11:ルビンの壺
テラスに出ると、静かな夜が広がっていた。満月の月明かりが闇を照らしている。緩やかなワルツが室内からわずかに聞こえる。そよそよと流れる風の温度が、秋の訪れを感じさせた。
少し肌寒く思ってアイリは後悔していたが、それはすぐに解消された。ユリウスが着ていたジャケットを彼女の肩にかけたのだ。
「…ありがとう」
「いえ」
片手でジャケットの前を合わせるように持った。布地に移った彼の香水を感じる。
室内から一番遠いテラスの柵のところまで行って、二人は並んで立っていた。ここまで離れていれば、誰かに話を聞かれることもないだろう。
しばらく無言で夜風に吹かれる。沈黙を破ったのは、アイリだった。
「イーヴさんから聞きました。その…昔馴染みだって」
誰にも聞こえないとは思っていたけれど、あんまり大っぴらに話すのもどうかと思って、アイリは言葉を濁した。それでもちゃんと意味は伝わったようで「そう」とユリウスから返事が戻ってくる。
アイリは俯きながら、少しずつ言葉を紡ぐ。先ほどまで妨害され続けた思考を取り戻すかのように、話ながら自分の気持ちを整理していった。
「教会でお話してから、私なりにいろいろ見聞きしました。ユリウスさんの言ったこと、本当なんだろうなって。イーヴさんのお友達だし、そこは信じます」
アイリはこれまで見てきた光景に想いを馳せた。彼女はこの数日、“事件調査”と称して実際はユリウスの語った内容の裏付け調査を行っていた。イーヴやシャルルから詳しく話を聞いたり、救貧院を訪れてみたり、貧民街を視察してみたり。そこには目を背けたくなるような惨状があった。
うん、とユリウスが相槌を打った。ゆっくり話すアイリに合わせて、次の言葉を待っている。
「確かにこの国には、虐げられる人が作られてしまう構造が存在してました。根本を変えない限り、解決しないんでしょう。でも…」
白状するとでもいったように、アイリは満月に顔を向け、深呼吸を一つ挟んでから続けた。
「私ね、他人のために行動するとか、そういうのよくわからないんです。元の世界でも、自分のことで精いっぱいで他人のことなんか気にすることができなかった。ルノアール王国に来てからも…事件の調査だって、自分の生活費のためだったし。そんな私が、急に正義の味方気取り?税金で気ままな生活しておいて?なんか、虫が良すぎないかなって…そんな資格あるのかなって、思うんです」
月明かりが照らす彼女の表情は、自嘲の色が見える。まだ悩んでいるのか、話しながら考え、考えながら話し続けた。
「じゃあだからって、今みたいに酷い状況が許せるのかって言ったらそんなことなくて…何だろう。…あー。つまり…たぶん私、どっちにもいい顔したいだけなのかもしれない。どちらかを選ぶことで、必ずもう一方は不幸になる…不幸にしてしまった人からは恨まれるかもしれない。ああ、そうだ。恨まれるのが怖いんです、たぶん。聖女という立場的に身の危険が及ぶことは、おそらくないんでしょうけど。それよりも恨まれる…悪意を持たれる方が怖い、のかな。嫌われたくないというか…ごめんなさい、まだちゃんと整理できてなくて」
アイリは苦笑いをしてごまかす。自分でも何が言いたいのかよくわらなくなっていたのだ。相談したいのか、懺悔したいのか、それすらはっきりしない。
眉をハの字にして笑顔を作る彼女は、自分に情けなさを感じていた。
しかしこれを聞いたユリウスは「ふむ。」と真剣に考える。そして彼女が次の言葉を発さないのを確認してから、話し始めた。
「周りからどう思われるかって、そんなに大切かな?」
「え」
「ルビンの壺って知ってる?」
「…あ、ああ。だまし絵の…?」
急に話題が変わって一瞬アイリの思考が停止するが、すぐに何の話か見当がついた。
彼女は自分がやられてみて初めて気づいた。急に元の世界の話題が出るのは、なるほどびっくりする。頭の切り替えが追いつかないのだ。
「そう。一つの絵が見方によって、壺に見えたり人の横顔に見えたりするやつ。君もわかってるみたいだけどさ…ルビンの壺みたいに、同じ出来事でもそれをどう解釈するかって人によって違うんだよね。人は自分に都合よく出来事を解釈する。これから俺たちがやろうとすることも、救われる人からは有難がってくれるだろうし、失脚する奴らからすれば迷惑極まりないはずだ。それは見る人の立場や思想で変わるんだ」
ユリウスは手振りをしながら話し続ける。なるべく平易に、疑問が残らないように気をつけて話していた。
「こっちの意思なんか関係ないんだよ。親切のつもりでもそれが望まれてなければ大きなお世話だし、嫌がらせでもそれで助かったなら感謝される。他人からの評価なんてそんなもん。つまり、自分でコントロールのできない問題。考えるだけ時間の無駄。…だったらそんなこと気にせず、自分のやりたいことやるのがスマートだと思わない?俺だって、何も慈善活動がしたいからやってるんじゃない。俺が助けたいと思ってるから助ける。両親の無念を晴らしたいと思ってるから晴らす。生きやすい社会を作りたいから作る。それだけ。俺の行動に意味をつけるのは、俺以外の人間が勝手にやればいい」
きっぱり言い切る。そして、アイリに向かってニコッと笑いかけた。
「気に入らなければ突っぱねるしな」
(…そっか、受け取らなくてもいいんだ…)
アイリにとって、これは新しい価値観だった。
実の親に罵られ、自尊心をマイナスまで削られて育った彼女は「他人の言ったことは正しい、自分の考えは間違っている」という強迫観念に知らず知らず駆られていた。
