第36話「凍った王子と呼ばれた人」
土産の包みを馬車の座席へ押し込んだ時点で、今日の仕事は八割方終わったと思っていた。あとは殿下を乗せて城壁の内側へ帰るだけだ。橋の検分は滞りなく済んだし、役人の説明も住人の話も記録係がきれいに書き取っている。予定にない寄り道のほうは、マルクスの耳にまだ入っていない。
我ながら完璧な一日だな、と思った。
こういうことを思った直後にろくなことが起きないのは、たぶん世界を跨いでも変わらない。
馬車を待たせてあるのは橋のたもとだった。
来春の架け替えに使う材木が、川べりに積んである。丸太を三段に重ねて縄で締め、上から古い帆布をかけただけの雑な山だ。川風が布の端をめくるたび、切り口の白い木肌が覗いて、樹脂の匂いが鼻先に立つ。市の喧騒はここまで届かない。水の音と鳶の声と、子供の笑い声がひとつずつ聞き分けられる程度の静けさだった。
その笑い声が途中で切れた。
最初は転んだんだと思った。膝でも擦ったんだろうと、足が半分そっちを向きかけて——いや、泣き方が違う。息を吸う間が短くて、声が悲鳴の側へ寄っている。俺が振り返るのと、殿下が歩き出すのはほとんど同時だった。
材木の山に、小さな背中が張りついていた。
五つか六つの男の子だ。右腕が丸太と丸太の隙間に肘まで埋まっている。抜こうとして抜けず、そのたびに声が跳ね上がる。周りには子供が3人。姉らしい年長の子が弟の腰を掴んで、体重をかけて引いていた。
いや待って、それが一番まずいやつだ。
「引くな」
俺が言うより先に、殿下の声が飛んだ。
姉の手が離れる。びくりと動いた肩は、叱られたからではなく声の質に反応している。学園の廊下でこの声を背中に受けた生徒は、例外なく足を止めた。俺も何度か捕まった側だから分かる。怒鳴られるよりよっぽど効く。
荷運びの男が二人、菜売りの女、それから杖をついた老人が寄ってくる。人の輪ができるのは早い。困っている子供がいると、大人は理由を訊く前に集まってくる。集まったところで丸太は一寸も動かない。
「縄を切っちまえ。崩せば取れるだろ」
なりませぬ、と言いかけた記録係を殿下が手で制した。
「崩せば下の段が転がる。腕では済まん」
「じゃあどうするんだ、兄さん」
兄さん、って。
頭巾を一枚かぶせるだけで、人は王子を王子だと思わなくなる。呼んだ本人は自分が誰に向かって言ったのか、一生知らないままだ。知らないほうが幸せだよな、いろいろと。
「上の一本を横へ抜け。川のほうへ滑らせろ。端を二人で持って、掛け声で同時に引け」
男たちが顔を見合わせ、それから帆布をめくって縄をほどきにかかった。誰も命令の出所を確かめない。前世で工事現場の脇を通ったときも同じだった。声を張っている奴ではなく、次の手順を言える奴のほうへ、人は身体ごと向く。
殿下が膝をつき、子供の肩と、隙間に埋まったままの腕に手を添えた。
「動かすな。抜けるまで、腕は俺が押さえる」
「や——やだ、いたい、いたいっ」
子供が身をよじる。腕が動けば腫れる。腫れればもっと抜けない。理屈としては単純だが、この年頃に理屈が通った例を俺は知らない。
なら理屈じゃないほうで行くしかない。俺はその場にしゃがみ込んで、子供の顔の高さまで目を下げた。
「坊主。兄ちゃんの親指、抜けるぞ」
「……え」
泣き声が半分になった。
左手の親指を右手で握り込み、関節を折って隠す例のやつを、なるべく大袈裟な手つきでやってみせる。前世の忘年会で、酔った部長にせがまれて3年連続で披露した宴会芸だ。まさか異世界の橋のたもとで再演する日が来るとは思わなかった。
「取れちゃった」
