第1話「処刑エンドの取り巻き」
目を開けた瞬間、天蓋が視界を覆っていた。
深い藍色の布地に銀糸の刺繍。月と剣を交差させた紋章——ヒースガルド家の家紋だ。
なんで俺がこんなもの知ってるんだと思う前に、頭の中で記憶がぶわっと溢れ出す。ハルト・ヒースガルド。十六歳。下級貴族の三男坊。兄が二人いて、長男は文官、次男は騎士団。三男坊の俺は——余り物。王立学園の三年生で、第一王子ルシアン・ヴァルトシュタインの——。
いや待って。
ちょっと待って。
嘘だろ。
俺はベッドから転げ落ちた。膝を打って、床の冷たさが痛みとともに全身を走る。石とも木ともつかない硬い感触。痛い。リアルに痛い。夢なら痛くないはずだ。つまりこれは現実。
呼吸が荒い。朝の空気が肺に冷たく入ってくる。窓から差し込む光が白くて、見慣れない天井が視界いっぱいに広がっている。
部屋の隅にある姿見に這いずっていく。映っていたのは、見覚えのある顔。いや、見覚えがあるのは当然だ。だって俺がプレイした乙女ゲーム『蒼穹のエトワール』の——。
「モブキャラじゃん」
声が出た。自分の声なのに、知らない声。少し高くて、前世の二十八歳サラリーマンの声とは全然違う。
鏡の中の少年は、栗色の髪に緑がかった目をしていた。攻略対象の誰とも被らない、控えめなデザイン。制作スタッフのこだわりが感じられないビジュアル。いかにもモブ。顔面偏差値でいえば「その他大勢」のど真ん中。せめてイケメンに転生させてくれよ。
ハルト・ヒースガルド。
ゲーム中の役割は「悪役王子ルシアンの取り巻きA」。Aだ。Bですらない。台詞は全編通じて三つ。うち二つが「殿下の仰る通りです」のバリエーション。台詞にバリエーションをつけてくれたスタッフにだけは感謝するが、中身はほぼ同じだ。残りの一つが断罪イベントで王子と一緒に処刑を宣告されるときの悲鳴。
処刑。
「いや死ぬじゃん俺!」
声が裏返った。姿見の中のモブ顔が絶望に歪んでいる。
落ち着け。落ち着くんだ、元・社畜の魂。前世で毎日終電に揺られた根性を見せろ。深呼吸。もう一回深呼吸。手が震えている。前世の最終面接でもここまで震えなかった。
ベッドに戻って、枕を抱えて、ゲーム知識を総動員する。
『蒼穹のエトワール』。略称エトワル。乙女ゲーとしては中堅タイトル。発売初週の売上は微妙だったが、口コミで伸びたやつ。攻略対象は四人。聖騎士見習いのレオン、天才魔導士のナシェル、温厚な側近ギルバート、そして——悪役ポジションの第一王子ルシアン。ヒロインのフィオーレが学園に入学するところから物語が始まり、卒業の儀で断罪イベントが発生する。
ルシアンルートだけ、断罪イベントの内容が違う。他のルートでは王子が断罪される側だが、ルシアンルートでは王子が断罪を免れて、代わりに……いや、俺はルシアンルートやり込んでない。隠しルートだったし、攻略情報もろくに出回ってなかった。前世の俺はレオン推しだったので、ルシアンルートは一度入りかけたきり、序盤で心が折れてやめてしまった。あのとき最後まで攻略しておけばよかったと、人生で初めて後悔している。いや人生というか、前世というか。
確実に覚えているのは一つ。
ノーマルエンド——つまり誰のルートにも入らなかった場合、ルシアンは卒業の儀で弾劾され、取り巻きもろとも処刑される。
取り巻き。
つまり俺。
「処刑エンド回避が最優先ミッションってこと……?」
枕に顔を埋めて唸る。リネンの匂いが妙に生々しい。洗濯された布の、ちょっと日に焼けたような清潔な香り。ゲームの世界のくせに五感がフル稼働している。
枕から顔を上げる。リネンについた自分の涙——ではなく汗を拭う。泣いてる場合じゃない。考えろ。処刑エンドの発生条件はなんだ。
ルシアンの好感度が一定以下のまま卒業の儀を迎えると、ヒロインがルシアンを告発する流れになる。つまり、殿下の好感度を上げればいい。ヒロインとの関係を改善して、告発イベントを回避すればいい。
理屈としては簡単だ。
問題は。
ルシアン・ヴァルトシュタインの初期好感度が、全攻略対象中ぶっちぎりの最低値だということ。
八歳で母親を処刑されて以来、誰にも心を開かない。「凍った王子」の異名を持つ、学園最大の地雷キャラ。ゲームのレビューサイトでも「好感度が上がらなすぎて攻略を諦めた」「このキャラの攻略法知ってる人いますか?→いません」という書き込みが並んでいたのを覚えている。
その殿下の好感度を、モブの取り巻きが上げる。しかもヒロインじゃなくて、二十八歳男性の魂が入った男のモブが。
なにそれ聞いてない。転生モノのテンプレと違いすぎる。
「無理ゲーでは?」
天蓋を見上げる。藍色の布が、朝の光を透かしてかすかに揺れていた。
前世の俺は、乙女ゲーが好きだった。会社の誰にも言えない趣味。休日に一人で推しキャラの限定イベントを周回し、攻略wikiに考察を書き込む二十八歳男性。恋愛ゲームの知識だけは無駄にある。
でもそれはゲームの話であって、リアルで王子様の好感度を上げた経験は当然ない。前世で上げたのは上司の機嫌くらいだ。あれは好感度というよりHPの回復に近いが。
窓の外で鐘が鳴る。低く重い音が腹の底に響いて、ベッドの木枠がかすかに振動する。学園の始業を告げる鐘だ。
ハルト・ヒースガルドの記憶によれば、今日は新学期の初日。そして今日の午後、俺は殿下に正式な側近として謁見することになっている。
謁見。
好感度最低の、凍った王子への、謁見。
枕を抱きしめる腕に力がこもる。
「……とりあえず、死なないことを目標にしよう」
ゲーム攻略の鉄則。まずは生存ルートの確保から。
処刑エンドのモブには、モブなりの戦い方がある——はず。たぶん。おそらく。
クローゼットを開けて制服を引っ張り出す。紺色のジャケットに金のボタン。袖を通すと、身体が勝手に動いてネクタイを結び始めた。ハルトの身体が覚えている動作。十六年分の筋肉記憶。便利だが、自分の身体が自分のものじゃない感覚はどうにも落ち着かない。
鏡の前で最終チェック。モブ顔のモブ少年が、それなりに整った制服姿で立っている。
「よし。まずは生存ルートの確保。話はそこからだ」
鐘がもう一度鳴り、俺は観念して部屋を出た。
次話:「凍った王子」




