第37話「エルデ茶大恐慌」
茶葉の缶を振って、俺は自分の予言が当たったことを知った。
当たってほしくない予言ほどよく当たる。前世の月末の売上見込みもそうだった。
東棟の配膳の間は朝のうちだけ湯気の匂いが残っている。棚には杯と匙と缶が背の高さまで並んでいて、いちばん手前の錫の缶だけが殿下専用だ。
それを耳の高さまで持ち上げて傾ける。かさ、とすら鳴らない。指を突っ込んで底をこすると、乾いた粉が爪の隙間に入っただけだった。
棚の奥から予備の缶も引き出してみた。持ち上げた腕に、来るはずの重みが来ない。指の背で側面を叩くと、返ってくる音まで空だ。
いや、予備まで空かよ。
配膳の間の入口で、マルクスが足を止めた。
「ヒースガルド殿。何をしておられます」
「在庫の確認です。結果はゼロでした」
マルクスの眉は動かなかった。動かないということは、もう知っている。
「先月の発注は、たしかに通っております」
通っているのに来ない。世界でいちばん嫌な報告の型だ。
「北の峠で崩れがございました。東街道の荷が全て迂回に回され、着荷は早くて5日後。宮内府の調達を正規に通せば7日ほどかかりましょう」
「7日」
「7日でございます」
俺は空の缶を小脇に抱えた。これは証拠品である。5日でも王宮は滅びるのに、7日はもはや廃墟の話だ。ルシアンが七日ぶん喋らない王宮というのは、想像したくない。
その日の殿下は、朝のうちだけまともだった。
巡回から戻って書簡の山に手をつけるまでは、いつも通りの速度が出ている。異変が出たのは二刻ほど経ってからで、まず処理の速度が半分に落ちた。
次に、同じ陳情書を読み返し始めた。おなじ行をもう一度辿ろうとしたところで俺が横から抜き取ると、抵抗もせずに手を離す。
抵抗しないのがいちばん怖い。
「マルクス」
呼ばれた侍従長が半歩前へ出る。だが続きが来ない。
「……いや。何でもない」
呼んでおいて用件を忘れている。マルクスが俺のほうを見た。俺は無言で空の缶を持ち上げてみせる。侍従長の目が、この王宮でいちばん厄介な種類の理解に染まっていった。
昼過ぎに宮廷用の渋いやつを淹れて出した。殿下は一口飲み、杯を置き、それきり手を伸ばさない。
「殿下。飲まないと余計に頭が痛くなりますよ」
「頭は痛くない」
「じゃあなんでさっきからこめかみを押さえてるんですか」
「押さえていない」
押さえたままの手で言うな。
認めたところで誰も困らないと思うのだが、ルシアンは絶対に認めない。言い終えると同時に、その手はさりげなく机の縁へ下りた。下ろした先で指がひとつ、羊皮紙の角を揃える。誤魔化し方の手数が、昔からこれしかない。
書簡の束を運んできたマルクスが、机の様子をひと目見て、それから俺の隣まで下がってきた。声を落とすときのこの人は、唇をほとんど動かさない。
「ヒースガルド殿。これが、いつぞや仰せの……かふぇいん、とやらでございますか」
「切れた状態です。放っておくと明日には言葉数が半分になって、その次の日にはうなずきだけになります」
「それはもう、ほとんど彫像では」
「彫像は書簡を捌きませんよ」
マルクスが自分の口から出た聞き慣れない語を、もう一度小さく繰り返している。いつぞや俺が割愛した説明を、この侍従長は今日まで諦めずに自力で組み立てていたらしい。ほんと、妙なところで勉強熱心な人だ。
昼を回ると、羽根ペンを持ったまま止まる時間が長くなった。ペン先のインクが乾いて、書き出しがかすれる。書き損じを脇へ寄せる動作だけが妙に丁寧で、丁寧なぶんだけ様子がおかしい。
窓の外の楓は葉を半分落としている。殿下は今日、その枝へ何度も目をやっていた。
前世の職場で、給湯室のコーヒー沸かしが壊れた日を思い出す。午後の会議室の空気が全員ぶん濁って、誰も彼も語尾が短くなった、あの日。あれの王侯貴族版が今、俺の目の前で進行している。
放っておいても5日で終わる話ではある。5日後にルシアンが人間の形を保っていれば、の話だが。
買ってきます、と俺は宣言した。マルクスは書き付けを繰る手を止めない。
「宮内府の調達は7日と申し上げました」
「7日待ったら、殿下が氷に戻ります。今日中に要るんです」
止めないまま、低い声で釘だけ刺してくる。
「王宮の名で掛けて買うことは、なりませぬぞ」
「掛けるつもりはないですよ」
「帳場に載せるには、氏名と役職の両方が要ります。ヒースガルド殿の場合、その半分がまだ埋まっておりませぬ」
埋まっていない半分の話を、マルクスはどうしてこう平気な顔で持ち出せるのか。
半分しかない人間の買い物は、現金でしかできない。俺は自分の懐の重さを頭の中で量った。量った結果については触れないでおく。
「日暮れまでに戻れなければ、通用門は閉まります」
間に合わせます、と答えて廊下へ出かかったところで、背中に一言が追いついてきた。
「なお、東の通用門の門番には本日、庭の台帳の写しが回っております」
言いながら、マルクスは羊皮紙の束を胸に抱え直した。目は一度もこちらを見ない。
「わたくしは、何も聞いておりませぬ」
いや、全部聞いたうえで先に手を回してるだろ、それ。
