第9話 思い知らされた
「洸先輩、私がどこに行ってたか、変な想像してたんじゃないですかぁ? きもぉ」
戻ってきた紗奈の開口一番がそれだった。
「そんなこと考えてないよ」
「えー? つまんないですねぇ。そんなんじゃ一生、童貞——」
「紗奈、いい加減にしろよ。先輩に失礼だろ!」
二人のやり取りが見ていられなくて、つい強い声が出てしまった。
紗奈の笑顔が固まる。彼女は一瞬だけ俺を見てから、すっと目を伏せた。
「……すみません。和真先輩を嫌な気持ちにさせてしまうなんて、思わなくて……」
「いや……」
そうじゃない。
そんなふうに謝ってほしいわけじゃない。
なんで俺には、もう悪態をついてくれないんだ。
胸の中でそう叫びながら、俺は何も言えなかった。紗奈の隣では、御手洗先輩が彼女を気遣うように見つめている。
「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい」
紗奈は怯えたように肩を震わせ、うつむいた。
「ごめ……違うんだ、紗奈。怒ってるわけじゃない」
うまく言葉にできずにいる俺に代わって、御手洗先輩がそっと紗奈の肩に手を添えた。
「紗奈ちゃん、大丈夫だよ。和真君は怒ってないから」
御手洗先輩の声を聞き、紗奈の震えが少しずつ収まっていく。
「洸先輩……そう言って、私に触りたいだけでしょ? きもぉ」
声はまだかすかに震えていたが、紗奈は先輩を見上げ、いつものように悪態をついた。
その様子を見て、俺は思い知らされた。
俺が肩に触れたとき、紗奈は怯えて身を引いた。けれど、御手洗先輩に肩を触れられても、逃げようとはせず、受け入れている。
紗奈の心には、俺が思っていた以上に、あの一件の傷が残っているのかもしれない。
先輩は、そんな彼女のそばで、ずっと優しく支えてきたのだろう。
紗奈がいつもの調子で悪態をつけるのも、今は先輩の前だけ。
この二人の間に、もう俺が入り込む余地はない。
そう感じてしまった。
「ごちそうさまです、御手洗先輩。予定があるので、先に失礼します」
そう告げて、俺は席を立った。
「もう行っちゃうのかい?」
「これ以上いたら、二人の邪魔にもなりそうなので」
正直、これ以上は見ていられなかった。
紗奈が自分のものになるかもしれない。そんな期待を抱いていた自分が、急に恥ずかしくなった。
後悔があるとすれば、紗奈がまだ俺に好意を示してくれていた頃、きちんと向き合わなかったことだ。
紗奈が人との距離をうまくつかめないことに、もっと早く気づいていれば。そばにいてやれていたら――あの一件も、起きなかったのだろうか。
そんなことを考えても、もう遅い。
俺は、ひなたに続いて紗奈まで失ってしまった。
きっと二人が、俺のところに戻ってくることはない。
俺も、次に進まないと。
ふと、瑞希会長の顔が浮かんだ。
そういえば、生徒会に誘われていたんだった。時間を持て余しているくらいなら、入ってみるのもいいかもしれない。
生徒会に入れば、何か変わるかもしれない。
そんな期待を抱きながら、俺は会長に返事をすることにした。
◇◇◇◇◇
翌日の昼休みに、俺は生徒会室を訪ねた。
「瑞希会長、先日のお話なんですが……」
「書記の件か?」
凛とした佇まいの瑞希会長は、今日も綺麗だった。窓から差す光を受けて、艶のある黒髪がきらめいている。整った顔立ちも、すっと伸びた背筋も、思わず見惚れるほどだった。
「はい。俺、やっぱり生徒会に入ろうと思います」
会長は一瞬、申し訳なさそうに目を伏せた。
「すまない。実は、つい先日、欠員の補充が決まってしまったんだ」
「そ、そうなんですか……」
返事を先延ばしにしていたのは俺だ。仕方がないと分かっていても、胸の奥が少し沈んだ。
「こちらから誘った以上、できれば和真君の返事を待ちたかった。だが、生徒会の仕事が滞り始めていてな」
会長の視線の先では、一人の男子生徒が書類を整理していた。俺に気づくと、手を止めて丁寧に頭を下げる。
「新しく書記になった、須藤君だ」
「一年の須藤健です。よろしくお願いします」
「よ、よろしく」
小柄で、どこか頼りなさそうにも見える少年だ。けれど、書類を一枚ずつ確認する姿からは、真面目さが伝わってくる。
「須藤君はほかの生徒からの推薦もあってな。本人も熱心で、ぜひ生徒会の力になりたいと言ってくれたんだ」
須藤君は少し照れくさそうに笑った。
「まだ不慣れなところもあるが、これからに期待している」
「会長の期待に応えられるよう、精一杯頑張ります。まだ分からないことばかりですけど、生徒会の力になりたいです」
生徒会に入りたいと決めたときには、もう遅かった。
「そうですか。俺が返事を延ばしてしまったんですから、仕方ないですね」
「すまないな、和真君」
会長は申し訳なさそうに言った。
「その埋め合わせというわけではないが、放課後、少し付き合ってくれないか?」
「は、はい」
瑞希会長からの誘いに、胸が躍った。




