第42話「何もしないが、下手すぎる」
休みの日というものを、俺たちは秋に一度、盛大に取り損なったことがある。
あの日は結局、二人とも仕事の側へ戻ってしまった。殿下は執務室で書簡を捌き、俺は発注書の確認という名目で東棟の廊下から門まで歩いたのだ。
休養とは何もせぬことでございます、とマルクスが言った。それは休養の説明になっていない、と返されて話は終わった。あれから庭の楓はすっかり裸になり、朝のインクは粘るようになっている。
冬月の21日、殿下は朝の巡回から戻ってくるなり、回廊でこう言った。
「今日は何もしない」
俺は手に持っていた書簡の束を取り落としかけた。
「今、なんて」
「何もしない」
「聞き間違いかと思ったんですけど」
「二度言わせるな」
執務室の扉の前まで来て、殿下が足を止めた。
把手に手をかけない。かけないまま、扉の木目のあたりを見ている。開ければ机があり、机の上には書簡の山がある。それを見た瞬間に自分の手がどう動くかを、殿下は正確に予想したのだと思う。
俺のほうも似たようなものだった。今この扉が開いたら、俺の手は勝手に書簡を差出人ごとに分け始める。
「殿下。場所を変えませんか」
「なぜだ」
「ここにいると、俺の手が勝手に書類を分け始めるので」
東庭のベンチは日が当たる時間だけ石の冷たさが抜ける。
昨日椅子を並べた植え込みの前からは離れた、南寄りの一脚だ。俺が先に着いて座ると、少し遅れて殿下が来た。脱いだ上着を着直して、腕に膝掛けを抱えている。
昨日もらったばかりのやつを、自分で部屋から持ってきたらしい。誰にも運ばせずに自分で持ってくるあたりが、この人の不器用さの真ん中にある。
膝掛けを広げて座り、殿下は正面の植え込みを見た。俺も見た。
植え込みは何もしていない。
問題は隣で何もしていない人の姿が、どこからどう見ても執務中に見えることだった。肩の線はいつもの角度で、視線はまっすぐ前を向いている。
「それ、何もしてないんじゃなくて、『何もしない』をやってます」
「違いがあるのか」
「あります。たぶん」
「たぶんとは何だ」
「俺も自信がないんですよ」
「ハルト」
呼ばれて隣を見た。返ってきたのは横顔だけだ。
「何もしないとは、どのくらいの時間を指す」
「決まってないと思いますけど」
「終わりがなければ、始まったかどうかも分からん」
「殿下、それはたしかに正しいんですけど、正しさを持ち込むと休みじゃなくなります」
殿下が黙った。黙って、しばらくしてから口を開く。
「雲を見る」
「いいですね。何もしてない感じがします」
二人で空を見上げた。低いところに厚い灰色が広がっていて、朝より重い。梢の間から見える部分だけでも、昨日とはまるで違う色をしている。
「北からだな。風の向きが変わっている。東街道の荷は遅れる」
「殿下」
休みの話をしていたはずだった。
「今、公務してます」
「していない」
「してます。俺、頭の中で調達の日程を組み直しました」
二人で同時に口を閉じた。
これは前世で覚えのある感覚だ。休みを取った日の午前中に、会社の夢を見て起きる。身体だけ休みの側に置いても、頭がひとりで出勤していく。
「別のものにしましょう。数を数えるとか」
「何のだ」
「石段の苔とか」
殿下が石段のほうを見て、それから真顔で数え始めた。三段目まで数えたところで手を止める。
「27」
「速すぎませんか」
「三段目までだ」
「三段で27もあるんですか。庭師頭に怒られますよ」
「庭師は苔を残す。冬に剥がすと石が割れる」
「なんで知ってるんですか」
「巡回で聞いた」
この人は毎朝、庭のことを一つずつ覚えている。誰にも報告しないから誰も知らない。
それから俺たちは黙る競争を始めた。
どちらが先に喋るかという話ではなく、単に話すことがなくなっただけだ。ベンチの端と端で、二人とも前を向いて座っている。
風が植え込みの葉を鳴らし、遠くで荷車の輪が門のほうへ抜けていく。東棟のどこかで扉が閉まる音。
沈黙というものに、これほど種類があるとは知らなかった。
学園の頃、この人の隣の沈黙はいつも硬かった。喋らないのではなく、喋らせないための沈黙だった。今のこれは形が違う。どちらかが喋ってもいいし、喋らなくてもいい。
どちらでもいいという状態を、俺の身体はまだうまく処理できずにいる。手が意味もなく膝の布を摘まみ、それに気づいて離し、しばらくするとまた摘まんでいる。
「ハルト」
声だけが横から来る。
「その手を止めろ」
「見てたんですか」
「音がする」
