55 決断の時
待ち合わせ場所に指定された庭園のガゼボに行くと、その人は先に来て待っていた。
「やぁ、ロジーから誘ってもらえるなんて光栄だね」
若様がファッサァ…と髪をかき上げる。
その気障な――けれど優しい笑顔に、胸がきゅっと苦しくなる。だけど、言わないわけにはいかない。
「あの、若様。この前のプロポーズのお返事を……。ごめんなさい、私やっぱり――」
若様の指先がそっと私の唇に触れた。
「その先は必要ないよ。勝ち目はないとわかっていたけれど、求婚せずにはいられなかったんだ。困らせてごめんね」
私は無言でかぶりを振る。
困ってなんか……いや、口説かれたり求婚される度に困惑したのは事実だけど、同時に若様の存在に救われていたのも確かなのだ。若様がいなければ、私はきっと、今の私ではなかっただろうと思う。
「ありがとうございます、若様。私、若様のことが好きです。恋愛的な意味ではないですけど……」
そう言うと若様は小さく目を瞠り、「はぁぁ……」と深いため息をついた。
「本当に罪作りな人だなぁ、ロジーは」
「あっ、ご、ごめ――」
「いや、謝らないで。その言葉だけで十分だよ」
若様が微笑む。それから私の髪を一房取り、唇を寄せた。
「……もしも先に出会えていたらと、思わなくはなかったけれど……。それでもきっと、彼には敵わなかったんだろうな」
若様がちらりとガゼボの外に目をやる。
「そろそろ君を、お返しした方が良さそうだ。君のご夫君はずいぶんと心配性なようだからね」
若様の視線の先を見れば、アドルファスがこちらに歩み寄ってくるところだった。
「え、ご夫君って――」
「フィリップ殿、聖女ロジーをお借りしてもいいだろうか」
「ええ、もちろん。ちょうど話が終わったところです」
若様は私の手を引き、ガゼボから外に出る。その手をアドルファスに引き渡すと、おもむろにその場に跪き、深く頭を垂れた。
「アドルファス・デュアー将軍閣下、ならびにロザリンド夫人」
私は小さく息をのむ。若様、気づいていたんだ……。
「ディウドの街と我らをお救いくださったこと、改めて感謝申し上げます。このフィリップ・バロウ、この御恩を決して忘れず、これより先はお二人に心からの忠誠を捧げる所存です」
アドルファスも驚いた様子で目を見開いたが、すぐに表情を改めた。
「……貴殿の忠心、確かに受け取った。顔を上げてくれないか。俺の方こそ礼を言わねばならない。妻がたいへん世話になった」
アドルファスが若様に手を差し出す。
「勿体なきお言葉です」
若様がその手を取り、立ち上がる。二人が固い握手を交わすのを、私はなんだか泣きそうな気持ちで見守ったのだった。
「……彼は良い男だな」
若様が立ち去り、ガゼボのベンチに二人並んで腰を下ろす。
「ええ、いい人だと思います。ちょっと気障ですけどね」
恭しい態度から一転、ファサッと髪をかき上げ「お幸せに」とウィンクをして去っていった若様を思い出し、思わず笑みがこぼれた。
「少し妬けるな……」
そう呟くアドルファスの拗ねたような顔に、胸がキューンと高鳴った。はわわ、と両手で口を覆う。
(推しが焼きもちを焼いてる⁉ えっ、その顔可愛い! どうしよう、ちょっと嬉しいかも……って、いやいや、それは置いといて!)
コホンと一つ咳払いをする。
「えっと、それはともかく。これからの話をするんですよね?」
「ああ。だがその前に、あなたに謝らなければならないことがある。魔の森で川に流された時のことなんだが……」
アドルファスが気まずそうに言葉を切る。
「あなたの呼吸を確保するために口付けをした。無断ですまない。決して疚しい気持ちではなかったんだが……」
「ん……? ああ……!」
あの時、意識が戻る前にアドルファスにキスされる夢を見たけれど、あれって夢じゃなかったのか! キスというか人工呼吸だけど。というか、本当に死にかけてたんだ、私……!