子供の目が丸くなり、周りの3人まで寄ってくる。俺は抜けた親指を空中でひらひらさせてから、「痛くないの」と訊かれたので「痛い」と即答しておいた。子供は嘘に厳しいが、痛いという嘘にだけは寛容である。
その隙に丸太が動いた。
男二人が息を合わせて上の一本を横へ滑らせる。ぎ、と縄が鳴る。木と木のあいだから乾いた土埃が落ちて、川風がそれを横へ流していった。隙間が指の幅ぶん広がって、殿下が支えていた腕がするりと抜ける。
肘から先が赤い。細い擦り傷が幾筋かと丸太の皮の跡。骨は折れていない。
子供が大きく息を吸って——今度こそ、本気で泣いた。
そして、いちばん近くにいた人間の外套に、両手でしがみついた。
殿下が固まる。
中途半端な高さで両腕が止まっている。剣を向けられても眉ひとつ動かさない男が、子供の抱擁ひとつで完全に機能を停止していた。助けを求めるみたいにこっちを見るな。なんで俺なんだ。
「ハルト」
「はい」
「……取れ」
「餅じゃないんですから」
殿下の眉が寄る。ふざけるなと怒っている顔ではない。どうすればいいのかが本気で分からない顔だ。
「取れと言っている」
「無理ですよ。今この子、殿下を命綱だと思ってますから」
そこで俺は気づいた。子供を押さえたときに、殿下の頭巾が背中へ落ちている。
傾いた光の下で、銀の髪が丸出しだった。
……あ、これはまずい。
周りの空気がひと呼吸ぶん遅れてざわめきへ変わる。荷運びの男が手を止め、菜売りの女が口元を押さえ、老人が目を細めて一歩前へ出た。
「……銀の髪だ」
声が波になって後ろへ伝わっていく。伝わる速さだけで、この色が王都で何を意味するかが分かった。銀は王家の色だ。そこへ「若い」が足されると、指す相手はもう限られてしまう。
「王宮の。ほら、あの——」
誰かが最後まで言わなかった言葉を、老人が代わりに落とした。
「凍った王子様、かね」
背中が冷えた。護衛の騎士二人が、装いは目立たないままで中身だけ騎士の顔になり、半歩詰める。
ルシアンは名乗らなかった。
しがみついて泣いている子供の頭に触れるでもなく、引き剥がすでもない。母親が人垣を割って走ってくるまで、ただそこに膝をついていた。
「すみません、すみませんっ、この子が——」
地面に膝をつきかけた母親を、殿下の一言が止める。
「怪我は腕だけだ」
「は、はい」
「今日のうちに冷やせ。明日腫れが引かなければ医者に見せろ。銭がなければ南地区の詰所へ行け。橋の普請の名目で払わせる」
慰めも笑顔もない。声の温度は、視察で役人に質問していたときとまったく同じだ。ルシアンの目はもう丸太の山のほうへ戻っている。
優しくしている自覚が、そもそもない。頭の中ではまだ橋の材木の話が続いている。
母親が何度も頭を下げる。子供のほうはまだ外套を掴んでいて、抱き上げられても指を離そうとしない。
人垣のざわめきが種類を変えた。
最初は恐れの音だったものが、途中から相談の音になっている。互いの顔を確かめて、確かめた結果をまた隣へ渡していく。市の立つ通りで噂が育つときと同じ手順だ。
「あの方が笑わないってのは、本当なんだねえ」
「でも今、うちの子より先に、あの子の腕を」
誰も殿下のほうを見なかった。見ないまま、声だけが低くなっていく。さっき老人が落とした呼び名を、もう誰も口には出さない。本人がそこに立っているというだけで。
子供の指がようやく外套から離れた。離れる直前、その手が殿下の袖を2回だけ軽く握った。別れの挨拶の形を、この年齢の子はまだ教わっていないらしい。
馬車へ戻る道すがら、記録係が帳面を開いたまま俺の横についてきた。
