第45話「呼び方の答え」
辞令が回ってから、王宮の景色が微妙に狂い始めた。
まず、門を通るときに名前を呼ばれるようになった。
「御側回りのヒースガルド様。お通りくださいませ」
俺は3歩ほど進んでから、ようやく自分が呼ばれたことに気づいて振り返った。門衛が名簿を掲げたまま、困った顔でこちらを見ている。この人には長いこと迷惑をかけた。かけた側が呼ばれて振り向かないのは失礼にあたる。
「すみません。まだ耳が慣れてなくて」
「わたくしどもも、慣れませぬ。読み方の確認に、詰所で半日を要しました」
半日。詰所の全員で仮名を睨んでいる光景が浮かんで、俺は申し訳なさで少し縮んだ。
「おそばまわり、で合っておりますでしょうか」
「合ってます。たぶん」
次に、廊下で人が道を譲るようになった。
譲られること自体はまだいい。困るのは譲ったあとにこちらの返礼を待つ顔をされることだ。
これが心臓に悪い。今まで壁際を歩いて官吏の列とすれ違っていたのに、向こうが先に端へ寄る。譲られた側は譲られた幅のぶんだけ堂々と歩かなければならない。そんな作法は誰にも教わっていないので、俺は毎回、必要以上に背筋を伸ばして通り過ぎる羽目になる。
名刺の肩書きが一行増えた同期が前世にいた。取引先の態度が急に変わるとよくぼやいていて、俺は大げさだなと思って聞き流していたのだ。大げさではなかった。紙に一行増えると、周りの人間の足の運びが変わる。
三つ目が地方領主からの手紙だった。
冬の便は峠越えで遅れる。遅れて届いた束は雪でわずかに湿っていて、封蝋が硬くなっていた。
東棟に届いた束の中に、俺宛ての一通がある。宛名の欄に、名前と職名が並んで書かれていた。ルシアン殿下附きの御方へではない。遠くにいる誰かが、俺という人間を紙の上で名指ししている。俺はその一行を、しばらく指で押さえていた。
そして四つ目。これがいちばん重かった。
「ヒースガルド殿。本日より、作法を初めから仕込み直します」
マルクスが宣言したのは、辞令の写しが東棟の名簿に貼られた翌朝である。
「なんでですか。今までと同じ仕事ですよ」
「今までは、職のない者の無作法でございました。宮廷は職のない者に何も期待いたしませぬゆえ、放っておけばよかったのです」
「放っておかれてなかったと思いますけど」
「毎朝申し上げるのは、放っておくと申すのです」
この人の基準が分からない。
放っておくと言いながら毎朝つかまえる。つかまえておいて、直らなくても諦めない。この矛盾を長年やってきた人に、俺が勝てるはずもなかった。
「ですが、職に就かれた以上、あなたの無作法は殿下の御名に付きます。礼の角度は5度浅い。袖のボタンは今日も一つ外れております。廊下は踵から落ちております。以上3点、本日中に直してくださいませ」
「本日中は無理では」
「本日中でございます」
俺は袖のボタンを留めながら、心のどこかで少し笑っていた。この人の小言の分量は、こちらへの期待の分量と同じだ。長く仕えてきた侍従長が、俺を殿下の名前と地続きの人間として扱い始めている。
「マルクスさん。ありがとうございます」
「礼には及びませぬ。わたくしの手間が一つ増えたにすぎませぬ」
その日の夕方、俺は東庭へ出た。
雪はやんでいる。芝の上に薄く残った白が、日の当たる場所から順に消えていって、まだらな模様を作っていた。空は高い。吸い込むと鼻の奥が痛くなる種類の冷たさで、こういう日は音がよく通る。
殿下は先に来ていて、ベンチに膝掛けを敷いて座っていた。
「殿下」
「座れ」
俺は隣に腰を下ろした。ベンチの石は、膝掛けからはみ出した端だけが冷たい。
しばらく二人で、東庭の隅の植え込みを見ていた。何もしない時間の過ごし方は、あの日から少しだけ上達している。上達したというより、下手なままでいることに二人とも慣れた。
膝の下から石の冷たさがゆっくり上がってくる。それでも立ち上がる理由が、今日はどこにもない。
「宮内府から、何か言ってきましたか」
「回答が早いと文句を言ってきた」
「文句なんですか、それ」
「督促を出した側が、督促より早く返ってくると困るらしい」
この王宮の理屈はどこまでも一貫している。遅ければ怒られ、早くても怒られる。ちょうどいい速さがどこかに一つだけあって、それは書式のどこにも書かれていない。
訊きたいことがある、と切り出す。
「言え」
「あの3日間の前に、宿題を出されたの、覚えてます?」
殿下の視線がこちらへ動いた。心当たりがある目だ。
「で、結局『取り巻き以外の呼び方』は覚えたんですか」
俺は膝の上で指を組んで、意識して軽い声を出した。
