第43話「役職名、最終選考」
その朝、東棟の廊下に灰色の人影が立っていた。
背筋は伸びている。上着の仕立ても普段通り。ところが肩から袖にかけて一面が白っぽく、髪の生え際にまで細かい粉が乗っていた。
王宮の格式がそのまま人の形をとって歩いている——そう説明されたら疑わずに頷く、と思っていた。今日に限っては撤回したほうがよさそうだ。
「マルクスさん。何かに埋まってました?」
「埋まってはおりませぬ。掘っておりました」
掘った場所を聞いて、俺の口は半分開いたまま止まった。西棟の三階の、あの忘れられた一室。棚の三段目に、古い職制の綴りが残っていたのだという。
あの部屋か、と訊くまでもなかった。
「台帳に載っておらぬ部屋の、載っておらぬ棚でございます。誰も拭かぬ場所ゆえ、埃だけが正直に積もっておりました」
「あの部屋の鍵、俺の机に置いていきましたよね」
「置きました」
「何に使ったか、訊かないんですか」
「訊きませぬ。ただ、埃の減り方から、椅子が4脚動いたことは分かります」
殿下を別にしても、この王宮には俺の行動を埃と匂いから再構成する人間が二人いる。片方は魔導院の天才で、もう片方は勤続の長い侍従長だ。前者はまだ諦めがつく。
後者に至ってはこちらが何もしていない日まで当ててくる。何もしていないと言い当てられるのは、何かをしていると当てられるより気まずい。
「叱らないんですか」
「叱る根拠を、わたくしは持っておりませぬ。何かをなさっていたことは分かりますが、何をなさっていたかは分かりませぬゆえ」
嘘だ。この人は絶対に知っている。知った上で、知らないという体を保つために埃の話だけをしている。
祝いの当日、東庭で茶を注いで回ったのはこの人である。
マルクスは咳払いをひとつして、小脇に抱えた綴りを俺の腕に押しつけた。ずしりと重い。表紙の革が乾ききって、角が粉になって落ちる。
「宮内府より、3度目の督促が参りました」
初めのものは10日以内と期限が切ってあり、次のものは年内と書かれていた。3度目には期限そのものが書かれていないという。
「期限を書かぬ督促というのは、最も厄介な種類の督促でございます」
「怒ってるってことですか」
「諦めかけているということです。諦められると、こちらの都合で決められてしまいます」
俺は綴りを抱え直した。埃の匂いが鼻の奥に来る。乾いた革と、古い糊と、長く動かなかった紙の匂い。
抱えた腕に、表紙の冷たさがじわりと移ってくる。西棟の三階は炉が通っていない。この重さを抱えて階段を下りてきた人の年齢に、俺は今さら思い当たった。
それで、この綴りは何なのか。
「新設ではもう通用しませぬ」
マルクスがきっぱりと言った。言い切る前に一度だけ肩の埃を払ったのは、たぶんこの人なりの前置きである。
庭の台帳に欄を新設し、東庭の預かりとして門を通したのが、この人の持ち札の最後の一枚だったらしい。あれは庭の帳面だから通ったのだと言う。
「宮廷の職制に新しい箱をひとつ作れと申せば、宮内府は3年かけて断ります」
早ければ2年で済むこともあるそうだが、どちらにせよ殿下の随行名簿には間に合わない。
「じゃあ、どうするんですか」
「昔あった箱を、開け直すのです」
廊下の窓の外で、庭木の枝に残った雪が音もなく落ちた。
昨日の初雪は積もらずに終わったが、枝の付け根にだけ白が残っている。それも昼までには消えるのだろう。
「廃された職名であれば、それは新設ではございませぬ。前例そのものが書庫に眠っております。宮内府が最も好むのは、自分たちが昔決めたことでございますゆえ」
俺は綴りの表紙を指でなぞった。
前世の会社で、統廃合された部署の一覧を眺めたことがある。もう存在しない名前がずらりと並んでいて、その一つ一つに、かつて毎朝そこへ出勤していた人間がいた。
そう思うと妙な気分になったのを覚えている。この綴りの中にも、同じ数の朝が眠っているのだろう。
昼までかけて、俺とマルクスは綴りを頭から潰していった。
頁を繰るたび、細かい紙の粉が机の上に散る。指の腹がざらついて、しまいには字より先に手触りで頁の古さが分かるようになった。
出てくる職名は八割方が意味不明だった。氷室番、鷹の間の書役、雨儀の掛。
冬の狩りの獲物を数えるためだけに置かれた職があり、王家の馬の名前を管理する職があり、鐘の鳴る数を数える職まであった。
「これ、全部なくなったんですよね」
「なくなりました。人が減ったのではなく、まとめられたのです。職というものは年月が経つと合併いたします」
「まとめられた側の名前は、どこへ行くんですか」
「消えます。あるいは、こういう綴りの中で埃を被ります」
午を過ぎた頃、マルクスの指が止まった。
止まった位置には何も書かれていない。この人が止まるのは、紙の上ではなく、自分の記憶のほうに引っかかりを見つけたときだ。
「殿下が一度だけ、一拍お考えになった職名がございましたな」
柊の間で7枚の羊皮紙が却下されていったあの日を俺は覚えている。読み上げより速く「違う」が飛んできて、7枚目でだけ、わずかな間があった。内書掛。
「あれは、比較的新しい職にございます」
