第1話 明日、話したい
放課後、いつもの教室に、箒の音だけが残っていた。
窓から差し込む西日が机の脚を長く伸ばし、廊下の向こうからは運動部の掛け声が聞こえてくる。さっきまで教室に残っていた生徒も一人、また一人と帰っていき、今は僕と美桜しかいない。
「ねえ蒼汰。これさぁ、どう考えても二人分じゃなくない?」
美桜が箒を止め、教室の後ろを振り返った。
机を寄せた床には消しゴムのかすや丸めたプリントが散っていて、窓際には誰かが飲んだ紙パックまで置きっぱなしになっている。
「……まあ、そうだね」
「そうだね、じゃないって。今日の当番、あと金田と内山いたよね?」
「いたけど、帰った」
「知ってる。目の前で帰ってったから言ってんの」
美桜は頬を膨らませながら、集めたごみをちり取りへ押し込んだ。
「『蒼汰やっといてー』って何? なんで蒼汰も普通に『分かった』って言うの?」
「だって、掃除しないと帰れないし」
「四人でやればもっと早く帰れたじゃん」
「それはそうだけど」
「でしょ?」
箒の先で靴を軽く小突かれる。
「蒼汰、そういうとこあるよね」
「どういうとこ?」
「面倒になるくらいなら、自分がやればいいやってやつ」
言い返そうとして、やめた。
嫌だと言えば揉めるし、怒れば面白がられる。どうせ最後は「冗談じゃん」で終わるなら、自分でやった方が早い。
「ほら、また黙る」
「……掃除しようよ」
「はいはい。蒼汰くんは真面目ですねー」
口ではそう言いながら、美桜の箒は止まらない。
「でもさ」
「ん?」
「あたしまでやる必要なくない?」
「……帰ってもいいよ?」
「は?」
美桜の眉が上がった。
「いや、美桜は今日、当番じゃないし」
「そういう意味じゃないんだけど」
「じゃあ、どういう意味?」
「もういい」
ぷい、と顔を逸らされる。
何を怒らせたのか分からないまま机の下から丸めた紙を拾っていると、少しして美桜が息を吐いた。
「蒼汰さ、もうすぐ16歳じゃん? ……明日さ、放課後ちょっと付き合って」
「明日?」
「うん。話したいことあるから」
「今じゃダメなの?」
「今はダメ」
「なんで?」
「ダメなものはダメ」
そう言って、美桜はこっちを見ない。
「……分かった」
「絶対ね?」
「分かったって」
ようやく振り向いた美桜が、少しだけ笑った。
◆
「……ただいま」
家に帰っても、返事はなかった。
靴を脱いで廊下を進むと、台所から細い水音が聞こえてくる。
テーブルには、開きっぱなしの仕事鞄が置かれていた。
その横には、畳まれていない洗濯物。
母さんは流し台の前に立ち、蛇口から水を流したまま、何をするでもなく俯いていた。
「母さん?」
呼ぶと、少し遅れて顔が上がる。
「……おかえり……」
「うん」
ぼんやりと僕を見たまま、母さんが口を開いた。
「……お腹空いてる?」
「……うん」
しばらくして、また同じことを聞かれた。
「……お腹……空いてる?」
「うん……」
「……ごめんね……」
誰に向けた言葉なのか分からないくらい、弱い声だった。
テーブルには、夜勤へ行く前に買ってくれたのだろう、コンビニの弁当が一つ置かれている。
(なんだよ……母さん、限界じゃん……)
言葉にはできなかった。
僕はしばらくその音がした方を見てから、テーブルの弁当に手を伸ばした。
◆
テレビをつけると、明るい笑い声が狭い部屋に広がった。
画面の向こうでは、同じくらいの年の連中がくだらないことで笑っている。言い合って、肩を叩き合って、それでも楽しそうだった。
弁当を食べながら、ぼんやり眺める。
僕じゃない誰かだったら。
もっと自分に強い誰かだったら、学校でも、母さんの前でも、もう少し何かできるんだろうか。
そんなことを考えていると、スマホが震えた。
『明日、忘れないでよ?』
美桜だった。
『忘れてない』
送ると、すぐに既読がつく。
『ほんとに?』
『ほんとに』
『じゃ、明日ね』
その下に、妙に楽しそうなスタンプが一つ。
僕は少しだけ笑って、スマホを伏せた。
◆
翌日の放課後。
「蒼汰、昨日は悪かったって」
