第6話「【Side:レオン】あの男の不審」
レオン・セラフィムは、己の正義を疑ったことがない。
聖騎士見習いとして剣を握り、誓いを立てた日から、私の人生の軸はただ一つ——王国を守ること。民を守ること。邪悪を退けること。
だからこそ、第一王子ルシアン・ヴァルトシュタインという存在が許せない。
前王妃エレノアは弑逆未遂の罪で処刑された。国王陛下を毒殺しようとした女。その息子が王宮の中枢にいる。血は争えないという言葉がある。あの男がいつ母と同じ道を辿るか、誰にも分からない。
私は東棟を遠くから監視する任務を自分に課していた。正式な命令ではない。同期の見習いたちには「考えすぎだ」と笑われる。教官にも「お前の仕事は剣を振ることだ」と言われている。だが聖騎士として、国の脅威を見過ごすわけにはいかない。
そして最近、別の意味で気になる人間が現れた。
ハルト・ヒースガルド。
下級貴族の三男。特筆すべき功績もなく、剣の腕も魔法の才も平凡。訓練場で一度だけ見かけたが、素振りの形が甘い。腰が入っていない。あの剣では木の枝すら満足に切れまい。そんな男が、第一王子の側近に就いた。
それだけなら珍しくない。あの殿下の側近など、押しつけられた哀れな人間か、家の命令で仕方なく就く者ばかりだ。長くは持たない。一ヶ月も経てば音を上げて逃げ出す——これまで全員がそうだった。
ところが、ハルト・ヒースガルドは逃げない。
毎朝、東棟に通っている。無視されても通う。紅茶を持っていって「毒か」と言われても、翌日にはまた別のものを持っていく。先日は焼き菓子を包んで持ち込んでいた。菓子だ。あの殿下に。正気の沙汰ではない。
おかしい。明らかにおかしい。
訓練場の柱に背を預けて、東棟の入口を観察する。朝の冷たい風が頬を叩く。剣を握る手に汗がにじむのは、朝練の名残か、それとも別の理由か。
あの男がまた東棟に入っていくのが見えた。小走りで。何か包みを持っている。
——なぜだ。
なぜあの男は、悪役王子にあそこまで尽くす。
考えられる動機はいくつかある。第一に、出世目的。だが第一王子の側近になっても出世の見込みは薄い。宮廷の主流派は第二王子派だ。第二に、家の命令。ありえるが、ここまでの献身を下級貴族の家が要求する理由がない。第三に——。
第三の可能性を考えたとき、背筋に冷たいものが走った。
もしあの男が、ルシアンの——いや、前王妃の遺志を継ぐ者だったら。
考えすぎだと分かっている。だが聖騎士は最悪を想定する。それが務めだ。
朝練を終えて水場で顔を洗う。冷たい水が目を覚ます。タオルで拭いた頬に、朝風がひんやりと当たる。同期のクラウスが「レオン、また東棟の方を見てたのか」と呆れた声で言った。放っておけ。
昼休み、学園の回廊を歩いていると、件の男を見かけた。
ハルト・ヒースガルドが、柱の影で何か呟いている。
足を止めて、柱の影に身を寄せる。耳を澄ませる。回廊の柱は声をよく通す。
「……好感度がマイナスのまま……このペースじゃ処刑エンドに……攻略対象との接触機会を……」
——何を言っている。
好感度? 処刑エンド? 攻略対象?
どれも聞き覚えのない言葉だ。暗号か。何かの隠語か。
処刑エンド。処刑。
やはり何かを企んでいるのか。それとも——何かの暗号か。仲間との連絡手段か。だが柱の影で一人で呟いている姿は、密談というにはあまりにも間抜けだ。陰謀家がこんな目立つ場所で暗号を口にするだろうか。
あの男は独り言の途中で私に気づき、ぎょっとした顔でこちらを見た。
「あ——レオン殿、お疲れさまです」
にこりと笑う。人好きのする笑顔だ。営業職の人間特有の、あの嘘くさい笑顔——いや、営業職という言葉は私の語彙にはない。なぜそんな言葉が浮かんだのかは分からないが、とにかくあの笑みは信用できない。
「ヒースガルド」
「はい?」
「お前は、殿下の側近として何を目指している」
単刀直入に聞いた。聖騎士は回りくどいことをしない。
ハルトの目が一瞬泳ぐ。それを見逃さない。
「目指す、というほど大それたことは……。与えられた務めを果たすだけです」
嘘だ。
与えられた務めを果たすだけの人間は、あそこまで必死に主に食らいつかない。毎朝挨拶に行って無視されて、紅茶を毒扱いされて、それでもなお通い続ける人間は——何かを狙っている。
「そうか。務めを果たすだけか」
私はそれ以上追及せず、その場を離れた。
だが目は離さない。
去り際に振り返ると、ハルトが大きく息を吐いて胸を押さえているのが見えた。心臓でも悪いのか。いや違う。あれは——怯えた人間の仕草だ。私に問い詰められて動揺している。やましいことがなければ、あそこまで動揺するはずがない。
——いや。やましいことがなくても、聖騎士に詰問されれば誰でも動揺するか。同期のクラウスにも「お前の質問は尋問に聞こえる」と言われたことがある。それは私の問題ではなく、やましい人間が多すぎるだけだ。
訓練場に戻り、剣を抜く。素振りを始める。刃が空気を切る音が、単調に響く。
あの男の目的を見極めなければならない。
百回。百一回。汗が額を伝い、顎先から落ちる。木剣を握る掌の皮がひりひりと痛む。
ルシアン・ヴァルトシュタインが危険な存在であることは変わらない。その側近が不審な動きをしているなら、なおさら警戒すべきだ。
——だが。
剣を振り下ろす手が、一瞬だけ鈍る。
あの男が東棟に向かうときの足取りは、陰謀家のものではなかった。どちらかといえば——使い走りの小間使いが、機嫌の悪い主人のご機嫌を伺いに行くときの、あの妙に切迫した小走り。
悪意のある人間の歩き方ではない。
だがそれは、私の甘さかもしれない。
剣を鞘に収める。柄を握る手が、じわりと汗ばんでいた。
ハルト・ヒースガルド。好感度がどうとか、攻略対象がどうとか、処刑エンドがどうとか——わけの分からないことを呟くあの男。
目を離すな、レオン。
正義のためにやるべきことは一つ。あの男が何者なのかを、見極めること。
夕日が訓練場の砂埃を橙色に染めている。木剣を収め、汗を拭いて、もう一度だけ東棟の窓を見た。灯りが二つ。いつもは一つだった。あの男が殿下の執務室にいる、ということか。
——監視を続ける。それだけだ。
次話:「なぜ俺のそばにいる」