宮廷の尺度で申せば、という但し書きがつく。新しいということは、その前に何かがあったということだ。職は合併するか、分かれるかのどちらかでございますゆえ、と侍従長は言った。
「その前って、何ですか」
「調べております」
マルクスは綴りを閉じて、それ以上は言わなかった。この人が「調べております」と言うときは、たいてい半分まで分かっている。
午後、柊の間に書面が並んだ。
長机の上に5枚。前と違うのは字が大書されていないことだった。古い書き方をそのまま写しているので書体が今と違う。
読みにくい。読みにくいから、目で追うのに時間がかかる。
殿下はすでに上座にいる。宮内府の若い書記官が、机の端で羽根ペンを構えていた。この前と同じ男だ。あのときは7枚が端から全滅していくのを呆然と見ていた。今日は最初から諦めた顔をしている。
「本日は読み上げませぬ」
マルクスが宣言した。前回、殿下は読み上げの速さを上回った。それなら読み上げる意味がない、というのがこの人の理屈である。
「お手に取って、要らぬものは伏せてくださいませ」
「伏せる」
「裏返すのです」
殿下が一枚目に手を伸ばした。
指先が紙の端を持ち上げる角度まで、前のときと寸分違わない。同じ動作を同じ精度で繰り返せる人間で、それは要するに、迷っていないということでもある。
目を落とす時間は息を二つ吐くほど。それから紙が裏返る。紙が机を叩く音が一つして、白い裏面が現れた。
2枚目。同じ長さで同じ音。
3枚目は少し長かった。長かったが結果は同じだった。
書記官が小さく手を挙げた。
「記録には、なんと」
「却下と書け」
「はい。……あの、却下の理由は」
「書かなくていい」
書式に理由の欄がある、と書記官が食い下がる。
「線を引いておけ」
書記官が本気で泣きそうな顔になった。宮廷の書式を正しく愛している男なのだ。俺は末席から、心の中で全力の同情を送った。
柊の間は炉が遠い。指先から冷えていく部屋で、紙の裏返る音だけが規則正しく続く。
4枚目が裏返る。
残った一枚に、殿下の手が伸びて、途中で止まった。
俺の位置からは字が逆さに見える。逆さでも読める。内書掛。ただし綴りから写した古い書体で、送りの仮名の付き方が今と違っている。
殿下は紙に触れなかった。触れないまま、しばらくそれを見ていた。
「殿下。それでよろしゅうございますか」
文官の職階には触れない。廃された職だから登用試験も要らない。門も通る。宮内府は自分たちの祖父が決めたことには逆らわない。マルクスが並べた条件を、俺は指を折る代わりに頭の中で数えた。
完璧だった。
完璧なのに、俺の中で何かが座らない。
書類は通る。門も通る。あの空欄が埋まって、地方領主の手紙に宛名がつく。何ひとつ文句のつけようがない。
それなのに、内書掛と呼ばれた自分が廊下を歩いているところを想像すると、そこにいるのはやっぱり俺ではない誰かだった。
前のときは「立派すぎる」と思った。今度は違う。意味は合っている。合っているのに足りない。
何が足りないのかが分からないから、口に出しようがない。
「ハルト」
顔を上げると、目が合っていた。逸らす気配がない。
「その顔をやめろ」
「どの顔ですか」
「得心のいっていない顔だ」
マルクスが俺のほうを振り向いた。書記官まで振り向いた。全員に見られている。自分の顔面の管理能力について、俺は今日ほど失望した日がない。
「いや、殿下。俺のことは気にしないでください。書類が通ればそれで」
「通らん」
「通りますよ。侍従長がそう言ってるんですから」
「紙は通る」
殿下が言って、最後の一枚に指をかけた。
「お前が通らん」
紙が裏返った。
5枚目の白い裏面が机の上に並ぶ。書記官の羽根ペンがインク壺の縁で止まったまま、雫が一つ落ちて、記録用紙に丸い染みを作る。
「殿下」
マルクスの声は驚くほど平坦だった。
「王宮とは、決めた名を呼ぶだけの場所でございます。呼ばれる者が得心するかどうかまでは、面倒を見ませぬ」
「今日は見る」
「宮内府への回答は」
「明日出す」
「明日、何をお出しになります」
「お前が持ってきた綴りの続きだ」
マルクスの眉が動いた。
「続き、と仰せられますと」
「あれは一冊ではないだろう。革の背に番号が入っていた」
侍従長が二拍ほど黙って、それから深く一礼した。埃はまだ肩に残っている。
書記官が用紙を抱えて逃げるように出ていき、マルクスが綴りを取りに西棟へ戻り、柊の間には俺と殿下だけが残った。
扉が閉まると、部屋の音が急に減る。長机の木目と、窓の外の白っぽい空だけになった。
机の上には裏返された5枚の白がある。
俺は端から一枚ずつ、表に返して並べ直した。読めない書体の職名が、また順番に顔を出す。片づけるにしても、裏のままでは何がどれだか分からない。
3枚目まで返したところで、横から手が伸びてきた。
殿下が俺の返した一枚をまた裏返す。
「殿下」
「片づけろとは言っていない」
「片づけないと机が使えませんよ」
「使わん」
俺が表に返し、殿下が裏に返す。乾いた音が二度続いて、それから殿下がもう一枚に手を伸ばした。
次話:「取り巻きの語源」




