第41話「十年分の、おめでとう」
冬月の20日は腹が立つほど普通の朝として始まった。
鐘は同じ数だけ鳴り、インク壺は同じように粘り、マルクスは俺の襟の折り返しについて昨日と寸分違わぬ苦言を述べた。世界が今日を特別扱いする気はまるでない。
いや、普通の朝の顔をさせるために仕込んだのは俺なんだが。それにしても、空くらい曇ってくれてもいいんじゃないか。
机の上には宮内府から戻ってきた日程表の写しがある。20日の欄に並ぶ四文字は俺の字だ。執り行わず。
自分で書いた字が、これほど他人の顔をして見えるものだとは思わなかった。書いた当人がいちばん腹を立てているんだから世話がない。
殿下はいつも通りに巡回へ出て、いつも通りに書簡の山へ戻っていった。
午前は議事が二つ、午後は陳情の処理。今日が何の日かを知っているはずの人が、そのことを一度も口にしない。
知っていて黙っている背中は、知らない背中とほんのわずかに違う。姿勢がいいのだ、普段より。
いや、そこを直すな。今日くらい猫背でいてくれ。
「ハルト」
「はい」
「今日は何を企んでいる」
「内緒です」
「そうか」
5日前とまったく同じ問答が、5日前より短い時間で終わった。二度目の問いは、答えが変わらないと知っている人間の訊き方をしていた。
知っていて訊く。訊いてから引き下がる。譲歩というものの手つきが、日ごとに慣れてきている。
なんで慣れるんだ。慣れられるとこっちの罪悪感が増えるんだが、それを本人に言うわけにもいかない。
俺は上着の襟の内側を確かめた。段取りを書いた紙は朝からそこにある。何度確かめたところで増えも減りもしない。
大事な日の朝にこれをやる癖は、前世に置いてくることができなかった。
崩れたのは日が傾き始めた頃だった。
「ヒースガルド殿。東の通用門から使いが。城下の菓子屋の荷が、門で止まっております」
マルクスの声から小言の温度が抜けている。声が平らになるときは、たいてい事態のほうが尖っている。
通行の申し送りは今朝のうちに出したはずだ、と食い下がった。
「荷の目録に、品名の記載がございませぬ」
俺は自分の頭を殴りたくなった。
品名を伏せて頼んだのは俺だ。書けば帳面に残り、帳面に残れば殿下の目に触れる。だから伏せた。
伏せた結果、名前のない荷が門の前で立ち往生している。半月かけて利用してきた理屈に、いちばん要る場面で足を掬われた。
無事なのは俺の秘密のほうで、菓子は門の外にいる。守る側を間違えた。
刻限まで半刻もない、と侍従長が言った。半刻。走って往復するだけで溶ける長さじゃないか。
俺は走った。
東の通用門の外に、二輪の荷車が一台だけ停まっていた。
夕方の光が門柱の影を長く伸ばしている。車の脇に人影が並んでいる。片方は若い男で、もう片方は毛織の外套を着込んだ恰幅のいい年配の女性だった。
俺の足がひとりでに速くなる。いや待て、あの店の焼き菓子を、店の人間が自分で運んできている。
「わざわざ来てくださったんですか」
「亭主だけじゃ心配だったのよ。王宮なんてねえ、あたしゃ生まれてこのかた門しか見たことがないんだから」
門衛が申し訳なさそうに目録を掲げてみせた。荷の数量、差出人、届け先。品名の欄だけが白い。
この空欄には見覚えがありすぎる。空けさせたの、俺だ。
「品名の記載なき荷は、通せませぬ」
中を見てくれれば済む話ではないのか、と食い下がる。
「中身ではなく、目録を通すのでございます」
その通りだ。ぐうの音も出ない。中身ではなく目録を通す。つまりこの門をくぐっているのは荷ではなく、荷について書かれた一行のほうなのだ。
いや、感心している場合じゃない。
俺はしばらく目録を睨んでから、荷車の覆いを引き剥がした。木箱の中で油紙の包みが行儀よく並んでいる。まだ温かい。
「じゃあ、荷を解きます」
「解いたら品名はどうなる、と申されますか」
「解いたら荷じゃなくなりますよね」
門衛の口が半分開いた。
