第2話 生きるために
そのことに気づいた瞬間、僕は激しく咳き込んだ。喉が焼き切れそうな痛みに悶えながら、唾液だけを床に吐き出す。それでも、息は吸えていた。
(生きてる? 助かったのか……ここは病院なのか?)
「……美桜?」
なにも返事はかえってこない。見知らぬ木の壁と、鼻を突く異臭。外から男たちの怒声が響く。
「なんで拘束しねぇんだ?」
「ただのガキだろ。俺がさっさと始末してやる」
足音が近づいてくる。立ち上がろうとしたが脚がもつれ、壁に手をついた。入口から入ってきた中年風の男は、汚れた服の腰に手斧を下げている。
「ここ……どこですか? 一緒にいた女の子は——」
「知らねぇよ」
「僕、川に落ちて……っ」
「うるせぇなぁ」
男の手が手斧の柄にかかる。息が止まった。何もしていないのに、なぜ。
「ま、待って……!」
後ずさった踵が壁にぶつかる。男は手斧を抜くと、面白そうに首を傾げた。
「何する気ですか……」
「始末だよ」
押し倒され、床に背中を打ちつける。馬乗りになった男が、首元へ冷たい刃先を押し当ててきた。皮膚に鋭い痛みが走る。
「ひっ……ごめんなさい! やめて……ッ!」
男の腕を押し返そうとしても、びくともしない。死の恐怖に視界が歪む。床を這わせた右手が、硬い何かに触れた。
それを無我夢中で握りしめる。
「嫌だぁぁぁっ!!」
握りしめた何かを、男の顔面へ叩きつけた。
「ぐぁっ!?」
鈍い衝撃。のけぞった男の隙をつき、首元から刃が離れた瞬間に身を起こす。だが、男はすぐさま手斧を振り上げていた。
「このクソガキがぁっ!」
「ひっ!」
咄嗟に振り下ろされる腕へしがみつく。振り払おうとする力に引きずられながら、それでも離さない。
「離せっ!」
「嫌だ! 嫌だっ!」
指が弾かれそうになるたび、死の恐怖で力を込める。もみ合ううちに手斧が男の手から滑り落ちた。床に転がったそれを、男より早く掴み取る。
振り抜いた。
刃が男の首元に食い込み、生温かいものが頬に飛ぶ。
「がっ……!」
首を押さえながらなおも伸ばされる手を振り払うように、もう一度、手斧を叩きつけた。
「来るなっ! 来るなぁっ!」
止めることなど出来なかった。
男がまだ動いている。まだ殺される。恐怖に突き動かされるまま、何度も刃を振り下ろした。
「はっ……はっ……はっ……」
気づいたときには、男は動かなくなっていた。
手斧が指からこぼれ落ちる。その場にへたり込んだ視界の中で、制服も手も、床まで赤く汚れていた。
「……嘘だ、いや夢だ。こんなの夢に決まってる」
返事はない。肩へ伸ばしかけた手を、途中で止める。
僕が、この人を——。
(殺した)
その認識が脳裏を焼いた瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
「——ッ!?」
熱い。身体の奥底へ、ドクドクと何かが流れ込んでくる。
「ぅあ……うあぁぁぁああっ……!!」
頭を抱え込んで絶叫した。
耳からではない。頭の中に直接、見知らぬ景色と感情が無理やり押し込まれてくる。
誰かを殴りつける感覚。怒鳴り声。手斧を握る掌の感触。
知らない。こんなもの、僕は知らない。
「やめ……ろ……!」
思考が塗りつぶされていく。僕のものではない誰かの記憶が、暴力的に身体へ溶け込んでいく。
「やめろぉぉぉっ!!」
「どうした?」
入口から別の男が顔を覗かせた。倒れた男と血まみれの僕を見て、目を見開く。
「……ガキ! お前がやったのか!?」
「ひっ……ち、違う! この人が殺そうと——」
「死ねぇぇぇ!」
話を聞く気なんてない。男が短剣を抜き、一気に距離を詰めてくる。立ち上がるより早く、刃が迫った。
(殺される)
そう思った瞬間、身体が勝手に動いた。
足元の手斧を拾い、迫る短剣を柄で受ける。甲高い金属音が弾けた。
「え……?」
男が大きく目を見開く。
僕も同じだった。
こんな動き、知らない。それなのに身体は止まらない。短剣を押し退け、そのまま男の懐へ踏み込む。
気づけば、手斧を振っていた。
「がっ……!」
刃が男の腹へ食い込む。手斧を引き抜くと、男は腹を押さえながら崩れ落ちた。
握ったままの血糊が付いた手斧を見る。
できるわけがない。喧嘩だってまともにしたことがないのに——今の動きを、僕の身体だけが知っていた。
「……ここ、やばい。逃げなきゃ」
手斧を握りしめたまま、小屋を飛び出した。
(なんなんだよ……このクソテンプレみたいな世界は)
外には似たような木造の小屋がいくつも並んでいた。遠くで怒鳴り声が上がり、反射的に近くの小屋の外壁へ身を寄せる。
「おい! 今の声なんだ!?」
「向こうだ!」
