第39話「祝われない日」
初冬の王宮で最初に凍るのはインクだ。
正確には凍らない。朝いちばんの壺だけが粘りを持って、ペン先が引っかかる。書き出しの一画が妙に太くなり、それをマルクスは「みっとものうございます」と表現する。
東棟の書字の間では、朝のうちに壺を炉のそばへ寄せておくのが決まりだ。昨日それを忘れた俺は、冬月のぶんを一枚まるごと書き直す羽目になった。朝の四半刻を惜しんで半刻を失う。この手の失敗だけは、何度でも新鮮にやらかせる。
冬月の日程表を作るのは、いつの間にか俺の仕事になっている。
要は月の予定表だ。前世でも、これを作る係は月末が近づくと必ず不機嫌になった。今その係が俺だ。
最初の頃はマルクスが全部やっていた。それが少しずつこちらへ回ってきた。回してくる、というのは、こちらの手元へそっと寄せておくという意味である。
寄せられたものをこちらが仕上げると、翌月から同じものが同じ場所に寄せられる。教えるという行為において、マルクスはいちばん言葉を使わない方法を選ぶ。
書字の間は壁の一面が抽斗で埋まっている。開けるたびに乾いた膠の匂いがして、罫を引く鉛も封蝋の欠片も、全部このどこかに入っている。どこに入っているかを知っているのは侍従長だけだ。
昼前、そのマルクスが仕上がりを手に戻ってきた。
「ヒースガルド殿。拝見いたしました」
感想は求めていない。求めていなくても来る。
「線が曲がっております」
「そこですか」
「そこもです」
そこ「も」か。ほかにもあるのかよ。黙って引き直す。
定規を使えと言われて久しいが、俺の手は前世から一貫して定規を信用していない。いや、信用していないというより、使うことを毎回忘れる。急いでいるときほど手が先に走るのだ。急いでいなくても走る。
「加えて、20日が空白でございます」
「その日は本当に何もないんですよ。宮内府の議事も来客も入っていません」
「空白では出せませぬ。書式の上で項を立てねばならぬ日にございます」
俺は手元を覗き込んだ。冬月の20日。
前後の日にも大した用はない。なのにその一日だけが特別扱いされる理由が、どうしても思い当たらない。
「何の項ですか」
「祝賀の項に——」
マルクスの声が途中で切れた。
言いかけた口の形のまま、侍従長は一度、抽斗の並びのほうへ目を外した。自分が何を口にしたのかを、たった今、遅れて理解した顔だ。
作法で骨まで固めたような人が、言葉を途中で落とした。
なんだ、今の。
「……失言でございました」
「今のは失言なんですか」
「失言です」
俺はペンを置いた。置いた音で、この部屋がやけに静かなことに気づく。
「祝賀って、誰のですか」
答えが返るまでが、いつもより長かった。それから侍従長は、小言を言うときの背筋に戻って口を開く。訊かれた形のまま返してくる。
「王族の生誕の日には、宮内府の書式上、祝賀の項を立てる決まりがございます。冬月の20日は殿下の生誕の日にあたります。ゆえに項を立てる。そう決まっております」
俺はすぐには理解できなかった。
理解できなかったというより、重ならなかった。耳が受け取った言葉と、頭の中にある殿下の輪郭とが。ちょっと追いついていない。
生誕の日。誕生日。ルシアンにも当然ある。人は生まれてくるものだから、あるに決まっている。
なのに俺は、学園の門をくぐってから今日まで、一度もそれを考えたことがなかった。なんでだ。半年も隣にいて、猫の餌の減り方まで把握しておいて。
「じゃあ、今年は」
「『執り行わず』と記します」
「今年は、ですか」
「毎年でございます」
毎年。その二文字が耳の奥で妙に重く落ちた。
「毎年って、いつからですか」
マルクスが帳面を繰る。繰る速さで分かってしまった。どの頁に何が書いてあるかを、探さなくても知っている手つきだ。それでも指を動かすのは、答えを口にするまでの時間を稼ぐためだと思う。
「この記載になってから、十年でございます」
十年、と口の中で繰り返した。
長さがうまく掴めない。どのくらいだ、それは。俺がこの体で過ごしてきた時間より、ずっと長い。
「その十年、宮廷は何をしてたんですか」
「何もいたしませんでした」
言い切った。言い訳も注釈もつけない。
さすがにここは濁すだろうと思っていた。濁さなかった。今日の問答で、答える前に息を継がなかったのはこの一問だけだ。
「あの年より、宮廷の一部には、その日を別の呼び方で口にする者がございました。わたくしの口からは申せませぬ」
申されなくても分かる。
前王妃が処刑された年から、この王宮で冬月の20日は、王子が生まれた日ではなくなったのだ。裏切り者の息子が生まれた日。
そう呼んだ人間が最初に一人いれば、あとは全員が黙っているだけで足りる。誰も祝わなければ、日付というものは勝手に消える。悪意すら要らない。ほんとうに、要らないのだ。
消えた日を十年ぶん積み上げると、それは「そういうもの」になる。
開いたままの前の頁には、別の生誕の項が並んでいた。王の生誕の日には3日がかりの式次第が組まれ、祝賀の使者の順番から飾る花の種類まで細かく指定されている。
