第10話:魔境
視界は、完全な真っ黒だった。
無音の闇の中。ドクン、ドクンという、自分のものらしき心音だけが鼓膜を打っている。
(……ん……着いた、か……?)
深い泥沼から意識が浮上してくるような感覚。
最初に強烈に訴えかけてきたのは、視覚ではなく『嗅覚』だった。
(……なんだ、この臭い。湿った土と……ツンと鼻を突く獣の……)
いや、それだけじゃない。
三十二年間、平和な日本で生きてきた俺でも本能で理解できる、最も忌避すべき臭い。
(鉄の……血の臭い……?)
重い瞼をこじ開ける。
ぼやけた視界が徐々にピントを結ぶと、そこは鬱蒼と生い茂る不気味な巨木に囲まれた森の中だった。
木々の隙間から覗く空には、不吉な赤黒い月がぽっかりと浮かんでいる。
「……っ、あ……」
声を出そうとした瞬間、口の中からゴボッと鉄の味がする生温かい液体が溢れ出した。
「がはっ……!?」
むせ返り、思わず自分の身体を見下ろして、俺は息を呑んだ。
視界に映ったのは、まだ十代前半くらいにしか見えない、細く華奢な少年の身体だった。腕には奇妙な紋様があり、頭には小さな硬い突起――角のようなものが生えているのが手触りでわかる。
(体がちいせえ……。それに角が生え……ぐっ)
そんな悠長な観察は、直後に襲ってきた圧倒的な『絶望』によってかき消された。
「は……? 腹が……破れてる……」
少年の着ていたボロボロの布の衣服は、赤黒く染まりきっていた。
俺の腹部は、鋭い巨大な爪のようなもので真一文字に破り裂かれ、信じられないほど大量の血と、内臓の一部がこぼれ出そうになっている。
「ぎ……あああぁぁぁっ!!」
視覚で自分の致命傷を認識した途端、遅れて強烈な激痛が全身の神経を駆け巡った。
身体がエビのように反り返り、痙攣が止まらない。
周囲の状況は最悪だ。
のどかなファンタジーの平原なんかじゃない。ここは血の匂いが漂う、凶悪な魔境の森の真ん中だ。
(ここが……転生先……!? いきなり、致命傷のバッドエンドじゃねえか……っ!)
神の野郎、いくら遠く離れた魔境だからって、もう少しマシな状態の死体を用意できなかったのか。
いや、それよりも。
「は、な……羽奈……どこだ……」
俺は薄れゆく意識の中で、血を吐きながら必死に首を動かした。
視線の先。俺の手が届きそうなすぐ隣の地面に、一人の女性が倒れているのが見えた。
「……っ!」
その女性は、全身の肌にひどい火傷の痕――焼けただれた痛々しい傷を負っていた。
だが、その顔立ちは人間離れした美しさで、長く尖った耳を持っていた。間違いなく、ファンタジー世界のエルフだ。しかも、まだ幼い羽奈とは違う、見事なプロポーションを持った大人の美女。
(エルフ……? いや、あの髪の癖……羽奈、なのか……!?)
俺は激痛に耐え、泥と血にまみれた右手を必死に伸ばした。
「……羽奈……! おい、起きろ……!」
俺の声に反応し、エルフの美女が「……う、ん……」と微かな声を漏らし、ゆっくりとまぶたを開けた。
焦点の合わないエメラルドグリーンの瞳が、小さくなった俺の姿を捉える。
「……お兄、ちゃん……? ううん……マコナル……?」
その声の響きには、十一歳の羽奈の面影が確かにあった。
俺は腹の傷から血を吐きながらも、安堵の笑みを浮かべた。
「よか、った……生きて……」
だが、次の瞬間だった。
羽奈の瞳の色がスッと変わり、何か新しい記憶が混濁したような、ひどく困惑した表情に変わった。
「あ……あれ……?」
羽奈は、火傷を負った自分の大きな胸や、すらりとした長い手足を見た。
そして、傍らで血の海に沈んでいる、小さな鬼人の俺を見て、激しく混乱したように目を見開いた。
「ちがう……お兄ちゃんじゃない……私、お姉ちゃん……?」
ドクン、と。
彼女の中で、二百年を生きたエルフの『大人の姉』としての母性と過保護モードが、システムのバグのように突然覚醒した。
「ダメよ真! そんなにお腹から血を流して! お姉ちゃんが守ってあげるからね!」
羽奈は、火傷の痛みも忘れたように身を起こし、血まみれの俺をガバッと抱き寄せた。
豊かな胸の谷間に、俺の顔が押し付けられる。
「痛い痛い痛い! ちょっ、お前何言って……お前が妹で、俺が兄で……!」
激痛と混乱でツッコミが追いつかない俺の頭を、羽奈は動く方の手でヨシヨシと猛烈な勢いで撫で回してきた。
「大丈夫! お姉ちゃんが甘やかしてあげるから!……あれっ? なんか違う? でも可愛いからいいや!」
「何が『兄妹』だ、『姉弟』じゃねかあああ!! あんのポンコツめええええ!!」
元の記憶と肉体の記憶が混ざり合い、完全にキャパオーバーを起こしているらしい。
俺は自分の腹の傷を押さえながら叫んだが、羽奈は構わず俺の頭をさらに強く胸に押し付けてくる。
「いいの! お姉ちゃんに任せなさい!」
「ぐえっ! 息が……やめろ、死ぬ、ガチで死ぬ!」
柔らかな感触に溺れている場合じゃない。マジで物理的に窒息しそうになったその時。
ズシン、ズシン。
森の奥から、腹の底に響くような重い地響きが近づいてきた。
「……っ!」
周囲の巨木をなぎ倒し、視界の開けた場所に姿を現したのは、サイほどの巨体を持つ四つ足の魔獣だった。
全身が刃物のような凶悪な鱗に覆われ、その隙間からは赤黒い炎がメラメラと噴き出している。
「グルルル……!!」
魔獣が、血の匂いを嗅ぎつけてゆっくりとこちらに首を向けた。
それを見た羽奈が、短い悲鳴を上げた。
「きゃあああっ!」
だが彼女は震えながらも、焼けただれた痛々しい身体で、俺を庇うようにスッと前に出たのだ。
「こ、来ないで! お兄ちゃんには指一本触れさせないんだから!」
お姉ちゃんモードなのか妹モードなのかブレブレだが、その細い背中は、間違いなく俺を守ろうとしていた。
俺は腹の傷から血を流しながら、自嘲気味に笑った。
(……たく、ポンコツ姉ちゃんが。無理すんな)
前世で社畜としてすり減り、川で溺れて二回も死んだ。
だが、この三十二歳のオッサンの魂の奥底には、まだギラついた生存本能が残っている。
(ふざけんな。ここで死んでたまるか)
俺は、震える右手を虚空に向かって伸ばした。
神からもらった『交換』の権能。
「交換だ……俺の口座残高、四十万全部持ってけ!!」
俺の脳内で、インターフェースのリスト画面がものすごい勢いでスクロールし、前世の遺産である残高が凄まじい速度で減っていく。
俺の咆哮が、魔境の森に響き渡る。
「医療キットと、アイツを殺せる武器を出せェッ!!!」
俺の伸ばした手から、目を眩ませるほどの強烈な光が放たれた。




