第44話「取り巻きの語源」
翌朝、執務室の机に積まれたのは、革表紙の綴りが6冊だった。
書簡の山はいったん脇へ寄せられている。机の中央が空いているだけで、この部屋の景色が違って見えた。
綴りの背には番号が打ってある。1から7まで並んでいて、4だけが抜けていた。抜けている番号は、書庫のどこにも残っていないという意味だ。
マルクスは今日も肩が白い。埃を払う暇があったら次の棚を開けるほうを選ぶ人だということが、この2日でよく分かった。
「4冊目が見当たりませぬ」
持ち出した者が返さなかったのだろう、と侍従長は言った。ずいぶん昔の話らしい。書庫の帳面には借り出しの記録だけが残っているという。
「借りた人の名前は」
「線が引いてございます」
俺は口を閉じた。この王宮では人の名前の上に線が引かれる。線を引くのが誰の仕事なのかは、訊かなくても分かる気がした。
抜けた4冊目を惜しんでいる顔ではなかった。惜しむより先に、次の棚のことを考えている顔だ。
殿下は書記官が来る前から来ていて、来たときにはもう3冊目に入っていた。
指が頁を送る速さが、書簡を捌くときの半分もない。眺めているのではない。読んでいる。
「マルクス」
呼んでおいて、目は綴りから離れない。
「6の、後ろから7枚目だ」
侍従長が該当の綴りを引き寄せ、頁を繰った。繰る指が途中で動かなくなる。それから、この人にしては珍しく、声より先に息が出た。
「……御側回り」
読み方を訊いた。
「おそばまわり、と仮名が振ってございます」
俺は身を乗り出した。机の端から覗き込んだ古い書体は、俺の位置からだと逆さでしかも掠れている。
墨の色が茶に近い。何代ぶんの冬をこの棚で越えたのか、想像がつかなかった。
「なんですか、それ」
「職名でございます。廃されたのが古すぎて、わたくしも聞いたことがございませぬ」
マルクスが同じ行をもう一度、目で追い直した。
「そばを回る者。それだけしか書いてございません」
それだけか、と訊き返す。
「それだけです」
マルクスが頁の余白を指でなぞった。乾いた紙が指の下で小さく鳴る。
「ただし、その下に注記がございます。この職より、書に関わる役を分けて内書掛を置く。以後、御側回りは用いず——と」
部屋の空気がわずかに動いた。
内書掛。あの日、7枚目で殿下の返事が一拍遅れた紙だ。俺とマルクスと書記官が同時に息を止めて、そのあと「違う」が落ちてきた。
「じゃあ、内書掛って」
「この職から分かれて出た子でございますな」
マルクスが顔を上げて、机の向こうを見た。
「殿下。ご存じでしたか」
「知らん」
「では、なぜ一拍」
「あれは書き物の役だ。書き物の役に名前がついているなら、その前は何と呼んでいたのかと思った」
俺は自分の膝を見た。
殿下は7枚の羊皮紙を四半刻で全部叩き落として、そのあいだ黙って、そんなことを考えていたのか。考えたことを一言も説明しないまま、探せとだけ言った。
理由を言わずに決裁だけ差し戻してくる上司が前世にもいた。あれとは似ているようで、たぶん、まったく違う。
「マルクス」
名を呼んでから次までが短い。すでに決めてある人間の速さだ。
「御側回りとする」
殿下が綴りを閉じた。
書記官の羽根ペンが紙を叩く音が、やたらとはっきり響く。マルクスは即答しなかった。宮廷の壁を、勤めてきた年月のぶんだけ知っている人だ。通るか通らないかを、頭の中で先に一往復させている。
「宮内府は、なんと申しましょうな」
「廃された職の復活だ。新設ではない」
「前例はございます。前例しかない、とも申せますが」
「ならば通る」
「……通りましょうな」
マルクスが息を吐いた。吐いてから、背筋をもう一段伸ばす。この人が姿勢を直すのは、これから踏み込んだことを言う合図である。
「一つだけ、お伺いいたします。なにゆえ、この名でございますか」
殿下が顔を上げた。
「マルクス。あの秋、お前が柊の間に並べた7枚だ。どれも人の数を数えるための言葉だった」
侍従長は口を挟まない。
「側用人が何人、侍従が何人、書記が何人。宮廷はそうやって人を数える。数えるための言葉には、誰の隣かが書いていない」
俺は動けなかった。
その日の夕方に、殿下が言いかけて途中でやめた一言だ。今日の七つは、どれも人の数を数えるための言葉だ。
意味を訊いたら「言えん」と返ってきて、耳の先が赤くなって、それきりだった。あれからずいぶん日が経っている。
「御側回りは、人を数える言葉ではない」
殿下が古い書体の四文字を指で示した。
「誰の側に在るかを名指す言葉だ。数えても意味がない。数ではなく、場所の名だからだ」
書記官の手が完全に止まっている。マルクスは深く一礼して、それから、無言で回答書の様式を取りに立った。
