第3話:理不尽な定めと、魂の譲り合い
「ふざけんな……」
俺の口から、低く掠れた声が漏れる。
脳裏に焼き付いたフラッシュバック――濁流に飛び込み、見ず知らずの子供を岸へ放り投げて沈んでいった少年の姿。
それが目の前にいる十七歳の『神代真』の最期だと理解した瞬間、腹の底からドス黒い怒りが沸点に達した。
「おい神。俺の手違いってのはもういい。俺のバグは仕様ってことで諦めてやる」
俺は光を放つ幾何学模様にズカズカと歩み寄り、凄んだ。
「だから、俺はいいからこの子を元の世界に戻してやれ。システムエラーなんだろ? だったらバックアップから復元するくらい、神様ならできんだろうが!」
だが、巨大な幾何学模様は、まるでエラーメッセージを返すプログラムのように、抑揚のない冷たい声で答えた。
『不可能だ』
「不可能じゃねえだろ! 俺の話じゃねえ、この子の方だ! 俺の体は火葬されて灰になったかもしれないが、こいつの体はまだあんだろ!」
俺が唾を飛ばす勢いで食い下がっても、神の光は微かに明滅するだけで、その無慈悲なトーンは一切変わらない。
『この少年が地球で生きる運命は、一度死を迎えた時点で既に断ち切られている。我ら神より上位の定めだ。覆らん』
「ふざけんなッ! 何が定めだ!」
俺は神に向かって腕を振り上げ、空間いっぱいに響き渡る声で吠えた。
「こんないい子を新しい魂の材料にして切り捨てて、世の中のクソみたいな連中は野放しかよ! 納期も守れねえバカや、人を使い捨てにする経営者みたいな奴らがのうのうと生きてて、なんでこんな……ただ誰かを助けようとしただけの子供が死ななきゃなんねえんだ! お前ら神なんて、何の役にも立たねえな!」
息を切らし、肩で風を切る俺の背後で。
「……いいんです。おじさん」
静かな、水滴が落ちるような声が響いた。
振り返ると、ずっとうつむいていた十七歳の少年が、ゆっくりと顔を上げるところだった。
「お前……」
全身ずぶ濡れの少年の顔には、死に対する恐怖や、理不尽への怒りは一切なかった。
ただ、年齢に似合わないほど達観した、穏やかな表情を浮かべていた。
「仕方ないのは分かりました。俺の運命がここまでだったってだけです。でも……」
穏やかだった少年の瞳に、初めて強い悲痛の色が滲んだ。
濡れた学ランのズボンの横で、彼の両手が白くなるほど強く握りしめられている。
「俺には、十一歳の妹がいるんです。羽奈っていうんです。両親は早くに死んで、叔父さんの家に身を寄せてるんですが……」
少年は言葉を詰まらせ、唇を噛んだ。
「俺がいなくなったら、あいつが一人になっちゃう。夜勤明けでも、俺たちのために無理して働いてくれてる叔父さんにも、これ以上負担をかけられない。……どうか」
少年は、俺に向かって深く、深く頭を下げた。
「どうか……僕として代わりに、妹を守ってください」
ドクン、と。
俺の心臓が――いや、魂そのものが、強く叩かれたような気がした。
「お前……こんな状況で、自分のことじゃなく妹を……」
三十二年間、乾ききった砂漠のような日々を生きてきた。
理不尽は飲み込むものだと思っていたし、他人のために命を懸けるなんて、ドラマの中だけの綺麗事だと思っていた。
なのに。
俺の目から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
泣くなんて、いつぶりだろうか。俺は乱暴に袖で目元を拭った。
「……馬鹿野郎。オッサンを泣かせるんじゃねえよ」
俺は涙を拭い、再び鋭い目つきで神を睨みつけた。
「おい神。地球で生き直すのが無理なら、異世界なら何とかなるのか?」
ファンタジー小説やアニメでよくある設定だ。別次元なら、魂の規格外の移動も可能なんじゃないか。
俺の問いに、神の光がチカチカと不規則に点滅した。
『……可能だ』
「おおっ! じゃあ俺はそこで良いからさ、早くこの子を地球に戻してやってよ!」
俺なんかが、この真っ直ぐな少年の人生を奪うわけにはいかない。