鞄を持って席を立ったところで、背中から声を掛けられた。
振り返ると、昨日の掃除当番だった金田と内山の二人が立っている。
「……掃除?」
「そうそう。内山が帰ろうって言うから」
「だったら最初から帰るなよ」
「ちょ、俺のせいにしてんじゃねーよ」
内山が笑いながら、金田の肩を小突く。
「まあまあ。でもお前、美桜と二人で掃除できたんだろ?」
「お前なぁ……」
金田がにやっといやらしい顔つきで、僕の肩にするすると腕を回してきた。
「で? 蒼汰って美桜とどこまで進んでんの?」
「何もないって」
「ほんとかぁ?」
「うるせーし」
「蒼汰ー!」
教室の入口から美桜の声が飛んできた。
さっきまでの会話が途切れ、三人揃って声のした方へ顔を向ける。
鞄を肩に掛けた美桜が、こっちへ大きく手を振っていた。
美桜はそんな視線を気にする様子もなく、当たり前みたいに僕を待っていた。
「行こ」
「あ、うん」
「おっ!……お迎え来てんじゃ~ん」
「だから違うって」
「はいはい。ごゆっくりー」
「金田お前さぁ、絶対反省してねーだろ」
笑い声を背中に受けながら、美桜のところまで行く。
廊下へ出たところで、横顔を覗き込まれた。
「何か言われた?」
「別に」
「別に、の顔じゃないけど」
「本当に何でもないよ」
「……ふーん」
納得していない顔だったけれど、美桜はそれ以上聞かなかった。
「じゃ、行こっか」
「どこに?」
「ちょっと歩く」
「話って?」
「着いてから」
「昨日からそればっかりじゃん」
「いいの。ほら」
先に歩き出した美桜を追い、その横に並んだ。
◆
駅前を抜けて住宅街へ入っても、美桜は普段と変わらなかった。
コンビニの新作アイスが美味しかったとか、クラスの誰と誰がまた喧嘩したとか、そんな話ばかりしている。
「ねえ、美桜。結局、話って何?」
「まだ……もうちょっと」
「さっきも聞いた」
「いいじゃん。減るもんじゃないし」
「何が?」
「待つ時間」
「減ってるけど」
「あ、確かに」
美桜が堪えきれなくなったように、ふっと笑みをこぼした。
つられて僕も笑う。
街外れまで来ると建物が減り、川に架かる大きな橋が見えてきた。
「こっち」
「橋?」
「うん」
歩道を並んで進む。夕方の風が川の上を抜けて、美桜の髪を揺らした。
さっきまでずっと喋っていたのに、橋へ入ってから急に静かになる。
「……美桜?」
「なに?」
「いや、静かになったから」
「うるさいなぁ。ちょっと考えてんの」
「何を?」
「蒼汰にどう言おうかなーって」
「だから何を?」
「もう! ちょっと待ってってば!」
怒ったように前を向く。
美桜の耳が、ほんのり赤くなっていた。
「危ない!」
少し先で女性の声が上がった。
美桜と同時にそちらを見る。
橋の柵へ駆け寄った女性が、必死に腕を伸ばしていた。
「待って! 動かないで! お願いだから!」
その向こうに、小さな子どもがいる。
柵の外側。
張り出した狭い縁に足を乗せ、その子は泣きながら鉄柵へしがみついていた。
「え……」
思わず足が止まる。
鉄柵の向こうへ目をやると、遥か下には川が流れている。ここからでも、その高さが嫌というほどわかった。
落ちたら――。
「蒼汰!」
その声とほとんど同時に、美桜が駆け出した。
「え、美桜!?」
予想もしなかった行動に、反応が一瞬遅れた。
その間にも美桜は鞄を歩道へ放り出し、女性の隣まで駆け寄っている。
「あたしもやります!」
「でも、危ないから……!」
「一人じゃ届かないでしょ!」
美桜が柵のすぐ内側へ立ち、子どもへ手を伸ばす。
「大丈夫! こっち見て! 動かなくていいから!」
泣きながら震えている子どもが、美桜を見る。
けれど、届かない。
あとほんの少しなのに、美桜の指先は空を掴むばかりだった。
「蒼汰ぁ! 何してんの、早く!」
「……っ」
呼ばれて、ようやく足が動いた。
走って二人のところへ向かう。
「僕、何すれば――」
「こっち! あたしの横!」
美桜の右隣へ入る。
母親は反対側から子どもへ声を掛け続けていた。
