第4話「好感度、初手マイナス」
作戦開始、一日目。
朝七時。東棟の廊下を歩く俺の手は汗ばんでいる。早朝の空気はひんやりと冷たいのに、掌だけが妙に湿っている。緊張だ。
執務室の扉の前に立つ。深呼吸。ノッカーに手を伸ばし——。
いや待て。挨拶の練習をしてない。
前世で営業部にいた頃、先輩に「挨拶は内容より声のトーンだ」と叩き込まれたのを思い出す。明るく、はきはきと、相手の目を見て。
相手がこの世界で最も目を合わせたくない人物だという事実には目を瞑る。
ノッカーを叩く。
「入れ」
いつもの、感情のない声。
扉を開ける。ルシアンは既に執務机に向かっていた。銀髪が朝の光を受けて、やわらかく光っている。胸元にはいつものブローチ。
「殿下、おはようございます!」
全力の笑顔。営業スマイル。声のトーンは完璧——のはずだ。
ルシアンの羽根ペンが止まる。
紫水晶の目がこちらを見た。三秒ほど、まばたきもせずに。
そして、再びペンが動き出す。
以上。
反応なし。完全なる無視。好感度変動、推定ゼロ——いや、朝っぱらから押しかけてきた鬱陶しさを加味するとマイナスかもしれない。
大丈夫。初日から成果が出るわけがない。これは長期戦だ。ソシャゲのログインボーナスだって、初日は大したもの貰えないだろう。七日目から本番。
気を取り直して書類整理に入る。殿下は俺の存在を空気として処理しているらしく、ペンを走らせる手が一度も止まらない。たまに書類をこちらに差し出して「分類しろ」と言うだけ。コミュニケーションとしては最低限だが、最低限でもゼロよりマシだ。
午前中の書類整理を終え、昼休みに俺は学園の厨房に向かった。作戦その二——紅茶の差し入れ。
ゲームにおいて「好きなキャラに飲み物を差し入れる」は定番の好感度イベントだ。選択肢で正しい飲み物を選べばプラス、間違えるとマイナス。ルシアンの好みは——ハルトの記憶を探る——たしかアッサム系の紅茶。ストレート。砂糖なし。
厨房のおばちゃんに頼んで、アッサムティーを淹れてもらう。おばちゃんは「殿下に?」と眉を上げたが、黙ってティーポットを用意してくれた。ありがたい。この世界の厨房スタッフは前世の社食のおばちゃんと同じくらい有能だ。銀のティーポットとカップを盆に載せて、東棟に戻る。廊下を歩きながら、盆が揺れないように気をつける。紅茶をこぼしたら作戦失敗だ。
執務室に入ると、ルシアンは窓際に立って外を見ていた。中庭の方角。何を見ているのかは分からない。
「殿下、お茶をお持ちしました」
盆を机に置く。紅茶の温かい湯気がふわりと立ち上る。
ルシアンが振り向いた。盆を見る。ティーカップを見る。そして俺を見る。
「毒か」
二文字。
主語も述語もない、究極の短文。しかも内容が物騒すぎる。
「毒じゃないです! ただの紅茶です!」
「誰が淹れた」
「厨房の——」
「下げろ」
会話終了。
俺は盆を持って廊下に出た。湯気がまだ立っている紅茶を見下ろす。
好感度マイナスからのスタートとか、ゲームだったら即リセットボタンなんだが。
しかも「毒か」って何。紅茶を持ってきた人間に対する第一声が「毒か」って、どういう人生を送ったらそうなるんだ。
——まあ、どういう人生かは知ってるけど。八歳で母親を失った人生だ。母親が毒殺未遂で処刑された人生。そりゃ飲食物に警戒するだろう。むしろ当然の反応だ。
紅茶を一口飲んだ。うまい。毒じゃないことは俺が証明する。廊下で一人で飲む紅茶の味が妙に沁みる。
考えるな。今はそっちじゃない。作戦を立て直せ。
午後、学園の廊下を歩いていると、視線を感じた。振り向くと、数人の学生がこちらを見てひそひそ話している。
「ねえ、あいつ今日も東棟に行ってたよ」
「ヒースガルドの三男でしょ? なんであの殿下に近づこうとしてるの?」
「どうせ父親に命じられたんでしょ。可哀想に」
「いや、自分から志願したって聞いたけど」
「は? 正気?」
白い目。好奇と軽蔑が混ざった視線。ひそひそ声が背中に刺さる。前世の会社でも感じたことのある種類の空気だ。空気の読めないやつを遠巻きに見る目。あの頃は「飲み会を断る変わり者」だったが、ここでは「危険人物に近づく愚か者」という位置づけだ。
グレードが上がっている。嬉しくない方向に。
足早にその場を離れる。靴底が床を叩く音が、嫌に響く。
自室に戻る途中、また声をかけられた。
「やあ、ハルト君」
ギルバート。今日も穏やかな笑みを浮かべている。
「殿下のご様子はどうだい?」
「……紅茶を持っていったら、毒かって言われました」
正直に報告すると、ギルバートは苦笑した。
「殿下は難しい方だからね。でも気を落とすことはないよ。あの方は、誰にでもああなんだ」
慰めているのか突き放しているのか微妙なラインだが、今の俺にはその程度の優しさでもありがたい。
「根気よく続けることだ。いつか、殿下も心を開いてくださるかもしれない」
「そう……ですかね」
「私はそう信じているよ」
ギルバートの碧眼が細められる。温かい目だ。この人だけは俺の味方でいてくれるらしい。
自室に戻って、ベッドに倒れ込む。
今日の成果。挨拶——無視。紅茶——毒扱い。周囲の評判——白い目。
好感度アップどころか、全方位でマイナスを叩き出している。
枕に顔を押しつける。シーツの糊が利いた匂いが鼻を突く。
「リセマラしたい……」
このゲーム、初期配置がひどすぎる。
でもリセマラはできない。ここが俺の本番だ。
明日は別のアプローチを試そう。挨拶と紅茶がダメなら、次の手を考えるだけ。攻略wikiがないなら、自分で攻略法を見つけるしかない。
ベッドの下から羊皮紙を引っ張り出す。「処刑回避作戦・全体計画書」。第一段階の横に赤字で「難航中」と書き足す。前世の進捗報告書を彷彿とさせる。あの頃も「難航中」ばかり書いていた気がする。人生——いや、どの人生でも進捗は芳しくないらしい。
それでも、やめるわけにはいかない。処刑エンドを回避する。それだけが俺の目的だ。
枕から顔を上げて、天蓋を睨む。
「……殿下、俺は諦めが悪い男なんです」
前世で三年間同じソシャゲを無課金で続けた男の粘り強さを、殿下はまだ知らない。
誰にも聞こえない宣言。天蓋の藍色が、知らん顔で揺れていた。
次話:「猫と、殿下の横顔」