「いえ! むしろ助けてもらってお礼を言わなきゃいけないくらいです! それにその、キス……嫌じゃない、ですし……」
思わずこぼれ出てしまった本音に、かぁっと頬が熱くなる。アドルファスが片手で口元を覆い、わずかに眉間に皺を寄せた。
「ロザリンド……そんな可愛らしい顔でそんなことを言われると、勘違いしそうになる」
「えっと、勘違いじゃない、です、よ……?」
上目遣いでごにょごにょ言うと、アドルファスが眉間の皺を深くし、はぁぁとため息をついた。
「我慢していたのに……本当にあなたには敵わない」
アドルファスの青の目に火が灯った。壮絶な色気を帯びたその目と、視線が絡む。長い指が私の髪を漉き、頬を撫でる。唇をなぞられたかと思ったら、待ち望んでいた口付けが落とされた。
初めは啄むような穏やかなキス。彼の背中に手を回すと、それに応えるようにキスが深くなった。抱き寄せられ、何度も深く情熱的に口付けられる。全身が幸福感と熱に満たされる。
頭の芯が痺れ、息があがりかけた頃、ようやくアドルファスは私の唇を解放した。
「……ロザリンド」
抱きしめていた腕をゆるめ、アドルファスがまっすぐに私を見つめる。
「俺の子を……ロウェルを産んでくれてありがとう。知らなかったとはいえ、あなた一人に苦労をかけてしまった。本当にすまなかった……」
苦しそうに眉を下げるアドルファスに、ぶんぶんと首を振って見せる。
「ううん、ハンナさんとダンさんがいてくれたから……」
初めての出産と育児。ハンナさんとダンさんがいなければ、きっと途方に暮れていたことだろう。苦労がなかったとは言わないけれど、あの二人がロウェルを孫のように可愛がってくれたおかげで、本当に楽しく子育てすることができたのだ。
「それに、謝らないといけないのは私の方です。私の身勝手で、あなたからロウェルとの時間を奪ってしまった……」
生まれたばかりのロウェルの、しわくちゃな顔と小さな手。初めて目が開いた時の青色の美しさ。
寝返り、おすわり、ハイハイ、つかまり立ち。
初めてしゃべった言葉は「まんま」だった。ママのことだと信じているけど、もしかしたらごはんのことかもしれない。母乳をよく飲み、離乳食もばくばく食べる、食いしん坊な子だったから。
笑った顔。泣いた顔。穏やかな寝顔。
たくさんの可愛いロウェルが、私の記憶の中にいる。たくさんの思い出がある。
だけど、そんなロウェルとの思い出を、アドルファスは一つとして持っていないのだ。私がアドルファスの元を去ったせいで。
写真も動画もない。失った時間は二度と戻らない――。
(そっか……私って、本当に悪い妻だったんだ。悪妻、全然退場できてなかったんだ……)
俯く私の頬に、アドルファスが手を添える。
「これから取り戻させてほしい。夫としても、父親としても」
アドルファスの声が優しく囁く。けれど私は俯いたまま、すぐに頷くことができなかった。
「……俺は予定通り、明日の朝この街を発って王都に戻らなければならない。……あなたは、どうする?」
一緒に来てほしいと、頬に触れた手から伝わってきた。
一緒に行きますと、言えたら良かった。
(ごめんなさい。やっぱり私は悪い妻です……)
私はある決意を胸に顔を上げる。アドルファスの青の瞳を見つめ、口を開いた。
「私は――」
翌朝、日の出と共に、アドルファスはナサニエルを伴い、王都に向けてディウドの街を出立した。
私はロウェルを胸に抱き、それを門の前で見送った。
「……本当に良かったのかい? 一緒に行かなくて」
ハンナさんが気づかわしげに私を見る。私は笑顔を作り、それに応えた。
「はい。ちゃんと話し合って決めたことなので……」
そう、これは私が決めたことなのだ。アドルファスは文句も言わず受け入れてくれた。寂しいなんて言う資格は、私にはない。
笑顔の裏に寂しさを隠し、私は遠ざかっていくアドルファスの後ろ姿を、その姿が完全に見えなくなるまで見つめ続けたのだった。