「ヒースガルド殿。本日のこの一件、記録に残しますが」
「残すんですか」
「殿下の御動座中の出来事は全て残します。……その、どなたの働きとして書けばよろしいでしょうか」
羽根ペンの先が、書き終えた俺の氏名のすぐ隣で浮いている。名は埋まる。その隣が今日も白い。
子供の腕を抜くのに肩書きは一文字も要らなかった。要らなかったものを、帰り道になると急に訊かれる。
「『東庭掛』でいいですよ」
「猫の、でございますか」
「猫のです」
記録係の顔がわずかに曇った。曇ってから、ペンが動く。俺の名の隣に、見たことのない一行が伸びていった。
「何を書いてるんですか」
「『殿下の御同道の者』と。庭の掛では、市中での働きの筋が通りませぬゆえ」
通らないのか、東庭掛。
助かった、と言うべきなんだろう。白かった欄が、今日は埋まったわけだから。実際、俺は礼を言った。
ただ、その一行は誰の職名でもない。宮内府の棚に収まるのは、俺の名と、俺の名でないものが並んだ一枚だ。
帰りの馬車は行きより暗かった。
市が畳まれるより先に、日が屋根の向こうへ落ちた。通りを抜けた頃には西の空だけが赤く、店はどこも板戸を下ろし始めている。窓の外を薪の煙の匂いが流れていく。どの家も夕餉の支度で、この匂いだけは前世でも異世界でも同じ形をしている。
ルシアンは向かいの席で、外套の裾を見ていた。
子供の指が掴んだあたりに、泥と、おそらく鼻水の跡がついている。上等な織りの黒地に、その染みだけがはっきり残っていた。
「洗えば落ちますよ」
「そうか」
返事は短いのに、視線は裾から離れない。染みの縁を目でなぞって、そこから何かを読み取ろうとしているような見方だった。
「マルクスさんが見たら卒倒しますけどね」
「見せなければいい」
王子と侍従が真顔で隠蔽の相談をしている。というかこの人、さっきから裾を払わないんだよな。摘まんだままの指について、本人はまるで気づいていない。
「殿下」
「なんだ」
「今日、なんて呼ばれてました」
「凍った王子だ」
あっさり出てきた。
こっちは切り出すまでに三回ぶんくらい呼吸を整えたのに、この人は値札でも読み上げるみたいに言う。聞こえていないふりをしてくれたほうが、俺としてはよほど楽だった。
「聞こえてたんですね」
「耳はいい」
紫水晶の目は窓のほうを向いたまま動かない。暮れ残りの光が虹彩の縁で一度だけ跳ねて、馬車が角を曲がると消えた。
悪評はルシアンが八つの年から背負ってきたものだ。俺が半年やそこら隣にいたところで剥がれるものじゃないし、今日ざわついた人たちだって、明日には元の噂へ戻るかもしれない。
それでも、あの子供は泣きながら殿下の外套を掴んだ。噂より先に、身体のほうが誰を頼るか決めていた。
城門の灯が見えてきた頃、殿下が口を開いた。
「……悪くなかった」
声が小さい。御者にも馬上の護衛にも届かない大きさで、向かいの席に座っている人間の耳にだけ届く音量だった。
「今、なんて」
「二度は言わん」
窓のほうを向いたまま、顎をわずかに上げている。この角度はこちらに表情を読ませないための角度だ。学園の頃から一つも変わっていない。変わっていないのに、隠している中身のほうがすっかり別物になってしまった。
俺は聞き返さなかった。もう一度訊けば、ルシアンはたぶん二度と言わなくなる。
馬車が門をくぐる。荷車の軋みも呼び売りの声も、遠くで叫んでいる子供たちの声も、壁ひとつを境にして急に遠のいた。あとに残ったのは、車輪が敷石を拾う音だけだ。その音が東棟の車寄せへ着くまで律儀に鳴り続けていた。
次話:「エルデ茶大恐慌」