祝うための書式そのものは、この王宮にちゃんと備わっているのだ。使われていない頁が、たった一枚あるというだけで。
「じゃあ、今年は項を立てましょう」
「なりませぬ」
「なんでですか。書式なんでしょう」
「祝賀の項を立てて宮内府へ出せば、その写しは各府へ回ります。回れば式次第の照会が参ります。照会が参れば、殿下はお答えにならねばなりませぬ。執り行うか否かを、御自身の口で」
俺は口を閉じた。
返す言葉が一つも思い浮かばない。マルクスは毎年ひとりで、同じ計算をやってきたのだ。
祝えと書くことは、ルシアンに「祝わない」と言わせることでもある。十年ぶん断り続けた人間に、十一度目の断りを書かせる。そんな書式があってたまるか。
「……ゆえに、毎年わたくしが書いて参りました」
マルクスが日程表を机に戻す。20日のところの白さが、ほかのどの一日よりも白く見えた。
「今年のぶんを作るのは、あなたです」
白いままのそこに指を置いて、俺はしばらく動けなかった。
四文字だ。書けば一呼吸もかからない。たった四文字。それが宮内府へ行き、各府へ回り、最後は記録庫に収まる。
何十年か後に誰かがこの頁を開いて、そこを見て、何とも思わずに次をめくる。そうやって、この日はまた一年ぶん静かになる。
抽斗の向こうで炉の炭が小さく鳴った。壺のインクはもう粘っていない。
べつに俺が祝われるわけじゃない。それなのに、指が動かない。
俺は書いた。
執り行わず。
書き終えた四文字を、俺はしばらく見ていた。字が曲がっていないかを確かめたわけではない。曲がっていないことが、なぜだか癪に障る。
まっすぐ書けてしまった。こういうときだけ手が言うことを聞く。
マルクスが横から覗き込み、末尾の日付と署名をあらためる。
「作成者の欄は、氏名のみで出しておきます」
「役職、書けませんもんね」
「書けませぬ」
それから、日程表を持ち上げかけたマルクスの手が、そのまま宙で止まった。
「書かねば、誰にも咎められませぬ」
言うだけ言って、マルクスは扉の向こうへ消えた。廊下に足音は響かない。
……ん。今のは。
書かなければ咎められない。裏を返せば、書かずにやるぶんには構わない、と言っている。マルクスは、許可を出すときほど禁止の顔をする。
夕方、俺は仕上げたものを持って東庭へ出た。
殿下は執務室にいなかった。いない時刻の見当はもうついている。前世でいう定時の十五分前で、この時間に人がどこへ消えるかはだいたい決まっている。日が傾いてから鐘が鳴るまでの短い隙に、あの人が足を向ける先は一つしかない。
東庭の草は霜で白く、踏むたびに乾いた音がした。息が白い。灰色の母猫が生垣の下から出てきて、足元で一度だけ鳴く。外套の内から出てきた干し肉が、慣れた手つきで放られた。
「殿下。来月の日程です」
「置いておけ」
置く場所がない。庭に机はない。この人はたまに物理法則を無視した命令を出す。
「一箇所だけ、ご確認いただきたいところが」
顔が上がる。俺は手にした一枚を回して、冬月が読める向きに差し出した。
「20日、空いてます。何か入れますか」
殿下の目がその日付の上で止まった。
止まった時間はたぶん一呼吸ぶんもない。俺以外の人間なら気づかない長さだ。手袋をした指が縁を軽く弾いて、それから元の位置に戻った。
「入れるな」
「予定を入れないのか、それとも」
「入れるな」
二度目のほうが短かった。
入れる気がないのは、訊く前から分かっていた。分かっていて訊いた俺も、たいがいだ。
「殿下。この日って——」
「くだらん」
沈黙が来た。
母猫が干し肉をくわえて生垣へ戻っていく。その音が消えても次の音が来ない。
視線は手元にあるのに、ルシアンはもう読んでいない。庭の向こうで夕方の鐘が鳴り、鳴り終わって、それでもまだ何も起きなかった。
俺は持った手の置き場所を見失って、端を意味もなく折っている。
やっぱり訊くんじゃなかった、と一瞬思った。思ってから、それも違うと思い直す。訊かなければ、この人は今年もひとりでこの日をまたいでいた。
何か言おうとして、言葉が三つほど喉まで来て、全部引き返した。ここで踏み込めば、「くだらん」がもう一段固くなる。固くした言葉を次に開けるまでに何がかかるのか、俺はそれを学園で嫌というほど見てきた。
いつだったか、騎士団の友人への祝いの言葉を書くかと訊いたことがある。いらん、と返ってくるまでのあの間を、俺は長いほうだと思っていた。
あれは短いほうだったらしい。
くだらないのなら、切って捨てればいい。切って捨てた話題の前で、ルシアンはこんなに長く黙らない。まだ片づいていないものが、そこに残っている。
「ハルト」
「はい」
「……今夜は冷えるな」
「冷えますね」
「火を落とすな」
「落としてません」
「そうか」
殿下の口から天気の話が出た。逃げ方としては下手くそもいいところで、下手くそなぶん、どこへ逃げたのかがこちらに全部見えてしまう。
見えたところで追いかけない。今日は。
殿下が先に立った。俺は一枚を胸に抱えて、半歩後ろへ回る。
東庭の梢はもう黒い骨の形で空に残っている。その上にかかる雲は薄く、まだ何かを落とすには軽すぎた。
次話:「誕生日会議(極秘)」




