第38話「【Side:マルクス】三十年目の異変」
わたくしの一日は、名簿の点検から始まる。
東棟に詰める者の名を上から順に指でなぞり、欠員と交代を確かめ、日付を入れて署名する。侍従長の職を賜って以来、雨の日も喪の日も欠かしたことのない作業である。
誇るような話ではない。ほかに取り柄がないだけだ。
王宮という場所では、人がひとり動くたび、どこかで筆が一本走る。逆に申せば、筆の走らぬかぎり、その者は動いていないことになっている。
わたくしの仕事は、覚えることではない。書き残すことだ。
覚えるだけならば誰にでもできる。だが人の記憶というものは持ち主の都合で形を変えるゆえ、宮廷ではあてにならぬ。いや、都合のよい記憶しか残らぬ、と申したほうが正確か。誰がいつ何を命じ、誰がそれを受け、誰が退いたか。それを書き留める者が一人もおらねば、この建物は3日で嘘の山になる。わたくしはその番人であり、それ以上の何者でもない。
その番人の目から見て、この秋はいくつか異変が起きている。
まず、殿下の朝の巡回が長くなった。
以前は東棟の外周を四半刻で回っておられた。今は半刻近くかかる。庭師の申すところでは、東庭の隅で足を止めておられるという。理由を問うまでもない。どうせ猫だ。
芝の上に落ちている干し肉の切れ端は、日ごとの数をわたくしが控えてある。書き留めておかねば叱る根拠にならぬゆえだが、その控えを叱るために使ったことはまだ一度もない。いや、使う気がないのだと言われれば、返す言葉もない。
次に、召し上がる量が増えた。
春の頃は朝の膳が半分ほど残って戻ってきた。今は器が空になって戻る。厨の者が最初に気づき、わたくしに知らせに参った。よほど嬉しかったのだろう、報告の声が廊下の端まで届いていた。膳を長年運んでいる者たちは、残った量で機嫌を測る癖がついている。
「侍従長。近ごろは、量りようがございません」
「量る必要のないほうが、よろしいでしょう」
「それはそうでございますが、こちらの張り合いというものが」
厨の頭は困った顔をしていなかった。口では困ると申しながら、盆を抱える腕から力が抜けている。
そういうことだ。わたくしは聞かなかったことにして頷いておいた。
それから、声の使い方が変わった。
以前の殿下は命令しかなさらなかった。持て、下げよ、出よ。それだけで日が暮れた。ところがこの頃は問いを発せられる。
「マルクス。休養とは、何をするものだ」
「……は」
「答えよ」
「墓に参ります。年に幾度か」
「それは休養か」
わたくしは答えられなかった。
休養とは何かを、なにゆえ、六十を過ぎて答えられぬのか。この職を拝してから数え切れぬほどの朝を迎えておきながら、である。答えられなかったことが、いまだに喉の奥へ引っかかっている。
書簡を捌かれる速さは、むしろ落ちている。だが差し戻しが減った。
急いでおられた頃の殿下は、速さと引き換えにいくつも取りこぼされた。今は手が止まる。止まってから、書き直される。あれは迷っておられるのではなく、読んでおられるのだと、わたくしは近ごろようやく察した。三十年かけて察するにしては、いささか遅い。
最後にひとつ。殿下は笑われない。
これはいまだに変わらぬ。だが口の端の筋肉が動く瞬間というものがごく稀にある。わたくしはこの秋、それを二度見た。二度ともあの者が余計な口を利いた直後であった。
余計な口のときだけとは、どういうことか。こちらとしては、いささか複雑である。
ハルト・ヒースガルド殿については、申し上げたいことが山ほどある。
礼の角度が浅い。袖のボタンが外れている。廊下を踵から落として歩く。この3点はほとんど毎朝申し上げているが、直る気配というものが一向にない。いや、直す気があるのかどうかも怪しい。
「作法とは身体に入れるものです。頭で覚えるものではございませぬ」
「なるほど。明日から気をつけます」
「昨日も、同じことを仰せでしたな」
「じゃあ明日も言いますね」
明日という日を、ヒースガルド殿はどうやら在庫だと思っている。棚にいくらでも積んであると思っている。まあ、若いというのはそういうことなのかもしれぬ。
しかしながら、作法以外はやたらと早い。
猫の一件では、庭を預かる側の記録にあの獣の居場所を作らせて話を収めた。正面の扉を叩いても開かぬところを、書式の隙間から抜けていった。それを素人の思いつきでやってのけた点が、わたくしには気に食わぬ。気に食わぬが有効であった。
三十年こちら側でやってきた人間としては、面白くない。
先の微行の折に持ち帰った焼き菓子は、翌日の午には包み紙しか残っていなかった。厨と侍女らが分けたのであろう。数を数えた形跡もない。ああいうものは数えぬのが作法である。
わたくしの分が一つも残っていなかった件については、触れぬでおく。
昨夜のことも、わたくしは把握している。
探ったのではない。この建物では、走った者の足音がどこかに残る。茶葉が切れた。ヒースガルド殿は市中を走り回り、東の門際の小店で残り物を確保して戻った。掛けでは買えぬゆえ、銭は自分の懐から出している。値も、その晩のうちに人をやって確かめた。
あの者はそれを主人に申し上げるつもりがなかった。
ゆえに、わたくしが申し上げた。差し出口である。越権であるという自覚はある。
「殿下。その茶葉は、ヒースガルド殿の持ち出しにございます」
