第18話 取り返しのつかない大罪
その夜、ベッドで一人うずくまっていると、玄関のチャイムが鳴った。
しばらくして、階下から母さんの声が聞こえてくる。
「ひなちゃん、いらっしゃい。和真なら部屋にいるわよ」
「ありがとうございます。お邪魔します」
昔から家族ぐるみの付き合いで、ひなたがうちに来るのは珍しいことじゃなかった。
階段を上がってくる足音が、俺の部屋の前で止まる。
「かずくん。入ってもいい?」
その声に、俺はゆっくりと身を起こした。ベッドの端に腰を下ろし、閉じた扉を見つめる。
なんで……今さら、俺のところに来るんだ。
「入るな……もう俺に関わるな」
「関わるなって……どうして?」
扉がゆっくりと開き、ひなたが心配そうに顔を覗かせた。
「入るなって言っただろ!」
「ご、ごめん……でも、どうしても気になって」
「いいから帰ってくれ」
「学園でも元気がなかったし……乃亜ちゃんとも、何かあったんじゃないの?」
その名前を聞いた途端、苛立ちがこみ上げた。
「ひなには関係ないだろ!」
「そんなこと言わないで。私、かずくんが心配なんだよ」
「お前には大和がいるだろ。俺のことなんか放っておけよ」
ひなたの表情が曇る。
「かずくん……何があったの?」
帰ってくれと言ったのに、ひなたは俺のすぐ隣に腰を下ろした。少し身をかがめ、うつむく俺の顔を覗き込んでくる。
「別に、なんもねぇよ」
「じゃあ、どうしてそんな言い方するの?」
顔を背けても、ひなたの視線は離れなかった。
昔からよく知っている、俺を心配するときの顔。
それを今さら向けられるのが、たまらなく苦痛だった。
「ひなは、俺のことが好きだったんだろ」
「え……?」
一度口にしたら、もう止まらなかった。
「ずっと俺のそばにいたくせに。大和と勝手に付き合ったりして……」
「かずくん……」
ひなたは何かを言いかけ、俺の顔を見ると口を閉じた。
わずかな沈黙のあと、そっと目を伏せる。
「わかった……やっぱり私、帰るね。あんまり無理しないでね」
そう言って、ひなたは俺の手にそっと自分の手を重ねた。
けれど、そのぬくもりが離れかけた瞬間、俺は反射的に彼女の手首をつかんでいた。
「待てよ」
「痛いよ、かずくん」
帰れと言ったのは俺なのに。
このままひなたが行ってしまうのが、怖かった。
今、この手を離したら、本当に一人になってしまいそうで。
引き止めたくて、つかんだ手を引いた。
軽く引いたつもりだった。
けれど、力の加減を間違えたのか、ひなたはバランスを崩してベッドへ倒れ込んだ。俺もつられて体勢を崩し、とっさに彼女の身体の脇へ手をつく。
気づけば、ひなたに覆い被さる格好になっていた。
すぐ目の前で、ひなたが目を見開いている。頬は赤く、その瞳にはうっすらと涙が滲んでいた。
「ち、ちがう……これは……!」
「ほんと……冗談になってないよ……?」
すぐに退くべきだったが、潤んだ瞳でこちらを見つめるひなたから目を離せない。
さっき、大和とキスをしていたひなたの姿が頭をよぎる。つややかなその唇が、今は妙に色っぽく見えた。
…………ひなた。
「かずく――っん」
ひなたが何か言おうとした瞬間、唇で塞いでいた。
彼女が身をよじっても、俺は唇を離さなかった。
「んんっ……ん」
柔らかくて、温かくて、甘い香りがした。
唇を離すと、彼女は浅く息を継いだ。
「っん……か、かずくん……自分が何してるか分かってるの?」
軽蔑されても、突き飛ばされてもおかしくない。それなのに、ひなたは悲しそうな顔で、優しく語りかけてくる。
長年の付き合いだから、こんな俺でも見捨てられないのだろうか。
「今なら……なかったことにするから。ね、お願い……もう離して」
俺の……初めてのキスだった。
それを、なかったことにする。
そんなの、嫌だ。
もう、引き返せない。
俺はひなたが欲しい。
少し緩んだ首元から、上気した肌が覗く。
ひなたって、こんなに可愛かったのか。
俺は彼女の言葉も聞かず、ベッドに押しつけるように再び唇を重ねた。
「んんっ、いやっ、ちょっと、かずく……ん、むぅぅっ、ん……」
逃れようとするひなたを離さず、俺は強引に唇を重ね続けた。
そのまま、ひなたのシャツに手をかける。
「かずくん……もうやめて。今は私、大和くんの彼女なんだよ?」
大和の彼女。
その言葉が、胸の奥に刺さった。
ひなたの身体は、もう彼氏である大和に触れられているのかもしれない。
俺で、全部塗り潰さなきゃ。
「ひな……ひな……」
何度呼びかけても、ひなたは顔を覆ったまま何も答えなかった。
ついさっきまで「やめて」と訴えていた声も、やがて途切れた。
「俺……ひなのことが好きなんだ……」
抵抗するのもやめて、俺に身を委ねているようだった。
「優しくするからさ……ひなも俺のこと好きだろ……?」
ひなたの頬を優しく撫でる。
しかし、聞こえるのはひなたの浅く乱れた呼吸だけだった。
それでも俺は、最後まで止まらなかった。
ひなたと繋がった。
甘い匂い。柔らかな身体。
ずっと一緒にいたのに、知らなかった幼馴染の姿。
我に返ったときには、すでに手遅れだった。
ひなたはベッドの上で、声を押し殺して泣いている。
その泣き声を聞いた瞬間、自分がいかに下劣であるかを思い知った。
俺は、ひなたの初めてを……無理やり奪ってしまった。
自分の欲望を押しつけ、取り返しのつかないことをした。その事実が、重くのしかかる。
ひなたに……消えない傷をつけてしまった。
こんなことをしてしまった俺に、もう居場所なんてない。
俺は……すべてを失った。