いや、知らず知らずというのは不正確かもしれない。彼女にはある程度は自覚があって、努力してそれを克服してきた部分もあるのだが…心を殺す言葉というのは、無意識に作用する。克服したと思っても、本人の気付かないところで傷が残ってしまう。精神に深く刻まれた傷は、ある種の呪いとなって残り続けるのだ。
それを癒すには、新しい価値観を得て生き方をアップデートしていく必要がある。彼女にとって、今がまさにその瞬間だった。
「今回のことでいえばさ、別に君がどちらを選ぼうが選ぶまいが、変わらないよ。選ばずにいても恨まれるかもしれないし、選んだことで感謝されるかもしれない。逆もしかりだけどね。でもそれは君がどうにかできる問題じゃないんだ。…ここまで伝わってる?」
ユリウスが呼びかける。
ここでアイリは、自分が一つも相槌をしていないことに気づいた。一言たりとも聞き逃すまいと集中しすぎて、リアクションするのを忘れていたのだ。
コクコク、とアイリは素早くうなずく。小動物みたいな細かな動きで、可愛いなとユリウスは思った。
「君はさ、どうしたいの?」
「…どう、したい…」
「そう。周りがどうとかじゃなくて、君がどうしたいか。よかったら教えてよ」
そう言われて、アイリは困り果てた。急に「周りがどうとかじゃなく」と言われても、どうしたら気にせずにいられるのかわからない。気にしたくて気にしているのではなく、本人の意思とは関係なく気になってしまうのだ。
(…でも、ここで変わろうとしなかったら、一生変われないかもしれない…「できないからって諦めてしまったら、何もできないまま」、だよね)
アイリは直感的にそう思った。だから、わからないなりに考え…
「私は…」
考え、考え、言葉を絞る。他人の声に引っ張られそうになる思考に抗いながら、懸命に考える。ジャケットをつかむ手に、少しの力が入った。
ユリウスはその様子を見守っている。
やがてアイリはおずおずと、つっかえつっかえではあったが、最後までしっかり言い切った。
「決めつけられた生き方をしたく、ない。…自分で、生きる道を決めたい。それができる世界を生きたい」
満足そうにユリウスが笑う。彼は男でも女でも、頭のいい人物が好きだ。素直に受け取り、考え、すぐに吸収する彼女の姿は、仕事を抜きにしても好ましく思えた。答え自体が重要なのではない。新しい知識で自分で考え、自力で答えを出したというそのこと自体が尊いのだ。
彼は右手を差し出した。
「素敵な考えだね。もしよかったらそんな世界を作るパートナーに、俺を選んでもらえると嬉しいんだけど」
アイリは差し出された右手を見つめる。
不思議と彼女には確信があった。
ユリウスにはいくらか打算的なところがあっても、根っこの部分で人に真摯に向き合える人物だ。そうじゃなかったらあんなに素直に笑うこともないだろうし、イーヴと友人関係でいることもできないだろう。
彼の話術なら、アイリを言葉巧みに丸め込んで仲間に引きずり込むこともできたはずだ。だけどそれをしないのは、相手を尊重する姿勢があることに他ならない。
彼のここまでの行動を見て、アイリはそう評価していた。
それに復讐であっても、「できるだけ血を流したくない」と彼は言った。平和的に解決する方法があるなら、それが一番だろうともアイリは思った。
右手から上へ視線を向けると、ユリウスと目が合った。
軽く首を傾げて笑いかけてくるが、特に催促する様子もない。ただアイリの選択を待っている。保留といえば、きっと返事を決めるまで待ってくれるだろう。
(信じよう、この人を)
アイリは心を決めた。
この手を取ることで、敵対してしまう人もできるだろう。悪意を向けられるかもしれないのは今でも怖いけど…それでも今は、目の前の男の言う建設的でポジティブな意見の方を信じたいと思えた。
ジャケットを左手で押さえながら、右手をゆっくり上げ、アイリはユリウスの手を握った。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
返事をしながら、ユリウスはぎゅっと手を握り返した。
意外に大きい手の平に少し驚いたが、アイリも少しだけ力を入れ、頷いて応えた。
二人の手が離れて、また沈黙が訪れた。
話し始めたのは、またもやアイリだった。
「国を滅ぼした聖女の話は何度か聞いたけど…国家転覆をもくろむ聖女なんて、今まで他にいたのかな」
「どうだろう。…まぁ、良い聖女のやることではないのは確かだな。正直とんでもない誘いをしてるとは思ってるよ。でも、ありがとう。俺を信じてくれて嬉しいよ」
「…本当に、血を流すことになるのだけはやめてくださいね。エゴかもしれないけど、陥れてしまう人達が不幸なままで終わってほしくないから」
アイリは念を押す。ユリウスはそれに笑顔で答えた。
「大丈夫。それは君が協力してくれることでクリアになるよ。次の週末、さっそく作戦会議といこうか。詳しくはそこで説明するから…そうだ」
何かを思い出したのか、ユリウスはまるで初めて挨拶をするかのように、アイリに向かって恭しくお辞儀をした。
「改めまして、俺はジュリアン・エルミート。みんなはリアンって呼んでる」
「それが、ユリウスさんの本名?」
「そう。次に会う時は、よかったら君もそう呼んで」
秋風に二人の髪が軽くそよぐ。
国家転覆への第一歩が進んだ瞬間だった。
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