第2話「凍った王子」
王宮の東棟。第一王子の執務室に続く廊下を歩きながら、俺の心臓はとっくに限界を超えていた。
廊下の壁には歴代の王族の肖像画が並んでいる。どの顔も偉そうで、どの顔もこっちを見下ろしている。三代前の国王なんか、明らかに「お前ここで何してんの」という目をしている。前世でいう圧迫面接の待合室。いや、それよりひどい。面接で失敗しても処刑はされない。
靴の底が廊下の床を叩くたびに、音が妙に大きく跳ね返ってくる。東棟に近づくにつれて人気がなくなり、自分の足音だけが響く。
すれ違う貴族たちが、俺を見てひそひそ話を始める。
「あれ、ヒースガルドの三男でしょ」
「殿下の新しい側近だって。物好きよねえ」
「可哀想に。あの方の側にいたら碌なことにならないのに」
聞こえてるんですけど。全部聞こえてるんですけど。
廊下の突き当たり、樫の扉の前に辿り着く。ノッカーは獅子の頭を模した銅製で、使い込まれて鈍い光を放っている。
深呼吸を三回。ノッカーを叩く。冷たい金属の感触が指先に残る。
「入れ」
低い声。短い。感情が削ぎ落とされた、必要最低限の音。
扉を開けた先に、ルシアン・ヴァルトシュタインがいた。
——綺麗だな、というのが最初の感想だった。
窓際の執務机に座る銀髪の青年。切れ長の紫水晶みたいな瞳。整いすぎた顔立ち。乙女ゲームの攻略対象として設計されたビジュアルが、三次元——いやこの世界的には「現実」で目の前にあると、なんというか、情報量がすごい。
ただし、目が死んでいる。
比喩じゃなく、本当に光がない。宝石みたいな色をしているのに、その奥に何も映していない。人形の目だ。美しくて、空っぽ。
「用件だけ言え」
ルシアンは書類から目を上げもしなかった。羽根ペンが紙の上を走る音だけが響く。インクの匂いが部屋に薄く漂っている。
俺は姿勢を正した。ハルト・ヒースガルドの記憶にある礼法通りに。
「本日より殿下の側近を拝命いたしました、ハルト・ヒースガルドです。よろしくお願いいたします」
完璧な礼。ハルトの身体が覚えている作法に、前世の営業トークで培った声の張りをプラス。我ながら百点満点の挨拶だと思う。
沈黙。
ペンの音が止まる。
ルシアンがようやくこちらを見た。紫水晶の目が俺を映す。品定めするような、あるいは脅威を計測するような視線。
「ヒースガルド。下級貴族の三男か」
「はい」
「父親に命じられて来たのか。それとも宮廷での立身を狙ってか」
どっちでもない、とは言えない。ハルト・ヒースガルドの設定上は父親の命令だ。
「父の命により参りました」
「そうか」
興味を失ったように視線が書類に戻る。
「必要なときに呼ぶ。それ以外は近づくな」
会話、終了。所要時間、およそ三十秒。
前世の転職面接でも最低十分はかけてもらえたのに。三十秒で「近づくな」は新記録だ。ギネスに申請したい。
俺は廊下に押し出されるように退室し、扉が閉まった瞬間に壁にもたれかかった。
怖い怖い怖い。
あの目、完全に「お前に興味がない」って言ってる。興味がないどころか、存在を認識する気すらない。モブに向ける目としても冷たすぎる。
攻略難易度SSRじゃん。いやSSRどころかUR。期間限定URの、しかも天井なしガチャ。課金で解決できないタイプのやつ。
ゲームの攻略wikiを思い出す。ルシアンルートの攻略情報は極端に少なかった。数少ない書き込みには「序盤の選択肢が全部罠」「好感度が上がるポイントが分からない」「三周目でやっとルートに入れた」というコメントが並んでいて、攻略班ですら匙を投げかけていた。
その攻略を、俺はゲームの外側からやらなきゃいけない。しかも選択肢なんて出ない。セーブもロードもない。
廊下の窓から中庭が見える。薔薇の垣根の向こうを、学生たちが笑いながら歩いていく。誰一人、東棟の方を見ようとしない。
この棟に来る人間がいないのだ、とハルトの記憶が教えてくれる。
ルシアンの母——前王妃エレノアは、九年前に弑逆未遂の罪で処刑された。それ以来、第一王子に近づく者はいない。父王は第二王子を寵愛し、宮廷の貴族たちは風向きを読んで距離を置く。
味方ゼロ。
ゲーム内でそう設定されていた。ルシアンのステータス画面、味方の欄が空白だった光景を覚えている。画面越しに見たときは「設定重いな」くらいにしか思わなかった。
でもこうして実際にこの廊下に立つと、空気の温度が違う。人の声が聞こえない。足音がしない。東棟全体が、宮廷の中で切り離された孤島みたいになっている。
ルシアンはこの場所で、九年間を過ごしてきたのか。
——いかんいかん。シリアスに浸ってる場合じゃない。俺の目的は処刑回避だ。感傷は生き延びてからでいい。
「なるほど」
壁から背中を離して、腕を組む。窓から吹き込んだ風が首筋を撫でて、汗が冷える。
「ハードモード中のハードモードか」
整理しよう。現状把握は攻略の基本だ。
好感度——最低。たぶんマイナス。会話時間——三十秒。内容——「近づくな」。周囲の反応——「あの子可哀想」。
ゲームだったらレビューに「序盤の難易度バランスおかしい。運営に問い合わせます」って書き込むレベル。
普通のゲームなら、ここでリセットボタンを押す。
でも俺にリセットボタンはない。あるのは、一年後の処刑エンドだけ。
ちなみに処刑方法はゲームでは明示されていなかったが、この国は斬首がメインだとハルトの記憶が教えてくれる。嬉しくない知識が増えていく。
廊下の先から、始業の鐘が遠く聞こえてくる。重い音が、空っぽの東棟に染み込んでいく。
さて、どうする。
乙女ゲー歴十年の知識を全部使って、この無理ゲーを攻略するしかないわけだが——問題は、攻略対象が生身の人間だということ。
しかも、めちゃくちゃ怖い人間。
「……まあ、やるしかないか」
前世のブラック企業で鍛えた忍耐力が、こんなところで役に立つとは思わなかった。あの頃の部長も大概だったが、少なくとも「近づくな」とは言われなかった。「もっと近づけ」「報連相しろ」「なんで報告が遅い」だった。あれはあれで地獄だったが、処刑よりはマシだ。
東棟を出る。本棟に戻ると、途端に人の気配が戻ってくる。笑い声、足音、誰かを呼ぶ声。たった一つ棟が違うだけで、こんなにも空気が変わる。
振り返ると、東棟の窓が一つだけ光っていた。殿下の執務室だ。あそこに、たった一人で座っている。
——いや、だから感傷モードはやめろって。
頬を両手で挟んで叩く。ぱちん、と小気味よい音。よし。頭を切り替える。
攻略開始だ。
次話:「あのブローチの意味」