廊下を駆け出しながら、俺は自分の懐を叩いて銭の音を確かめた。音の高さが心もとない。そういえば今月はまだ何も買っていないのに、なぜか手持ちだけが痩せている。前世の口座もそうだった。眺めているあいだに減る。
王都の茶葉商を、俺は西から順に潰していった。
まず向かったのが王宮御用達の看板を出した大店で、番頭が両手を広げて肩をすくめた。エルデ茶の棚だけがきれいに空いている。東の便が止まっている事情は商人のほうがよほど詳しく、崩れた峠の名前まで教えてくれた。
2軒目は南地区の乾物屋。店主がエルデならあると言うので中を見せてもらうと、色が浅い。
隣の村のものを同じ谷の水で育てているのだという。同じ谷でもうちの主人は一口で分かるんです、と返すと、店主はそりゃご苦労なこったと笑って奥へ引っ込んだ。
笑い返して、それでも買わずに出る。ごまかせる相手ならとっくにごまかしている。
3軒目は西の市場の茶屋。売り切れ。しかも店先で客が噂話をしていた。いわく、王宮が買い占めているから市中に出回らないのだ、と。
犯人はうちだった。厳密には犯人はうちの主人の喉である。
濡れ衣を晴らす気にもなれない。これから4軒目でさらに買い占めに行く人間に、晴らす資格もない。
王都を西から東へ、俺は横断していた。踏んでいる地面の乾き具合が、足の裏から先に伝わってくる。前世で走ったのはせいぜい駅から駅までで、少なくとも足元は舗装されていた。乾いた土は走りやすいかわりに埃を巻き上げて喉に来る。走りながら咽せる側近というのは、たぶん宮廷の作法にない。
4軒目に辿り着いた頃には、日が屋根の高さまで落ちていた。
東の門に近い、間口の狭い小さな店だ。棚の上のほうに、麻袋がひとつだけ残っている。口を縛った紐の色が、大店で見たのと同じ。
やっぱりあった。西から順に潰した甲斐はあったわけだ。
俺は袋を指さす前にその匂いを嗅いだ。乾いた花と、奥にかすかな煙。まちがいない。
「それ、譲ってもらえますか」
「悪いね。半分は先に約束が入ってるんだ」
ここまで走って半分か。
いや、半分でもある。ゼロで帰って明日の朝ルシアンの前に立つことを考えれば、半分は充分に勝ちだ。
帳場の奥から出てきたのは、まだ十四、五の丁稚だった。薬種商の使いで、咳止めの処方に混ぜるためにこの茶葉が要るという。冬に向けて、南地区では咳の患者が増え始めているらしい。
子供の咳と、王子のカフェイン切れ。天秤にかけるまでもない。かけた時点で、俺のほうが人としてまずい。
「じゃあ、残りの半分は要りません。4日分だけ量ってください。あとは全部そちらへ」
真鍮の秤に茶葉が落ちていく。俺は生涯忘れない量の目盛りを読んだ。4日ぶん。荷が着くまで一日足りず、その足りない一日ぶんは、あの丁稚の袋に入っている。
一日くらいなんとかなるだろ。なるといい。切実に。
「お名前と、御役職を。掛けにいたしますかね」
「現金で。名前だけで結構です」
「王宮の方は皆さん帳面になさいますがね」
「帳面に書く役職が、まだないんですよ」
店主は不思議そうな顔をしたが、それ以上は訊かなかった。銭は袋ひとつで俺の3日ぶんの給金が飛んでいる。
まあ、3日ぶんで王子が人間の形を保つなら安い。安いと思わないとやっていられない。
走って戻る道すがら、腕の中の袋が軽いのか重いのか、自分でも判断がつかない。日の落ちきる前の坂道は、風だけが先に夜になっていた。
通用門をくぐったのは、門番が閂に手をかけた直後だった。
東棟の廊下はもう暗い。灯を落とし忘れた部屋がひとつだけあって、扉の下から細い光が漏れている。押し開けると、机の向こうに銀髪があった。
「遅い」
「走ってきたんですけど」
「遅い」
二度言われた。しかも二度目のほうが低い。
俺は袋を掲げて、湯の支度にかかる。机の上の書簡は朝と同じ高さのまま残っていた。昼から一枚も減らせていない。それでいて灯だけは自分で足したらしく、燭台の蝋が新しいものに替わっている。
銅の器で湯を沸かし、少しだけ落ち着かせてから茶葉に落とす。乾いていた葉が湯を吸って開き、部屋の空気の匂いが入れ替わっていく。
この匂いが戻った途端に部屋の体温まで戻ったように感じるのは、たぶん俺の気のせいだ。気のせいでいい。
杯を置くと、殿下が手を伸ばした。
一口目で目が閉じる。二口目で杯が空になった。
「味わってください。それ、王都に残っていた最後のやつです」
「もう一杯」
人の話を聞いていない。
俺は次の一杯を淹れながら、ルシアンの喉と国庫のどちらが先に尽きるかを本気で考えた。ちなみに現時点で先に尽きたのは俺の給金である。
二杯目は三口に分けて飲んだ。杯を置いた殿下が、机の引き出しを開ける。中から出てきた小袋が、こちらへ滑らせるように押し出された。
「なんですか、これ」
「茶代だ」
「なんで値段を知ってるんですか」
「マルクスが言った」
売られた。あの侍従長の忠誠心の向き先は、やはり最終的に主人のほうにある。
俺は小袋の口を開けて、中を覗いて、それから顔を上げた。
「殿下。これ、多すぎます」
「残りは次の分だ」
「5日後には荷が着きますよ」
「知っている」
「じゃあなんで」
「二度と切らすな」
次話:「【Side:マルクス】三十年目の異変」