だが、神の無慈悲な宣告は、そんな俺の希望をあっさりと打ち砕いた。
『送れるのはその子だ』
「……は?」
『先ほども言った通り、この少年が地球で生きる運命はもう無い。別の次元へ移すほかない』
俺は絶句した。
「なんだと……? じゃあ、どっちにしろこの子は地球には戻れねえってことか? やっぱり妹は一人になるじゃねえか!」
俺は頭を抱え、必死に思考を回した。
なんとかエラーを回避する裏技はないのか。仕様の穴を突く方法はないのか。
「なあ、何か裏道はねえのか? 妹の運命を変えるとか、俺の魂の残機をこいつに分けるとか……!」
食い下がる俺の肩に、そっと手が置かれた。
少年の手だった。透き通るような冷たさのはずなのに、不思議と温かく感じた。
「ありがとうございます、おじさん」
少年の顔からは、先ほどの悲痛な色は消え去り、憑き物が落ちたような清々しい笑みが浮かんでいた。
「俺、そこで生きて行きます」
「お前……」
「ただ、羽奈……十一歳の妹が心配だから。おじさんに、俺の身体を使ってほしいんです。お願いします」
真っ直ぐな瞳。一点の曇りもない、純粋な願い。
俺は大きく鼻をすすると、覚悟を決めて力強く頷いた。
「……わかった。任せろ」
引き受けた以上、絶対にやり遂げる。それが、しがないウェブデザイナーとしての、三十二歳のオッサンの最後の意地だった。
俺は神に向き直り、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「神様よ。俺の手違いのお詫びだ、俺と彼になんか寄越せ。手ぶらで放り出すなんて、天下の神様がそんなケチな真似はしねえよな?」
慰謝料請求だ。ブラック企業から未払い残業代をもぎ取る気概で、俺は要求した。
神の幾何学模様が、ゆっくりと回転を始める。
『……よかろう。お前には「交換」の権能を与えよう』
直後、神から俺の胸へ向けて、一筋の温かい光が撃ち込まれた。
『値段が付くもの、価値があるものならば、どれとでも何とでも等価で交換できる力だ』
「交換? 例えば、百円のジュース飲みたいなら、釣った魚でも、道端のアルミ缶でも、価値が百円分あればいいってことか?」
『肯定だ。価値が釣り合えば制約はない』
俺は悪党のような顔を作り、ニィッと口角を上げた。
「……拳銃とか、そういうヤバいモンとも交換できんのか?」
『ああ』
その言葉を聞いた瞬間、俺は力強くガッツポーズをした。
「ッシャア! 使えるぜ!」
三十二歳にもなって不謹慎かもしれないが、男というのはこういうチート能力の響きには子供みたいに喜んでしまう生き物なのだ。
これなら、どんな状況でも妹を守れる確率は跳ね上がる。
俺はハッとして、隣の少年を指差した。
「で、この子には?」
神の横の空間が、メリメリと音を立てて裂け、異世界へと続く眩いゲートが出現した。
『彼はシューバ皇国という次元の「勇者召喚」の枠に乗せる。向こうの神から、凄まじい権能を貰えるはずだ。地位も保証される。勇者であり、侯爵としての待遇を受けるだろう』
「侯爵様か。そりゃあいい」
俺は安堵して大きく息を吐いた。
「お前みたいな奴なら、立派にやれるさ。勇者でも何でも、絶対トップに立てる」
ゲートの強烈な光に吸い込まれかけながら、少年は最後に振り返り、俺に向かって深々と頭を下げた。
「おじさん、羽奈のこと……妹を、よろしくお願いします!」
「おう! あっちでも達者でな、俺!」
俺が力強く手を振ると、少年は光の中に溶けるように、完全に消滅した。
彼を見送った俺に、神が向き直る。
『では、お前も送ろう。これよりお前は、地球における「十七歳の神代真」だ』
フッと、白い空間の光が消えた。
意識が重い泥の中に沈んでいくような感覚。他人の人生の記憶が、膨大なデータとして脳内にダウンロードされていく。
――ドクン、ドクン。
暗闇の中で、心音が大きくなっていく。
それは、間違いなく『俺』の命の鼓動だった。




