた。
「だからその間……俺がこの体を預かって、君を守ってくれって。お兄ちゃんに言われたんだ」
「ほんと……?」
羽奈の大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちる。
俺は、決して目を逸らさずに頷いた。
「ああ。絶対に守る。約束する」
次の瞬間、羽奈は持っていた本を放り出し、ベッドに飛び込んで俺の胸に力強くハグをしてきた。
「……うぇっ、ひっく……お兄ちゃんの匂いがする……!」
「おわっ」
「大好きっ……! わぁぁぁぁん!!」
俺の胸に顔を押し付け、大声で泣きじゃくる羽奈。
最初は驚いて両手を宙に浮かせてしまった俺だったが、やがて、その小さな、折れそうなほど細い背中にゆっくりと手を回した。
「なんだ、これ……」
俺の目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
胸の奥が、ひどく熱い。
さっきまで、どっちの感情か分からず戸惑っていたのが嘘のようだ。
オッサンとしての戸惑いも、彼の記憶の残滓も、全てが熱となって溶け合い――完全に一致して、やっと『本当に生まれ変わった自分』になった感覚があった。
「……ただいま、羽奈」
「おかえりなさい、お兄ちゃん……っ!」
窓の外からは、明るい朝日が病室に差し込んでいる。
俺は腕の中の小さな温もりを確かめるように抱きしめながら、突き抜けるような青空を見上げた。
(なあ、十七歳の俺。そっちの世界はどうだ?)
脳裏に、剣を持ち、ボロボロのマントをなびかせた彼が、巨大なモンスターと対峙している後ろ姿を想像する。
勇者で侯爵なんて大層な身分、しがないウェブデザイナーだった俺には到底無理だが、お前なら……きっと上手くやっているよな。
(俺も、こっちで上手くやるさ。お前の宝物は、俺が命に代えても守り抜く)
俺の目に、かつての死んだ魚のような濁りはない。
(三十二歳のオッサンの意地、見せてやるよ)
▽ ▽ ▽
数時間後。
俺の身体を診た初老の医師は、カルテと俺の顔を交互に見ながら、ずっと首を傾げっぱなしだった。
「心肺停止状態だったのに……後遺症一つないなんて、奇跡としか言いようがない」
「はは……ご心配おかけしました」
私服に着替えた俺は、苦笑いでお茶を濁すしかなかった。
まあ、神様のミスと魂の入れ替えの結果なんだが、そんなオカルトを信じる医者はいないだろう。
会計待ちの長椅子。隣に座る羽奈は、俺の服の裾を嬉しそうにぎゅっと握っている。
「さてと、退院の手続きも終わったし、帰るか羽奈」
「うん! 叔父さん、今日はお仕事だからお金だけ置いてあったの。二人でお家帰ろ!」
羽奈の無邪気な言葉に、俺は少し大人の、冷静な目つきで脳内の記憶を探った。
(……そっか。十七と十一の子供二人を引き取って、高校まで通わせるなんて、並の苦労じゃねえよな)
甥が死にかけて退院する日すら休めないくらい、身を粉にして働いてくれているのだ。
俺は申し訳なさに視線を落とした。本来なら、「そんなになるまで働かせてすいません」って頭を下げるべき大恩人だ。
「よし、せっかくだ。途中でなんか美味いモンでも食って帰るか」
「えっ? でも、お兄ちゃんお小遣いないでしょ? 新聞配達もお休みしてるのに」
俺は再び記憶に触れ、目を細めた。
(……そうだった。あいつ、叔父さんの負担を減らすために、新聞配達で稼ぐから小遣いはいらないって、自分から断ってたんだ)
なんて健気で、出来た高校生だよ、ホントに。
それに引き換え、俺の三十代の薄汚れた人生といったら……いや、今は比べる時じゃない。
俺は羽奈に向かってニカッと笑い、サムズアップを作って見せた。
「大丈夫大丈夫。お兄ちゃんに任せとけって」
病院のエントランスを出ると、見上げるような青空と、巨大な入道雲が広がっていた。
深く息を吸い込む。夏の匂いがした。
神代真、三十二歳改め十七歳。
羽奈としっかりと手を繋ぎ、前を向いて歩き出す。
二度目の人生、絶対にこいつを守り抜いてやる。