「蒼汰の方が腕長いでしょ。手、伸ばして!」
「分かった」
柵に身体を寄せ、腕を伸ばす。
下を見ないようにした。
子どももこちらへ片手を伸ばしてくるが、届かない。僕がもう少し前へ出れば触れそうなのに、身体が動かなかった。
怖い。
柵がある。足元だって、ちゃんとした歩道だ。それでも身体の奥にある何かが、これ以上進むなと勝手に僕を止める。
「蒼汰ぁ! もっと手を伸ばしてよ!」
「わ、分かってる!」
美桜の声に押されるように一歩踏み込み、柵へ身体を寄せる。腹に硬い鉄の感触が当たった。
もう少し。
肩まで柵の外へ出すように身体を傾けると、子どもの指先がすぐそこまで近づく。
「そのまま! こっち!」
横から美桜が子どもへ声を掛ける。
僕は左手で柵を強く掴み、右腕をいっぱいに伸ばした。
あと少し――。
伸ばした指先に、小さな指が触れた。そのまま縋るように、僕の指へ絡みついてくる。
「届いた……!」
「蒼汰、そのまま!」
逃がさないように、その小さな手をしっかりと掴む。
今度は離さないように、手首までしっかり握った。
子どもの身体が少しだけこちらへ寄る。
「大丈夫、大丈夫だからね!」
母親の声が震えていた。
美桜も手を伸ばし、子どもの腕を掴もうとしている。
あと少し。
ここまで来れば――。
「お、蒼汰じゃん」
後ろから声がした。
心臓が跳ねる。
振り返らなくても分かった。
「何やってんの?」
さっき教室にいた金田と内山だった。
「今それどころじゃないから!」
美桜が振り返りもせず怒鳴る。
「うわ、こっわ」
柵の向こうにいる子どもの姿は、僕たちの身体にほとんど隠れている。
「蒼汰、そのまま! 絶対離さないで!」
「う、うん!」
子どもの手を引く。
美桜の指先が、その腕に触れた。
「もうちょい……!」
背後で笑い声がする。
「何だよ。無視?」
今は構っていられない。
もう少し。
美桜が子どもを掴み上げた。
「おーい」
背中に、何かが触れた。
決して強くはなかった。
振り向かせるために、ふざけて押す程度の――
トン。
「――え?」
前へ傾けていた身体が、その小さな力を受け止められなかった。
右足が浮く。
咄嗟に踏ん張ろうとした左足も、身体の重さに引かれて前へ滑った。
「蒼汰!?」
子どもの手が離れた。
次の瞬間、左手一本で掴んでいた柵に全体重がかかる。指が鉄へ食い込むほど力を込めたはずなのに、身体は止まらなかった。
手のひらが、ずるりと滑る。
「え――」
身体が柵を越えた。
足元から歩道が消え、視界が大きく傾く。
一瞬だけ、美桜の顔が見えた。
驚いたように目を見開いて、その向こうでは金田が青ざめた顔で立ち尽くしている。
「ちが……」
金田の唇が震えた。
「俺、そんな……」
次の瞬間、金田が地面を蹴り柵へ駆け寄った。
「おい! 蒼汰! 俺……そんな……待てよ、待てって!!」
内山も顔を真っ青にしている。
「嘘だろ……おい、誰か! 誰か呼べよ!」
「蒼汰ッ!!」
美桜が柵から身を乗り出し、必死にこちらへ手を伸ばしてくる。
僕も咄嗟に腕を伸ばした。
けれど、届かない。
「嫌だっ! 蒼汰ぁぁ!!」
伸ばした指先が、少しずつ離れていく。
美桜の姿も、橋も、全部が遠ざかっていく。
柵には金田がしがみつき、身を乗り出しながら何かを叫んでいた。その隣では、美桜もまだ僕の名前を叫んでいる。
でも、もう声がよく聞こえない。
耳元で鳴り続ける風の音だけが、やけにはっきり聞こえた。
ふいに、母さんの顔が浮かぶ。
『……お腹空いてる?』
――あれが最後?
美桜の話だって、まだ聞いてない。
嫌だ。
こんなのは嫌だ。
僕はまだ――。
水面が迫る。
息を吸った。
声にはならなかった。
次の瞬間、全身を叩き潰すような衝撃が走った。
冷たい。
痛い。
上も下も分からない。
光が遠ざかっていく。
伸ばした手の先には、もう何もなかった。
それでも僕は、必死に水を掻いた。
まだ。
まだ死にたくない。
――なのに。
意識が遠のいていく。僕の身体は、暗い水の底へ沈んでいった。
End_is_Zéro_Project