何人もの男たちが、さっきまで僕がいた場所へ駆けていく。
見つかったら確実に終わる。
息を殺し、手斧を胸元へ引き寄せた。身体の震えが止まらない。
(母さん……美桜……)
頼むから、夢なら早く覚めてほしい。
「みーっけ」
「——ッ!」
振り向くと、長剣を携えた男が立っていた。
「おっと、安心しな」
「え……?」
男が笑いながら剣を抜き放つ。
「久々の獲物だ。ちょうど試し斬りしたかったんだよなぁ」
一歩づつ、距離を詰めてくる。
「ひひっ、俺の独り占めだぁ」
男が長剣を振り下ろす。
「うわっ!」
咄嗟に横へ転がった。直後、刃が地面を叩く。
「いいねぇ。斬りがいがあるよ」
男が歪んだ笑みを浮かべて僕を見ている。
「だけど、足元がお留守だ!」
低く払われた刃が迫る。
避けられない——そう思った瞬間、また身体が跳ねた。
手斧の柄を刃へ添え、その軌道を外へ逸らす。
「なっ——!?」
「馬鹿な! お前、一体——」
男の驚愕を置き去りに、身体はすでに懐へ滑り込んでいた。
手斧を振り抜く。
腕に重い感触が返ってきた。
刃が首元へ食い込み、その勢いのまま男の身体がぐらりと傾く。
「がっ……」
男がその場の地面に崩れ落ちる。
僕の身体は、それを確認するようにようやく止まった。
「はっ……はっ……」
荒い息を吐きながら、胸元を押さえる。
心臓が激しく脈打っている。
まただ。
僕が考えるより先に、身体が勝手に動いて全部やってしまった。
「あークソッ、気持ちが悪い……」
自分の身体なのに、自分じゃないみたいだ。
(でも……これで逃げられる)
顔を上げる。小屋の向こうに細い抜け道が見えた。
あそこまで行ければ——。
「いたぞ!!」
思考と身体のすべてが凍りついた。
「こっちだ! ガキがいるぞ!」
怒鳴り声が飛び交う。
一人、二人——違う。
小屋の影から、武器を手にした男たちが次々と姿を現す。
「あ……」
逃げ道だと思っていた細い道の先にも、男たちが立ち塞がる。
手斧を握り直す手が大きく震える。
十人どころじゃない。
僕を囲むように、男たちが集まってくる。
「クソガキが! 三人も殺しやがって!」
「おい!簡単に殺すなよ。手足をもぎ取って、いたぶってから殺してやる」
歪んだ笑い声が交錯する。
もうどこにも、逃げ場なんてなかった。
手斧を構えようとしても、腕に力が入らず、持ち上がらなかった。
一人の男ゆっくりと距離をつめてくる。
「まずは、その手からだな」
「や、やめ……」
剣が振り上げられた。
逃げなきゃ。
そう思っているのに足は震えて動かない。背後にはもう逃げ場もなく、ただ迫ってくる刃を見上げることしかできなかった。
刃が振り下ろされた——その瞬間。
「……え?」
何が起きたのか分からない。
目の前にいた男が、倒れている。
笑い声が途切れた。
男たちが一斉に振り返る。
その奥に、異様な影が立っていた。
全身を包む重厚な黒い甲冑。
背丈ほどもある、巨大な大剣。
騎士——なのだろうか。
「ゴミ虫どもめ」
低い声が響く。
「ひとかたまりになって、掃除が楽だ」
「な、なんだとぉ……!」
「お、おい……あれ……黒騎士じゃ……」
男たちがざわめく間もなく、黒い騎士が大剣を構えた。
「殺せぇぇぇ!!」
男たちが一斉に襲いかかる。
次の瞬間、黒い光が走った。
「——ッ!?」
耳をつんざく轟音。
何人もの身体がまとめて吹き飛び、小屋の壁へ叩きつけられる。
何が起きた。
分からない。
「囲め! 囲めぇ!」
怒号が飛び交う。
男たちは黒い騎士を取り囲もうとしている。
なのに——。
「ぎゃっ!」
「ぐぁぁっ!」
大剣が振るわれるたび、人が倒れる。
剣を受けた男ごと、その後ろにいた男まで吹き飛んだ。
別の男が背後から斬りかかる。
黒い騎士は振り向きもしない。
黒い光が弾けた。
「がぁぁぁぁっ!!」
あたりに響きわたる悲鳴。
焦げた臭い。
男たちが次々と倒れていく。
「ば、化け物……!」
「逃げろ!」
さっきまで僕を囲んでいた男たちが、一斉に逃げ始めた。
黒い騎士は追わない。
ただ、大剣を地面へ突き立てる。
何を——。
黒い光が地面を走った。
「うわぁぁぁぁぁっ!!」
逃げていた男たちが、次々と倒れていく。
立っている者が減っていく。
十人。
五人。
もう、数えることもできなかった。
「た、助け——」
最後の声が途切れた。
静寂が戻る。
誰も立っていない。
血に濡れた地面の中で、ただ一人、黒い騎士だけが大剣を手に佇んでいた。
(助かった……?)
そう思った瞬間、黒い騎士の二つの赤い眼がゆっくりとこちらを向く。
大剣の切っ先が持ち上がった。
真っ直ぐ、僕に向かって。
End_is_Zéro_Project