「いくらだ」
「あの者の給金の、およそ3日ぶんかと」
「そうか」
それきりであった。
あの者には黙る癖がある。黙って損をされては困るのだ。困る理由を書き込める場所は、わたくしの手元のどこにもない。名簿にも、台帳にも、そのための欄はない。
殿下はその場で銭をお出しになった。わたくしが差し出口をきいた咎めは、まだ受けておらぬ。どうやら当分は受けそうにない。
昼前、庭師頭が息を切らして参った。
「侍従長。庭の台帳に、人が載っておりますが」
「載せました」
「あれは花壇と噴水と樹木の帳面でございます。人を載せる欄ではございません」
「猫の欄を新設いたしました。猫には管理する者が要ります」
庭師頭が両手についた落ち葉の屑を払いながら口をとがらせる。この時季は朝から晩まで熊手を握っており、そのぶん機嫌にも棘が混じる。
「なぜ猫の管理者が、王子付の御方なのです。庭の管轄に入るということは、わたくしがあの御方に指図をするということでございましょう」
「せぬのが望ましいですな」
「望ましいでは困ります。指図の筋が二本になれば、庭は荒れます」
これは正論であった。宮廷で最も厄介なのは反対する者ではなく、正論を持って参る者である。
熊手の柄を握り直す手に力がこもっている。この男は庭のことになると引かぬ。引かぬところは買っているが、今日ばかりは困る。
「では、その名を改めましょう。『東庭掛』では人の職名に紛れます。『東庭預かり』とし、事の名として立てる。その下に責任者の氏名のみを記す。氏名だけならば庭師の系統には入りませぬ」
「そのようなことが通りますか」
「王宮とは、紙に書かれた通りにしか動かぬ場所でございます。ゆえに、書き方さえ違えねば、たいていの無理は通ります」
庭師頭は納得のいかぬ顔で、それでも熊手を担いで戻っていった。
わたくしは執務室に戻り、その一行を書き改めた。事の名を立て、責任者としてその下へ氏名を入れる。ハルト・ヒースガルド。
筆は、そこで行き場をなくした。
右へ続けるべき役職を書く場所が、そもそも無いのである。書かずに置いた空白のほうが、書いた氏名より大きく見える。
名簿の古い頁には、線を引いた跡がいくつも残っている。
殿下がまだ小さくあられた頃から、身の回りの者は幾度も入れ替わった。悪い人間は一人もおらぬ。一人は地方の任へ転じ、一人は病を得て郷へ帰り、一人は縁談が決まって職を辞した。それぞれにもっともらしい理由があり、そのどれもが嘘ではない。ただ、理由を用意できた者から順に去っていった。
線を引くのはいつもわたくしの役目だった。
名の上に横一本、日付、署名。それで人が一人、この建物から消える。頁を閉じるたび、わたくしは次の者の名を入れる行を用意する。用意する以外に、わたくしにできることは何もなかった。線を引く手つきだけが年々うまくなっていった。うまくなってどうする、という話ではある。
その日の夕刻、ヒースガルド殿は宮内府へ使いに出ていた。
受け渡しに手間取ったのであろう、日が傾いても戻らぬ。わたくしは茶を仕度し、湯気の立つうちに執務室へ運んだ。冷えた廊下では盆の上の湯気が歩くそばからほどけていく。殿下は書簡の山に向かっておられ、机の横の椅子は空いていた。
茶を置いてから下がるまでのあいだに、殿下は扉のほうを見られた。一度ではない。
物音がしたわけではない。廊下を通る者もなかった。最後の一度のあと、わたくしが盆を手にしたのを目の端で捉えられたらしく、殿下が口を開かれた。
「マルクス」
「はっ」
「あれは、いつ戻る」
「宮内府の受け渡しが長引いておるのでしょう。日暮れまでには」
「そうか」
「お呼び戻しに人を出しましょうか」
「いや」
それきり、殿下は書簡へ戻られた。戻られてから、扉のほうへまた目を上げられた。それも一度ではない。
わたくしは何も申し上げなかった。申し上げれば、殿下は明日から扉を見るのをやめられる。見ていることを人に知られると、見るのをやめてしまわれる方なのだ。
まったく、面倒な。
廊下へ出たところで、東棟の突き当たりの扉が開いた。
足音が近づいてくる。踵から落ちている。何度申し上げても直らぬあの歩き方が、暗い廊下の奥から真っ直ぐこちらへ来る。すれ違いざまに一礼を寄越したが、角度はやはり浅かった。明日もまた申し上げることになる。どうせ直らぬ。
「マルクスさん、殿下まだいますか」
「おられます」
「今日、日暮れまでに戻れって言われてたんですよ」
「日は暮れております」
「暮れてますね」
ヒースガルド殿は肩をすくめて扉を押した。中から短い声がひとつ返る。何と仰せられたかは聞き取れなかったが、あの短さは叱っておられるのではない。この王宮で三十年、人の声色ばかり聞き分けてきた耳が申すのだから、まちがいはない。
わたくしは盆を持ったまま、その場に立っていた。
灯を入れるにはまだ早く、消しておくには遅い時刻である。扉の向こうで何を話しているのかは分からぬ。分かる必要もない。片方が喋り、片方が短く返し、また片方が喋る。その間隔が一定であることだけが、廊下まで漏れてくる。
あの部屋の、机の横の椅子。
わたくしはあの椅子を、幾度も新しい者のために拭いた。拭いては誰も座らぬまま埃を積もらせた。
殿下の隣の席は十年のあいだ空位であった。
——今は騒がしい。
次話:「祝われない日」




