第6話 好きなのかもしれない
「水をかけられたのが……紗奈?」
「はい。いじめられてる子って……私なんです」
打ち明けられた事実に、俺はすぐには言葉を返せなかった。
目の前の彼女に、いつものからかうような笑みはなかった。気まずそうに目を伏せている。
「……俺、てっきり逆だと……」
「そう思われても仕方ないですね。私、先輩にもずっとひどいこと言ってましたし」
「いや……別にそんなこと」
俺が返事に迷っていると、紗奈は廊下の先へ目を向けた。教室から、生徒たちの声が聞こえてくる。
「ここだと、話しにくいですね」
「場所を変えるか?」
「はい。できれば、誰も来ないところがいいです」
紗奈に案内され、俺たちは屋上へ向かった。
フェンスのそばに腰を下ろした彼女は、膝の上で両手を組んだ。
「それで……何があったんだ?」
尋ねてもすぐには答えず、しばらくうつむいていた。
「私、昔から人と話すのが苦手なんです。緊張すると、言いたいことがうまく出てこなくて……。逆に、思ってもないことを言っちゃうときもあって。そんなつもりじゃなかったのに、相手を怒らせてしまったり……」
俺の前では、いつも何かにつけて悪態をついていた。だから、人と話すのが苦手だなんて考えたこともなかった。
あの生意気な言葉も、本心とは限らなかったのだろうか。
目の前でうつむく紗奈は、いつもよりずっと頼りなく見えた。
「それで、いじめられるようになったのか?」
「最初は、ちょっとからかわれるくらいでした。でも、だんだん無視されたり、悪口を言われたりするようになって……」
紗奈は膝の上で組んだ指に、ぎゅっと力を込めた。
「この間は、中学から一緒の子たちに急に呼び出されて……女子トイレで言い争いになって、水をかけられたんです」
話し終えた紗奈の大きな瞳には、涙が浮かんでいた。
「……紗奈」
うつむいたまま、小さな身体を震わせている。
「でも、そのとき助けてくれたのが洸先輩なんです」
先輩の名前を口にすると、紗奈の震えが少しずつ収まり、表情にも明るさが戻った。
「騒ぎに気づいて先生を呼んでくれて……そのあとも、私が一人にならないように、ずっとそばにいてくれました。洸先輩が来てくれなかったら、私……どうなっていたか」
その顔を見た瞬間、胸の奥がざわついた。
さっき廊下で見た、御手洗先輩を楽しそうにからかう紗奈の姿がよみがえる。
「紗奈がそんなことになってたのに……何もしてあげられなくてごめん」
「先輩が謝ることじゃないですよ。私にも悪いところはあったと思います」
「そんなことない。困ったことがあったら、なんでも俺に言ってくれ」
紗奈がつらい思いをしていたと知った今、そばにいて力になってやりたい。そう思うのは当然だ。
口を開けば俺を小馬鹿にしてくるが、悪い子じゃない。生意気に笑いながらからかってくるところも、可愛いと思っていた。
きっと俺が助けなきゃいけなかったのに。
たまたま通りかかった洸先輩が助けてしまった。
「紗奈……もう大丈夫だから」
俺は彼女の肩に優しく触れた。
「ひゃっ!」
紗奈は短い悲鳴を上げ、逃げるように身を引いた。
肩をすくめ、震えながらこちらを見つめている。
「ごめん、紗奈。そんなつもりじゃなくて……」
「違うんです、和真先輩」
紗奈は視線を伏せたまま、かすれた声で続けた。
「まだ、誰かと近づくのが怖くて……」
「そう……だよな」
紗奈は、あの一件でまだ心を痛めている。俺を拒んだわけじゃない。今は無理に近づかない方がいいのだろう。
そう自分に言い聞かせ、俺は行き場を失った手を下ろした。
◇◇◇◇◇
次の日もその次の日も、紗奈は家の前に来なかった。
心配で連絡は取っている。けれど、返ってくるのは「大丈夫です」「ご心配をおかけしてすみません」といった、よそよそしい言葉ばかりだった。いつもの憎まれ口は、まだ聞けていない。
そばにいてやりたい気持ちはあった。それでも、今は一人でいたいのかもしれない。そう考えて、俺から会いに行くのは控えていた。
気づけば、俺は毎日のように紗奈のことを考えていた。
ひなと大和が付き合い始めてから、俺の頭の中はそのことでいっぱいだった。けれど、紗奈のことを考えている間だけは、ひなたちのことを忘れられた。
早く元気になって、また俺を「ざぁこ」と罵ってほしい。そんな日が来るのが、いつの間にか待ち遠しくなっていた。
紗奈の声が聞きたい。あの生意気な顔を、もう一度見たい。
俺は、紗奈のことが好きなのかもしれない。
そう考えると、胸の奥が少しだけ熱くなった。




