第9話「ヒロイン、現る」
その日の朝、学園の空気が変わった。
正門前に馬車が止まっている。装飾のない質素な箱馬車。御者台に家紋はなく、車輪の泥はねが長旅を物語っていた。
周囲の生徒たちがひそひそと囁きあう。
「特待生だって」
「男爵家の? この時期に編入なんて珍しい」
「名前は確か——フィオーレ・アマリッティ」
俺の足が止まった。
フィオーレ。フィオーレ・アマリッティ。
『蒼穹のエトワール』のヒロイン。
馬車の扉が開いて、一人の少女が降り立つ。亜麻色の長い髪を三つ編みにして、制服は新品だがサイズが微妙に合っていない。袖が少し長くて、指先が布に隠れている。トランクを自分で持とうとして、取っ手が外れて中身をぶちまけた。
「あっ——すみません、すみません!」
教科書やノートが敷石の上に散らばる。インク瓶が転がって、危うく割れかける。少女が慌ててかき集める姿に、周囲の視線が集まっていた。好奇の目、品定めする目、そして——嘲笑。
だが少女はそれに気づいているのかいないのか、散らばった持ち物を拾い終えると、ぱんぱんと膝の土を払ってにっこり笑った。
「えへへ、緊張してるみたいです」
誰に言うでもなく、自分に言い聞かせるように。
その笑顔を見て、俺は確信する。ヒロインだ。間違いない。
ゲームのフィオーレは、もっとキラキラした登場だった気がする。光の粒子が舞って、BGMが変わって、攻略対象全員が「おや?」という顔で振り返る——あの演出。現実にはそんなものはなく、田舎から出てきた男爵令嬢がトランクをぶちまけているだけである。
でも笑顔だけは、ゲームと同じだ。画面越しに見ていたあの笑顔。
教室に入ると、担任のグレイヴ教授が新入生を紹介する。
「本日より当クラスに編入するフィオーレ・アマリッティ嬢だ。特待生として入学される。みな、よろしく頼む」
フィオーレが深々とお辞儀をする。頭を上げたとき、彼女の視線が教室をぐるりと巡った。
そして一箇所で止まる。
窓際の最後列。一人だけ周囲に空席を三つも作って座っている銀髪の生徒——ルシアン。
フィオーレの目が少し見開かれた。ゲームなら「好奇心イベント発生」のアイコンが出るやつだ。
まずい。筋書きが、動き始める。
ゲームの本編は、フィオーレの入学から始まる。ここから先、攻略対象たちがヒロインに惹かれていき、好感度が上下し、ルートが分岐する。殿下の好感度が低いまま卒業の儀を迎えれば断罪イベント——つまり処刑エンドだ。
昼休み。中庭に向かう途中、廊下でフィオーレとすれ違った。
「あの、すみません!」
呼び止められた。振り返ると、フィオーレが小走りで近づいてくる。手に学園の地図を持っているが、盛大に上下逆さまだ。
「図書室ってどちらでしょうか。地図を見ているんですけど、全然わからなくて……」
「……地図、逆だよ」
「え? あっ! 本当だ!」
くるっと地図を回して、フィオーレが恥ずかしそうに笑う。耳まで赤い。このヒロイン、方向音痴の設定はゲームにもあったが、リアルで見ると心配になるレベルだ。
ヒロインがガチでいい子なの、攻略しづらいんだが。
いや、攻略するのは俺じゃない。俺がすべきは殿下の好感度を上げることであって、ヒロインと仲良くなることではない。むしろ筋書き上、ヒロインとルシアンの関係が最重要で——。
「図書室はあっちの棟の二階。階段上がって右」
「ありがとうございます! えっと、お名前は……」
「ハルト。ハルト・ヒースガルドだ」
「ハルトさん。わたし、フィオーレです。よろしくお願いします!」
ぺこりと頭を下げて走っていく。三つ編みが揺れる。途中で角を曲がり損ねて壁にぶつかりそうになり、慌てて方向転換していた。壁に手をついた拍子にインク瓶を落としかけて、それを空中でキャッチした反動で地図をまた落として、拾い上げた地図はまた逆さまだった。
……大丈夫かこのヒロイン。ゲームだと可愛いドジっ子属性だが、リアルだとただの危なっかしい子だ。
午後の講義で、フィオーレは俺の二列前に座っていた。ノートを取る姿勢は真剣そのもの。ペンの持ち方がちょっと変だが、字は丁寧だ。時折インクを手につけて、気づかないまま頬を触っているので、左頬に青い線がついている。本人は気づいていない。
チラリとルシアンを見る。殿下は窓の外を見ている。フィオーレの存在など気にもしていない様子だ。
ゲームだと、この時点でルシアンのフィオーレに対する好感度はゼロ。プラスでもマイナスでもない、完全な無関心。ここからヒロインの行動次第で好感度が動き始める——はずなのだが。
現実のルシアンは、フィオーレどころか教室にいる全員に無関心だ。唯一反応するのは——残念ながら俺に対してだけで、しかもその反応の大半は「なぜお前はそこにいる」系の冷たい視線である。嬉しくない。嬉しくないが、反応があるだけマシと思わなければやっていけない。
ちなみに今日の朝茶は飲んでもらえた。茶器が空になって戻っていた。ハチミツ入りエルデ茶、三連勝。殿下のリクエストに応えられている実感がある。小さな勝利だが、俺はこの小さな勝利で精神を保っている。
放課後。いつもの庭で殿下が猫に餌をやっているところに行くと、ルシアンが珍しく先に口を開いた。
「今日、新しい生徒が入った」
「ああ、フィオーレ・アマリッティ。特待生の」
「知っているのか」
「朝、正門で見ました。あと、図書室の場所を聞かれた」
「……そうか」
それだけだった。関心があるのかないのか判別不能。殿下の好感度ウィンドウが見えたらどんなに楽か。
猫が殿下の足元に擦り寄って、ごろごろと喉を鳴らしている。殿下の指が猫の耳の後ろを掻いて、猫が目を細める。夕暮れの光が二つの影を長く伸ばしていた。
ヒロインが来た。筋書きが動き始める。俺に残された時間は、卒業の儀まで。
焦るな。焦ったら負けだ。前世でイベント期間終了三十分前に石を割りまくった経験が言っている——焦りは課金ミスのもとだと。
課金はできないが、好感度は稼げる。
明日も茶を淹れよう。
次話:「殿下、それは言わないで」