手続きそのものは、拍子抜けするほど短かった。
宮内府への回答書に職名を記し、殿下が署名する。写しが3通。1通は宮内府、1通は門衛の詰所、1通は東棟の名簿へ。
羊皮紙が3枚と蝋と印。国の記録に一つ名前が増えるのに要る手間は、市場で瓜を買うのとそう変わらない。
回答書を持った使いが出ていくのを、俺は窓から見送った。あの紙が門を出れば、あとはもう戻らない。
昼過ぎ、庭師頭がやってきた。
熊手がない。手ぶらで歩く庭師頭を配下の連中が見たら騒ぐだろう。落ち葉の始末が終わって雪の番に切り替わったらしく、代わりに腰へ太い縄を巻いている。
「侍従長。庭の台帳から、人の名を抜いたと伺いましたが」
「抜きました。宮廷の職に入りましたゆえ、庭師の管轄には置けませぬ」
「では、指図の筋は一本でございますな」
一本でございます、と侍従長が答える。
「結構」
それだけ言って、庭師頭は帰っていった。あの人は正論だけを持ってきて、正論が通ると何も言わずに去る。この王宮でいちばん話が早い人かもしれない。
猫はどうなるのかと訊くと、マルクスは帳面を開いたまま答えた。
「東庭預かりは、事の名として残ります。責任者の欄は空きますな」
空けたままにしておくのか。
「殿下が、そのままにせよと」
夕方、東庭に出た。
辞令はまだ回っていない。それでも廊下ですれ違った侍女の会釈が、朝より半拍だけ長かった気がする。気のせいかもしれないし、そうでないかもしれない。
雪はまだ本降りにならない。降っては溶け、降っては溶けを繰り返して、芝の根方だけが白く残っている。
吸い込んだ空気が肺の奥まで冷たい。ベンチには昨日と同じ膝掛けが畳んで置いてあって、その端が少し湿っていた。
殿下は先に来ていた。植え込みの手前にしゃがんで、灰色の母猫の前に干し肉を落としている。
「殿下」
俺はベンチに座った。
「訊いてもいいですか」
「言え」
座ってから、言葉の順番を3回組み替えた。
「なんで、あの名前だったんですか」
「言った」
「人を数える言葉じゃない、っていうのは聞きました。でもそれは、あの名前を選ばなかった理由でしょう。選んだ理由になってません」
殿下が立ち上がった。手についた欠片を払って、こちらを見ないまま歩いてくる。ベンチの前で足を止めて、それから、俺の顔を見た。
「お前が言ったのだろう」
「……何をですか」
「取り巻きってのは——殿下のそばにいる者だと」
東庭の音が全部遠くなった。
俺はその言葉をどこで言ったかを思い出すのに数秒かかった。数秒かかったのは、思い出せなかったからではない。
思い出したものがあまりに大きくて、頭がそれを一度、別のものだと処理しようとしたからだ。
卒業の儀。大講堂。数百人の前で、俺は壇上に向かって歩きながら叫んでいた。
あのとき俺はこの人に聞かせるつもりで言ったわけじゃなかった。ギルバートに向かって言ったのだ。周りの貴族に向かって言ったのだ。
誰でもいいから聞け——その一心で喉から押し出した言葉で、自分が何を言ったかも半分は覚えていない。
この人は覚えていた。
あの日から季節が二つ変わっている。そのあいだ一度も口に出さずに、それを持ち歩いていたことになる。
「殿下、あれ」
「一言一句だ」
なんでと口が動いた。
「なぜ覚えているかを訊いているのか」
「……いえ」
訊きたいことはそれではなかった。それではないのだが、正しい訊き方が見つからない。返事の形になりかけたものが途中で息に化けた。
「肩書きを探していたのではない」
殿下が言った。声はいつもの高さで、いつもの平坦さだった。
「あの言葉に、宮廷が通す形を探していた。俺が探しても見つからんから、マルクスに探させた」
「それ、最初から言ってくれれば」
「言えるか」
「言えませんね」
「言えん」
殿下は耳の先を赤くしたまま植え込みのほうへ目を落とした。落とした先に猫がいたのは、たぶん偶然ではない。都合の悪いときに見るものを、この人はあらかじめ庭に飼っている。
俺は膝の上で手を組んで、しばらく黙っていた。
言いたいことは山ほどある。どれを引き抜いても、引き抜いた先から言葉が余計になっていく気がした。だから何も言わずに、白い息を一つ長く吐く。
東棟へ戻る途中、名簿を開いているマルクスとすれ違った。
立ったまま帳面を腕に載せ、ペン先で罫を引いている。俺は横から覗き込んだ。
線を引く手つきが妙に慣れていて、定規も当てずに、紙の端から端まで一息で通っていく。この人の線は絶対に曲がらない。
引き終えた欄に、侍従長が字を入れた。
ハルト・ヒースガルド。その右隣に、昨日まで存在しなかった欄がある。欄が一つ増えるというのは、この建物に席が一つ増えるということだ。
御側回り。
次話:「呼び方の答え」