「これは俺が手に持って歩く物です。門をくぐる人間が両手に何を持っているか、目録に書く決まりはありますか」
門衛が決まりの束を頭の中で繰るのが、目の動きで分かった。繰り終えて、ありません、と答える。
「じゃあ通れますね」
「屁理屈でございます」
「今日の俺は屁理屈で生きてます」
門衛が長い息を吐いて、それから一歩下がった。最後まで規則の側に立ったまま、規則の隙間だけを黙って空けてくれる。この王宮の親切は、だいたいこういう形で出てくる。正面から味方はしない。しないが、退く。
問題は数だった。俺の両腕に載る包みは、どう積み上げても半分に届かない。
包みを抱え直していると、店主が俺の袖を軽く叩いた。この前言いそびれたことがある、と言う。
「あんたが慌てて包みを注文しなすったときにね。あたしゃ途中で口を止められたでしょう。あのとき何て言いかけたか、覚えてるかい」
覚えているも何も、止めたのは俺である。全力で止めた。
「凍った王子様に焼き菓子だなんて、って」
女性は荷車の縁に手を置いて、遠くを見る目になった。目尻の皺が横に伸びる。
「そうそう。凍った王子様に焼き菓子だなんて、うまくいくわけがないと思ったのよ。厨房のみんなも笑ってた。だからね、あの頃あんたが厨房に来るたび、いちばん上手に焼けたのを選んで包んでたの。どうせ駄目なら、いちばんいいのが駄目になったほうがいいと思って」
喉の奥が塞がって、返事が出てこなかった。
なんだそれは。うまくいかないと思いながら、いちばんいいのを出していたのか、あの厨房は。
「今日は、どうしたのさ。こんなに」
「……人に渡すので」
女性は先を訊かずに、木箱の底へ手を入れた。
底から出てきたもう一つの包みを、俺の抱えた山のいちばん上に載せる。焼き縁の色が他より濃い。焦げる寸前まで火に入れた、いちばん香りの立つやつだ。
「あの人、覚えてましたよ。味を」
「そりゃそうよ。うちの菓子だもの」
女性は胸を張って、それから鼻の頭を一度こすった。指の関節が赤くなっている。この寒さの中を、荷車を押してここまで来たのだ。
礼の言葉をいくつか探したが、どれも軽い。とりあえず頭を下げた。下げた拍子に腕の中の山が崩れかけて、慌てて抱え直す。
包みの山を抱えて振り返ったところで、門の内側から足音が近づいてきた。
「ヒースガルド。何をしている」
「見て分からないか」
「分かる。菓子だ」
「持て」
レオンは無言で腕を差し出し、俺の山の上半分を引き取った。東庭から俺が走り出ていくのを見て、そのまま追ってきたらしい。
革と手入れ油の匂いがする。この匂いを殿下は窓越しに嗅ぎ当てるのだから、この王宮でいちばん怖いのは門衛じゃない。
東庭に戻ると、支度はあらかた整っていた。
前世で会場の設営を任されると、いちばん時間を食うのは椅子の並べ方だった。人は座る位置で機嫌が変わる。上座を作るか、輪にするか、それだけで場の温度が決まってしまう。
植え込みの手前に椅子が5脚、半円に並んでいる。台帳の点検という名目で運び込んだやつだ。
ナシェルが低い位置に三つ、掌にのるほどの光の玉を浮かべていて、燭台よりはるかに目立たない明るさで芝を照らしている。フィオーレさんが布を敷いた台の上に杯を並べ、その脇でマルクスが湯の支度をしていた。
5日前は埃だらけの空き部屋で、床に紙を広げ、椅子を寄せて額を突き合わせていた。それが今は誰も指示を待っていない。主催者の出番がひとつも残っていなくて、ちょっと寂しい。
「灯りが弱くないか」
「弱くしてある。強い光は遠くから見える。君は今日、王宮でいちばん目立ちたくない人間だろう」
助かる、と礼を言うと、決まった文句が返ってきかけた。
「観察を——」
「述べただけだろ。知ってる」
「先に言われると張り合いがないな」
ナシェルの口癖を先に言えた日はそう多くない。今日くらいは勝たせてもらう。
俺は襟の内側から段取りの紙を抜いて、最後にもう一度だけ目を通した。
