第3話「あのブローチの意味」
翌日から、俺は側近としての仕事を始めた。
仕事といっても、やることは限られている。書類の整理、来客の取り次ぎ、殿下のスケジュール管理。ただし来客はゼロ。ゼロ。三日間で一人も来ない。前世の営業部で「今日アポなしです」と言ったら部長に殺されたが、こっちは毎日がアポなしだ。スケジュールは殿下が一人で全部決めているので、実質的には書類整理マシーンである。
書類の内容は領地の収支報告や宮廷内の回覧文書。読んでみると、ルシアンの処理能力がやたら高いことが分かる。批准の判が的確で、コメントが簡潔で、無駄がない。凍った王子、仕事はできる。ゲームのステータスで「知力A」だったのは伊達じゃない。
東棟の執務室に通い始めて三日目。殿下との会話は業務連絡のみ。「これを整理しろ」「終わったら下がれ」。以上。一日の総会話量が十五文字を超えない。チャットアプリの通知より少ない。
そんな日々の中で、俺はあることに気づいた。
ルシアンの胸元に、小さなブローチがある。
銀細工の、翼を広げた鳥のモチーフ。装飾は控えめで、王族が身につけるにしては地味だ。軍服の襟元にさりげなく留められていて、注意して見なければ気づかない。
でも殿下はそれを毎日つけている。昨日も、一昨日も、謁見の日も。書類に向かうとき、無意識に指先がブローチに触れる瞬間がある。一瞬だけ。ほんの一瞬だけ、紫水晶の目が揺れる。
気になる。
ゲームの中でこのブローチの記憶はない。テキストで言及されていたかもしれないが、モブの俺が知るようなイベントではなかった。
——まあ、今は後回しだ。それよりやるべきことがある。
夜。自室に戻った俺は、ベッドの上で枕を机代わりにして羊皮紙を広げた。ランプの灯りが橙色に揺れる。この世界には蛍光灯がない。当然パソコンもスマホもない。ExcelもPowerPointもない。なんて不便な世界だ。
ペンを握り、項目を書き出していく。
題して「処刑回避作戦・全体計画書」。
前世の企画書フォーマットが身体に染みついている。本来なら上司への報告用に作るやつを、自分の命を守るために書いている。こういうときだけ社畜スキルが輝く。
第一段階——殿下の好感度を上げる。
現状の好感度は推定マイナス。「近づくな」と言われている時点でマイナスだ。これをまずゼロに持っていく。ゼロにすること自体が偉業な気がするが、考えるな。
第二段階——攻略対象たちとの関係を改善する。
レオン、ナシェル、ギルバート。この三人と殿下の関係が最悪のまま卒業の儀を迎えると、断罪イベントが発動する。少なくとも一人は殿下側に引き込む必要がある——はず。たぶん。攻略wikiに書いてあった気がする。気がするだけかもしれない。ちなみにレオンは聖騎士の正義マンで殿下をガチで敵視しており、ナシェルは天才魔導士で感情より事実を優先する分析タイプ。どっちも手強い。ギルバートが一番話しやすそうだが——。
第三段階——卒業の儀で断罪されないようにする。
ヒロインのフィオーレが殿下を告発する流れを、どうにかして止める。具体的な方法は不明。ゲームだと選択肢で分岐するところだが、現実に選択肢は出ない。
羊皮紙を持ち上げて眺める。
「計画としては完璧。問題は全部無理そうなことだけ」
自分で言って自分で凹む。前世の企画書なら上司に「で、実現可能性は?」と突っ込まれるレベルの計画だ。実現可能性は——聞かないでほしい。
いやでも、ゲーム攻略ってそういうものだろう。最初は無理に見えても、情報を集めて、パターンを覚えて、トライアンドエラーで進めていけば——。
セーブ機能がないトライアンドエラーはただの博打だろ、という内なるツッコミは無視する。
羊皮紙を丸めてベッドの下に隠した瞬間、部屋の扉がノックされた。
「ハルト君、いるかね?」
穏やかな声。聞き覚えがある——ギルバート・レッドモンドだ。
扉を開けると、柔和な笑みを浮かべた壮年の男が立っていた。整えられた金髪と、人の良さそうな碧眼。国王の側近であり、学園の運営にも携わる重鎮。
ゲームでの役割は、攻略対象の一人。温厚で有能な紳士として描かれ、ヒロインを優しく導く——。香水の匂いがほのかに漂ってくる。品のいい、高そうな香り。身だしなみまで完璧か。
ん? 待てよ。
ギルバートについて、何か引っかかる記憶がある。攻略wikiの考察スレッドで読んだ、ルシアンルートに関する書き込み。ネタバレ注意のスポイラータグの中に、たしか——。
「やあ、元気そうだね。側近の仕事はどうだい?」
ギルバートの声で思考が途切れる。考えかけていた何かが、するりと指の間から逃げた。
「あ、はい。なんとかやってます」
「殿下は気難しい方だからね。大変だろう」
ギルバートが廊下を歩きながら語る声は、まるで生徒を気遣う教師のように温かい。
「もし困ったことがあれば、遠慮なく私に相談してくれ。君のような若い人材が殿下の傍にいてくれるのは、私としても心強い」
いい人だ。めちゃくちゃいい人だ。この世界に来て初めてまともに話を聞いてくれる大人に出会った気がする。
「ありがとうございます、ギルバート卿。助かります」
「なに、私にできることなら何でも」
穏やかに微笑んで、ギルバートは去っていく。
その背中を見送りながら、さっき一瞬感じた引っかかりを思い出そうとする。ルシアンルートの考察スレッド。ギルバートに関する書き込み。何だったか——。
思い出せない。
まあいい。今はとにかく、殿下の好感度だ。善人の味方がいるなら心強い。孤立無援よりはずっとマシだ。味方ゼロの殿下と味方ゼロの側近、二人合わせて味方ゼロ。足し算が機能しない。せめてギルバート卿がいれば味方一だ。ゼロと一は天と地の差がある。
自室に戻り、羊皮紙をもう一度引っ張り出す。ランプの灯りで影がちらちら揺れる中、第一段階の下に書き足す。
「明日の朝、殿下に挨拶をする」
好感度アップの基本中の基本。毎日の挨拶。どんな乙女ゲーでも「毎朝話しかける」は好感度ルーティンとして鉄板だ。
ゲームなら確実にプラス一ポイントもらえるやつだ。
……ゲームなら。
ペンを置いて、インクの匂いに混じるランプの油の匂いを嗅ぐ。この世界は全部がアナログで、全部が手触りを持っていて、全部が本物だ。ゲームの攻略法が通じる保証はどこにもない。
でも、他に手がない。
次話:「好感度、初手マイナス」