布を摘まむ音が聞こえる距離ではない。この人は視界の端で人の手癖を数えるところがあって、それを本人は観察だと思っていない。
半刻ほど経った頃、視界の隅にマルクスが現れた。
回廊の柱の陰から、こちらを一度だけ見て、それから何も言わずに引き返していく。踵の音はしない。
あの人の目には王子と側近が並んで座って何もしていない光景が映ったはずだ。長く仕えた侍従長にとって、それがどういう種類の異変に見えたのかは分からない。
「ハルト」
今度は間があった。
「お前は今、何を考えている」
「明後日の来客の順番です」
「殿下は」
「マルクスの足音が聞こえなかった理由だ」
「二人とも駄目じゃないですか」
殿下が短く息を吐いた。笑ったのかもしれないし、諦めたのかもしれない。この人の呼気は情報量が少ない。
最初の一片が落ちてきたのは、そのすぐあとだった。
視界の端を白いものが横切って、膝掛けの上でほどけて消えた。もう一片が俺の手の甲に落ちる。冷たいという感覚が届く前に水になっている。
顔を上げると、灰色の空の下のほうから、細かい粒がまばらに降り始めていた。
あの夕方に見上げた空は、まだ何かを落とすには軽すぎた。あれから20日、ようやく落とすものを持ったらしい。
「初雪ですね」
「ああ」
積もる降り方ではない。芝に触れた端から消えて、敷石の上だけが少しずつ濃い色に変わっていく。音がない。降り始めた雪が、庭にあった音を一つずつ引き取っていく。
殿下が立ち上がった。
「殿下?」
「動くな」
膝掛けを俺の膝の上に落として、殿下は回廊のほうへ歩いていった。止める間もなかった。俺は膝の上の毛糸の重さを持て余したまま、ベンチに一人で取り残される。
戻ってこない。
雪は変わらない速さで降り続けている。膝の上の毛糸に落ちた粒だけが、他より少し長く形を保ってから溶けた。
俺は待つのが下手ではないつもりだが、それは待つ理由が分かっている場合の話だ。理由の分からない待ち時間は、同じ長さでも倍に感じる。
四半刻ほど経って、さすがに探しに行こうかと腰を浮かせたところで、回廊の奥に人影が見えた。
殿下が盆を持って歩いてくる。
両手で。歩幅が普段の半分で、目線が盆の上から一度も離れない。遠目にも湯気が見えて、その湯気が歩くたびに斜めに流れる。腕は身体の前に低く固定されたままで、肩から下だけがそろそろと運ばれてくる。
ベンチの前まで来て、殿下は盆をベンチの座面に置いた。
杯が一つだけ載っている。
殿下は何も言わなかった。杯を取って、俺のほうへ差し出す。目は合わない。俺の手の位置だけを見ている。
俺も何も言わずに受け取った。
両手のひらに熱が来る。杯の縁から立つ湯気に、あの乾いた花と煙の匂いが混じっている。一口飲んだ。
濃い。
葉の量が明らかに多い。湯も熱すぎたはずだ。舌の上に渋みが先に来て、そのあとから香りが遅れて追いついてくる。俺が毎日淹れているものとは、別の飲み物と言っていい。
俺はもう一口飲んだ。
殿下はベンチの反対側に座り直して、正面の植え込みを見ている。こちらを見ない。見ないまま、片手が膝の上で一度だけ握られて、また開いた。
配膳の間の場所を、この人がどうやって突き止めたのかは知らない。炉に火を入れ、銅の器で湯を沸かし、葉を量って蒸らして注ぐ。手順としては短い。
短い手順に四半刻かかる理由のほうを、俺は毎日その手順を踏んでいる側として知っている。
右の袖口に、湯を被った跡が残っていた。
雪が降っている。
俺は杯を両手で抱えて、少しずつ飲んだ。渋いものはゆっくり飲むと角が取れる。飲み終える頃には、指先の冷たさがどこかへ行っていた。
空になった杯を盆に戻すと、陶器が木に当たる乾いた音が、雪の中でやたらとよく響く。
殿下は何も訊かなかった。
俺も何も言わなかった。
そのあと、俺たちは長いこと同じベンチに座っていた。何を話したかは覚えていない。たぶん、たいしたことは話していない。
庭の敷石の色が残らず濃くなって、回廊の向こうで灯りが入り始めた頃、ようやく殿下が立ち上がった。
「戻る」
「はい」
膝掛けを畳んで小脇に抱え、殿下が先に歩き出す。俺は盆を持って後ろについた。
午後というものが、いつの間にか終わっていた。始まった覚えも途中で何かをした覚えもない。秋のあの日に侍従長が言い残していったことは、どうやら合っていたらしい。答え方が下手だっただけだ。
回廊に入ると、雪の音のなさが急に途切れて、廊下が自分の足音を返してきた。
舌の奥に、まだ渋みが残っている。
次話:「役職名、最終選考」