書いてある項目は全部潰した。あとはルシアンをここへ連れてくるだけだ。いちばん難しいところがちゃんと最後に残るように、段取りというのはできている。
紙を畳んで懐へ戻し、俺は東棟へ引き返す。廊下の窓の外はもう藍色で、庭の輪郭が溶け始めている。
執務室の扉を開けると、羽根ペンの音が一度だけ跳ねた。
「殿下。台帳の点検をお願いします」
「今からか」
「今からです。日が落ちると見えなくなるので」
「明日にしろ」
「明日は俺の手が空きません」
殿下がペンを置いた。上着の襟の上でブローチが一度光って、それから顔が上がる。
俺の言い分に穴があることは、ルシアンにはとっくに見えている。日の落ちた庭で何を点検する気だ、と訊かれたら俺は詰む。
見えているのに、椅子を引いて立ち上がった。
「灯は」
「持ちました」
東庭へ続く回廊は、外気と同じ温度だった。息が白い。俺が半歩先を歩いて、殿下がその後ろをついてくる。
なんで俺のほうが緊張しているんだ。日取りは5日前から決まっている。段取りも組んだ。あとは石段を降りるだけなのに、心臓が勝手に鳴っている。
芝へ降りる石段の三段目で、殿下の足が止まった。
半円に並んだ椅子。低く浮いた光。4人ぶんの影。
誰も動かなかった。俺は殿下の斜め前に立ち直った。声を出す前に、口の中が乾いていることに気づく。
「殿下」
「……」
「誕生日おめでとうございます」
殿下は動かなかった。
まばたきが一度あって、そのあとが長い。視線が椅子を数え、それから杯の並びをなぞって、俺の顔のところで止まる。
何かを言おうとして口の形だけが動き、音は出ない。ルシアンが言葉を探して失敗するところを俺は初めて見た。
「殿下。恐れながら申し上げます」
レオンが胸に手を当てて一歩出た。背筋が石柱みたいに伸びている。この構えを見た時点で、俺は嫌な予感がした。
「セラフィム家は代々、王の生誕の日に際し、家名を賭して忠誠を新たにして参りました。王子殿下に申し上げた例は、我が家に一度もございませぬ。ゆえに、私が初例となります。初代は建国の折——」
俺は息継ぎの切れ目に割り込んだ。
「長い」
「まだ3行目だ」
「3行目で長いんだよ。全部で何行あるんだ」
「42行」
「削れ」
レオンが本気で悩む顔になった。口上を短くする方法は、セラフィム家の教育に含まれていないらしい。
ナシェルが横から「先頭と末尾だけ読めばいいよ」と助言し、レオンが「それでは意味が変わる」と抗議し、殿下の斜め前でどうでもいい論争が始まる。
悪くない。しんとした庭で王子が固まったままでいるよりは、よっぽどいい。
その隙に、フィオーレさんが籠を抱えて前に出た。
「あの、これ。編みかけだったんですけど、間に合いました」
包みを開くと、生成りと薄い青の毛糸を編んだ膝掛けが出てきた。四隅に房がついていて、房の長さが微妙に揃っていない。揃っていないところに、何度も編み直した時間が見える。
「東庭のベンチ、冬は石が冷たいので」
殿下は受け取り方を知らない人の手つきで、両手でそれを受け取る。膝掛けを持ったまま、しばらく何もしなかった。
贈り物の受け取り方なんて、誰かに教わるものじゃない。もらった回数のぶんだけ勝手に身につくものだ。この人の回数がいくつなのかを、俺は今、目の前で見せられている。
それから椅子に腰を下ろし、膝の上でぎこちなく広げる。
俺が名を呼ぶと、侍従長が盆を置いて前に出た。朝に襟の折り返しを直させたきり、今日はまだ一度も小言が出ていない。
「殿下」
「……なんだ」
「わたくしは、生誕の日に申し上げる言葉を、書式で覚えて参りました。宮内府の式次第に文言が定めてございます。定めの通りに申し上げますと、まず」
そこで声が途切れた。
マルクスの口が開いたまま止まる。書式の文言が頭の中に何行あるのかは知らないが、その一行目が出てこない。
出てこないんじゃない。出したくないんだ。定めの通りの言葉を、今日だけは使いたくない。
長い沈黙のあと、侍従長は何も言わずに深く一礼した。腰の折れ方が俺がさんざん直せと言われ続けた角度の、はるか下まで行っていた。
