第5話「猫と、殿下の横顔」
その夜、眠れなかった。
ベッドの中で何度も寝返りを打つ。好感度が上がらない焦り、処刑エンドへのカウントダウン、そもそもこの世界が本当にゲームの中なのかという根本的な疑問——ぐるぐると頭の中を回り続けて、目が冴えて仕方がない。
枕を裏返す。冷たい面を頬に当てる。三十秒で温まる。また裏返す。前世でもこうやって眠れない夜を過ごしていた。あの頃の悩みは「明日の会議資料が終わってない」だったが、今の悩みは「一年後に首を切られるかもしれない」だ。スケールが違いすぎる。
諦めて起き上がり、上着を羽織って部屋を出る。
夜の学園は昼間と空気が違う。松明の揺れる光が廊下の壁に影を落とし、自分の足音だけがやけに大きく響く。行く当てもなく歩いているうちに、中庭に出た。
月が出ていた。欠けかけの月が、薔薇の垣根に青白い光を落としている。風が吹いて、花の匂いがかすかに鼻をくすぐる。甘くて重い、夜の薔薇の香り。
垣根の向こうに、人影が見えた。
一瞬、身体が固まる。こんな時間に中庭にいる人間——不審者か、見回りの衛兵か。どちらにしても面倒だ。
垣根の隙間からそっと覗く。
銀色の髪が月光に濡れていた。
ルシアンだ。
殿下が中庭のベンチに座っている。軍服ではなく、白いシャツにゆったりとした上着。正装を脱いだ姿を見るのは初めてで、同じ人間かと疑うほど雰囲気が違う。肩から力が抜けて、背筋も執務室で見るほど張り詰めていない。
そして——その膝の上に、猫がいた。
茶トラの野良猫。丸々と太った、人懐っこそうなやつ。ルシアンの膝で丸くなって、喉を鳴らしている。ごろごろという振動が、夜の静けさの中でやけに鮮明に聞こえる。
ルシアンの手が、猫の背中を撫でていた。
その手つきが——。
全然、凍ってない。
指先がゆっくりと毛並みを梳いて、耳の後ろをくすぐって、顎の下をそっと撫でる。慣れた手つき。何度もこうしてきた手つき。猫が気持ちよさそうに首を伸ばすと、ルシアンの唇がわずかに——本当にわずかにだが——緩んだ。
おい、待って。
ギャップ萌えが過ぎる。
昼間はあの鉄壁の無表情で「毒か」とか言ってくる殿下が、夜の中庭で野良猫を撫でている。しかもあの手つき、完全に猫のツボを心得ている。猫の扱いだけプロレベルじゃないか。
なにこれ。なにこの情報。攻略wikiに載ってなかったんだけど。隠しイベントか? 特定の条件を満たすと解放されるシークレットシーンか?
俺は垣根の陰で固まっていた。見てはいけないものを見てしまった感覚と、「いやこれめちゃくちゃ重要な攻略情報では?」という冷静な分析が同時に走る。前世だったらスクリーンショットを撮ってSNSに上げたい場面だ。もちろんネタバレ注意のタグ付きで。
猫が好き。動物に優しい。人前では見せない顔がある。
乙女ゲーのギャップ萌えイベント、そのまんまだ。
問題は、このイベントを目撃している俺がヒロインではなくモブの取り巻きだということだが——。
足元の小石を踏んだ。
かさり、と音がした。小さな音。でも夜の中庭では十分すぎるほど響く。
ルシアンの手が止まった。
紫水晶の目がこちらを射抜く。月明かりの下で見るその色は、昼間よりずっと深くて、底が見えない。
数秒の沈黙。
逃げるべきか。言い訳を考えるべきか。「たまたま散歩してたら」なんて通用するか。いや通用しないだろ。真夜中に主の私的な時間を覗き見する側近とか、即刻解雇——いやこの世界的には打ち首では。
「……ヒースガルドか」
ルシアンの声は、意外にも冷たくなかった。
怒っていない——わけではないかもしれないが、少なくとも昼間の「下げろ」のときとは違う温度。夜の空気のせいか、声の角が取れている。
「すみません、眠れなくて散歩を……」
「そうか」
膝の上の猫が、俺の方を見て「にゃあ」と鳴いた。のんきな声。状況の緊迫感をまるで理解していない。
ルシアンは猫を抱き上げもしなかったし、隠そうともしなかった。
その事実に、少しだけ驚く。
見られたくないなら立ち去ればいい。猫をどかせばいい。なのに殿下はベンチに座ったまま、膝の上の猫を撫で続けている。
まるで——見られてもいいと思っているみたいに。
いや、違う。たぶん、俺のことを「見られても害のない存在」だと思っているだけだ。取り巻きのモブ。どうでもいい人間。猫に餌をやっているところを見られたところで、報告する相手もいない、影響力のない存在。
それはそれで複雑な気分だが、今は好都合だ。モブであることの利点。存在感がなさすぎて警戒されない。前世では「影が薄い」と言われて傷ついたが、この世界では立派な生存スキルである。
「殿下、猫がお好きなんですね」
言ってから、しまったと思った。踏み込みすぎたか。
ルシアンの手が一瞬止まる。
「……好きも嫌いもない。こいつが勝手に来るだけだ」
猫がごろごろと喉を鳴らし、ルシアンの指に頭を押しつける。殿下の指が、反射的にその頭を撫でる。
好きも嫌いもない、と言いながら、その手は完全に猫を甘やかす動きをしている。
ツンデレか。
猫にツンデレか、この人。
堪えきれずに口元が緩んだのを、暗がりが隠してくれたことを祈る。
「では、失礼します。お休みなさい、殿下」
「……ああ」
垣根の陰から離れながら、心臓がうるさいのに気づく。恐怖ではない。別の何かだ。
あの目。
猫を見るルシアンの目には、執務室では見たことのない色があった。紫水晶の奥に、かすかだけど確かに灯っている光。冷たくない。空っぽじゃない。
凍った王子は、全部が凍っているわけじゃない。
自室に戻って、ベッドに潜り込む。シーツの冷たさが火照った頬に心地いい。
殿下の好感度を上げる——その目的は変わっていない。処刑回避のためにやるべきことも変わっていない。
でも、ほんの少しだけ。
ほんの少しだけ、猫を撫でる横顔が頭から離れない。
あの顔を、昼間にも見せてくれる日が来るんだろうか。
「——いかんいかん。攻略対象に感情移入するのは、プレイヤーとして一番やっちゃいけないやつだ」
枕に顔を押しつけて、強制的に目を閉じる。
だめだ。瞼の裏にあの横顔が焼きついている。月光に照らされた銀髪。猫を撫でる白い指。わずかに緩んだ唇。
乙女ゲーの攻略対象としてではなく、一人の人間として殿下を見ている自分に気づいて、慌てて思考を切り替える。いかんいかん。俺は攻略する側だ。攻略される側じゃない。立場を忘れるな。
頬がまだ熱い。薔薇の残り香が、鼻の奥に居座っていた。
次話:「あの男の不審」




