第7話「なぜ俺のそばにいる」
好感度作戦を始めて二週間が経った。
挨拶は毎朝欠かさない。殿下の反応は相変わらず無言だが、最初の頃のような「何しに来た」という目はしなくなった。慣れてくれたのか、諦めたのか。たぶん後者。
紅茶はやめた。飲み物は「毒か」のトラウマがある。代わりに、学園の厨房で焼き菓子を焼いてもらって差し入れることにした。前世の知識で「甘いものは警戒心を下げる」という俗説を信じている。科学的根拠は知らない。厨房のおばちゃんに「殿下に?」と目を丸くされたが、「はい」と答えたら「あらまあ」と笑って特別に焼いてくれた。おばちゃんの好感度だけは順調に上がっている。
差し入れの反応は、紅茶のときと同じだった。殿下は一瞥して何も言わず、俺が下がった後に菓子の包みがどうなるかは分からない。
——分からなかった。昨日までは。
今朝、執務室に入って朝の挨拶をしたとき、机の隅に昨日の包み紙が畳んで置いてあるのが見えた。
空の包み紙。
中身がない。
つまり、食べた。
殿下が、俺の差し入れた焼き菓子を、食べた。
その事実を認識するのに五秒かかった。心臓が跳ねて、顔が熱くなる。感情の種類が分からない。達成感か。安堵か。それとも——。
「おはようございます、殿下」
声が裏返りそうになるのを必死で堪えた。普段通りに。何も気づいていないふりで。ここで「食べてくれたんですね!」なんて言ったら、明日から二度と食べてくれなくなる。乙女ゲーの鉄則だ。好感度が上がった直後にがっつくと、逆にマイナスが入る。
殿下は小さく顎を引いた。
顎を引いた。
二週間ぶりの、挨拶への反応。
俺は平静を装って書類の整理を始めたが、心の中では盆踊りを踊っていた。ファンファーレが鳴っている。脳内に「実績解除:殿下が挨拶に反応」のポップアップが出ている。
好感度がゼロに到達した可能性がある。マイナスからゼロ。たった二週間でゼロ。前世のゲームなら一瞬だが、この世界ではものすごい進歩だ。このペースだとプラスに転じるまであと一ヶ月。処刑エンドまでの残り時間を考えると余裕はないが、ゼロ回答よりはずっといい。
その日の午後。
書類を整理していると、ルシアンが唐突に口を開いた。
「ヒースガルド」
「はい」
「お前は、毎日何をしに来る」
手が止まる。
殿下は机の向こうから俺を見ていた。紫水晶の目。いつもの無表情——に見えるが、ほんのわずかに眉根が寄っている。怒りではない。困惑に近い。
「側近の務めですので」
「務めで、挨拶のたびに菓子を持ってくるのか」
「……お口に合いませんでしたか?」
「そういう話をしていない」
ルシアンが椅子から立ち上がった。窓際に歩いていく。午後の光が銀髪に反射して眩しい。胸元のブローチが、光を受けて小さく煌めく。
「過去に何人も側近がいた。誰も一ヶ月と持たなかった」
窓の外を見たまま、ルシアンが言う。声は平坦だが、どこか遠い。
「命じられて来る。怯えて逃げる。それが当然の流れだ。なのにお前は——」
振り向いた。
「なぜ俺のそばにいる」
その問いは、命令でも詰問でもなかった。
純粋な疑問。本当に分からないのだと、その声が告げている。なぜ逃げないのか。なぜ毎日来るのか。なぜ菓子を差し入れるのか。そういうことをされる理由が、自分には思い当たらない——そう言っている。
胸の奥が、きゅっと締まる。
処刑を回避するため。好感度を上げるため。自分が死なないため。
それが本当の理由だ。言えるわけがない。
でも嘘もつきたくなかった。なぜかは分からない。あの目に嘘を返してはいけない気がした。
「取り巻きですから」
出てきたのは、そんな言葉だった。
「殿下の側近で、取り巻きですから。そばにいるのが、仕事です」
ルシアンの目が揺れた。
ほんの一瞬。紫水晶の奥で、何かが動いた。凍った湖面のどこかに、かすかな波紋が広がるみたいに。
「……そうか」
二文字。いつもの、短い返答。
でも、今日の「そうか」は今までと温度が違った。冷たくない。拒絶していない。ただ——受け取った、という響き。
ルシアンが窓から視線を外し、机に戻る。羽根ペンを取って、何事もなかったかのように書類に向かい始めた。
俺も書類整理に戻る。インクの匂いと、かすかに混じる焼き菓子の甘い残り香。
手が少しだけ震えている。
殿下の横顔を、視界の端でちらりと見る。銀髪が光を帯びて揺れる。ペンを走らせる指が、ふとブローチに触れた。あのいつもの無意識の仕草。
いや殿下、その目はずるい。
そういう顔するの反則なんですけど。
「なぜ俺のそばにいる」って聞いておいて、答えを聞いたら「そうか」って——その「そうか」に、どれだけの感情が乗ってたか、本人は分かってるのか。分かってないんだろうな。九年間ずっと一人で、人の好意を受け取る練習をしてこなかった人だ。
書類の文字がぼやける。いかん、集中しろ。前世の会議中に居眠りしかけた俺でも、さすがに殿下の前で仕事をサボるわけにはいかない。
羊皮紙に目を落として、文字を追う。領地の税収報告。数字の羅列。これに集中すれば余計なことは考えずに済む——済まなかった。視界の端に銀髪がちらつく。
処刑回避のために好感度を上げている。それは事実だ。間違いない。
でも今、俺の心臓がこんなにうるさい理由は、処刑回避とは関係ない——気がする。気がするだけかもしれない。きっと気のせいだ。そうに決まっている。
夕方、執務室を辞するとき、俺はいつも通りに言った。
「お疲れさまでした、殿下。失礼します」
ルシアンのペンが、ほんの一拍だけ止まった。
「……ああ」
返事があった。
小さくて、素っ気なくて、ほとんど聞き取れないような「ああ」。
でも、それは——。
俺が側近になって以来、殿下が帰り際にくれた最初の言葉だった。
廊下を歩きながら、頬が緩むのを止められない。止める気もない。誰も見ていない東棟の廊下で、一人でにやにやしている不審者。レオンに見られたら通報されそうだ。
「……取り巻き、続けます。殿下」
誰にも聞こえない声で呟いて、足を速める。
夕焼けが廊下の窓を橙色に染めていた。東棟の壁に刻まれたヴァルトシュタイン家の紋章が、夕日に照らされて長い影を落としている。
処刑エンドまで、あと一年弱。
まだ時間はある。まだやれることはある。
そして——取り巻きという言葉の意味が、少しだけ変わり始めている気がした。
次話:「筋書き通りにいかせない」