「こっちは職名までもらいましたよ。書類の上では、俺はもう取り巻きじゃない。ちゃんと箱に入りました。じゃあ殿下のほうはどうなんですか。宿題を出した側が、答えを持ってないってことはないですよね」
殿下は答えなかった。
植え込みの枝で雀が一度鳴いて、飛んだ。その音が消えるまで殿下は動かない。
答えないまま、正面を向いた。喉が一度上下して、それから、口が開く。
「お前はハルトだ」
「……はい」
「それ以外の呼び方は要らない」
息を吸うつもりで吸えなかった。
殿下は続きを言わなかった。理由も説明も言い訳もつけない。言い終わったあとの間を、この人はいつも別の言葉で埋めにかかる。今日は埋めなかった。
俺も何も言えなかった。
喉の途中まで来ているものがいくつかあって、そのどれを出しても、今この人が置いた形が崩れる気がした。だから俺は膝の上で組んだ指をほどいて、また組み直した。石段のほうで雪の残りが落ちる。音が一つあって、そのあとがまた静かになる。
あの朝、俺はズッ友だの右腕だのと並べて、ろくに取り合ってもらえなかった。答えは俺の側にあるものだと思い込んでいた。思い込んだまま、宿題を出された側の顔で季節をいくつも越えてきたのだ。
出題者の答えのほうが短かった。
短いぶん、直しようがない。俺は何年かかっても、この短さを超える答えを用意できない気がする。
植え込みが揺れて、灰色の母猫が出てきた。
後ろから子猫が4匹。この秋のうちにずいぶん大きくなって、もう転がらない。白と黒と縞が芝の上で追いかけっこを始め、灰色の一匹だけが、まっすぐこちらへ歩いてくる。
母猫が一度こちらを見上げて、それから殿下の足元へ寄っていく。この庭で人を怖がらない獣はこの一家だけだ。
殿下が懐から包みを出した。
「殿下。それ、まだ持ち歩いてるんですね」
「巡回の一環だ」
「巡回に給餌は含まれてませんよ」
「含めた」
干し肉の欠片が地面に落ちる。白と黒と縞が一斉に走ってきて、灰色の一匹は出遅れた。出遅れたまま欠片を探すのをやめて、ベンチによじ登り、殿下の膝掛けの上に前足を揃えて座った。
「そっちに餌はないですよ」
子猫は返事の代わりに、揃えた前足を崩して丸くなった。
殿下の手が行き場をなくして宙で止まる。それからゆっくり下ろされて、子猫の背に触れる寸前でまた止まった。この人は猫に触るのが下手だ。餌はやる。やるだけで、長いこと何にも触れずにきた手は、どこへ置けばいいのかをまだ知らない。
「殿下。その子、呼ぶとき困りませんか」
「困らん」
「呼びようがないでしょう。おい、とか言うんですか」
「言わん」
「じゃあどうやって呼んでるんですか」
殿下は答えなかった。
膝の上の毛玉を見下ろして、しばらく黙っていた。風が来て、芝に残った雪の粒が少しだけ動く。遠くで鐘が鳴り始めて、四つ鳴って、止まる。
殿下の手が下りて、今度は止まらずに子猫の背に触れた。
「エル」
名前を呼ばれた子猫が耳だけを動かした。
俺は何も訊かなかった。訊くようなことではないと思った。
殿下はそれきり口を開かず、指の腹で二度だけ、灰色の背をなぞった。
回廊のほうから、足音が近づいてきた。
響かない足音だ。振り返ると、マルクスが盆ではなく銀の受け皿を持って歩いてくる。歩幅がいつもより広い。侍従長が急ぐのを見るのは、茶葉の切れた日以来だった。受け皿の上に書状が一通。封蝋の色が違う。宮内府の青でも聖騎士団の紋章でもない。俺は蝋の意匠をどこかで見た覚えがあって、思い出すのに時間がかかった。
王璽だ。
「殿下。ただいま、届きましてございます」
殿下が膝の子猫を起こさないように腕を伸ばし、書状を受け取った。
封を切る音がやけに大きい。羊皮紙が一枚。行数は少ない。殿下が読み終えるまでにかかった時間は、書簡の山を捌くときの一通ぶんより短かった。
「殿下」
マルクスの声が硬い。
「……なんと」
殿下は答えず、俺のほうへ紙を差し出した。
受け取って、目を落とす。
文言は短い。立太子の儀につき、内示。日取りは追って沙汰する。以上。飾りの一行もなく、誰の意向とも書いていない。国の記録に残る紙というのは、いつでもこういう顔をしている。
東庭の風が書状の端を一度めくった。
めくれた角を、殿下の指がすぐに押さえる。押さえ方が書簡を扱うときの手つきと変わらない。
俺は紙を返した。殿下がそれを膝の上に置いて、しばらく何も言わずに植え込みのほうを見ていた。灰色の子猫が身じろぎして、書状の角に前足をかける。
「殿下」
「ハルト」
「はい」
「……面倒なことになった」
第二章・了