「……何の真似だ」
殿下の声がようやく出た。
「祝いです」
「聞いていない」
「内緒でしたから」
「聞いていない」
二度目は抗議の形をしていなかった。確認の言い方だ。この人は今、目の前で起きていることに名前をつけられずにいる。
俺は油紙の包みをひとつ取って、殿下の膝の上の膝掛けに載せた。
包みが開く前に、殿下の手が止まった。
砂糖と麦と焼けた縁の匂い。風はほとんどないのに、その匂いだけが夕方の冷えた空気を押しのけて広がる。
殿下は包みを開けきらないまま、一度、目を閉じた。
「……あの店の者に、礼を」
「伝えます」
それだけ言って、殿下は菓子を一つ取って口へ運ぶ。二口目までの間が、店の前で食べたときより短い。
「焼き縁の色が2種類あるね。濃いほうは窯の奥、薄いほうは手前だ。同じ日に同じ窯で焼くと、必ずこの差が出る」
ナシェルが自分の分をつまみ上げて、光にかざしている。文句かと訊いた。
「褒めているんだよ。均一に焼く技術より、差を許す度胸のほうが珍しい」
褒め方まで回りくどい。いや、分かりやすさを求めるほうが間違っている。
マルクスが杯に茶を注いで回り始めた。
湯気が立ち上って、灯りの光の中で形を変えながらほどけていく。エルデ茶の匂いが焼き菓子の匂いと混ざって、東庭の一角だけが別の建物みたいになった。
殿下が杯を受け取り、いつもの二口ではなく、ずいぶん時間をかけて飲んだ。
植え込みが揺れた。
灰色の子猫が芝を横切ってきて、椅子の脚をひと回りしてから、殿下の膝の上によじ登った。編んだばかりの膝掛けの真ん中に、当然の顔で丸くなる。
殿下が動かなくなった。膝の上の重みはたいしたものではないはずだった。それでも、それをどう扱えばいいのかが分かっていない。
宮廷の誰かに見せてやりたい。見せたら面倒なことになるので、言わずに見ておく。
手の届く範囲から皿が遠のいたことに気づいて、俺は黙って台から皿を寄せてやる。
「殿下、干し肉は駄目ですよ。今日は菓子の日なので」
「持っていない」
「上着の右のポケットが膨らんでます」
「……黙れ」
「殿下。正装に食料を携行されるのは兵站の観点から見て正しい判断です」
「正しくないよ」
レオンの弁護をナシェルが即座に踏み潰し、フィオーレさんが口元を押さえて笑った。マルクスが天井のない場所で天を仰いでいる。
俺は笑いながら、殿下の横顔を見ていた。
ルシアンは笑っていない。相変わらず口の端が少し動くだけで、目は光の玉のほうを向いている。ただ、肩の位置がいつもより低い。書簡の山に向かうときの、あの構えた高さがなくなっている。
「ハルト」
はい、と言う前に次が来る。
「毎年、これをやるつもりか」
「やりますよ」
「あの項には、執り行わずとしか書けん」
「書き換えますよ。俺の字は曲がってますけど」
殿下が膝の上の子猫を見た。それから灯りを見て、椅子を数え直すみたいに一人ずつ顔を見ていく。視線は最後に俺のところで止まった。
「……この日を、いい日だと思ったのが、いつ以来か」
言葉が途中で止まる。
「思い出せん」
十年ぶんの空白というものを、俺は数字として聞いていた。十年。数えられる形をしているから、どこかで安心していたんだと思う。
だが本人の中にあるのは数じゃない。思い出す手がかりが一つもない、という平らな面だけだ。数えられないもののほうが、よほどたちが悪い。
誰も何も言わなかった。レオンが姿勢を正し、フィオーレさんが膝の上で指を組み、ナシェルが珍しく分析をやめた。
風が来て、光の玉が三つとも同じ向きに揺れる。
ルシアンが杯を置いた。置いてから、膝の上の毛玉を起こさないように、ゆっくり息を吸った。
「ハルト」
「はい」
「……来年も、やれ」
命令の形をしていた。ルシアンは頼みごとの言い方をまだ習っていない。
まあ、習わなくていい。どうせ来年も段取りを組むのは俺だ。
「はい」
次話:「何もしないが、下手すぎる」




