第33話「子猫、王宮に住んでいいのか問題」
柊の間に子猫が入ってきたのは、朝いちばんの議事が二つ目に移った頃だった。
東向きの部屋だ。この時季になると長机に射す日が急に短くて、朝のうちだけ書記官の手元が明るい。昼を回れば奥から順に翳っていく。どうせなら議事のほうも日の傾きに合わせて短くなってくれると助かるんだけど、そういう都合のいい会議は前世にも異世界にもなかった。
最初に気づいたのは俺だ。長机の向こう側、扉のわずかな隙間から白い塊が滑り込んできて、床の敷物の上を斜めに横切っていく。
生まれたばかりの頃はまだ転がるのが仕事だったのに、この3ヶ月で足が別物になった。走る。曲がる。跳ぶ。しかも音がしない。誰だ、あんな性能で完成させたのは。
書記官が読み上げを続けている。宮内府の次席が退屈そうに指を組んでいる。誰も気づいていない。
俺は右手をゆっくり机の下へ下ろした。おいで、と念を送る。念で猫が動いた例しはないが、他に打てる手がない。
白い子猫は俺の指を完全に無視して、長机の脚を垂直に駆け上がった。
「な——」
俺の喉から出かけた声を、殿下の一言が上書きする。
「続けろ」
書記官が反射で読み上げを再開する。国庫からの支出項目、街道整備の見積り、来春の橋の架け替え。
その淡々とした数字の上を、白い毛玉が歩いていた。歩くだけならまだいい。あろうことか、そいつは開いたままのインク壺の縁に前足をかけた。
やめろ。
やめろやめろやめろ。
子猫が机に飛び降りる。青いインクの足跡が、宮内府提出用の清書の上に点々と4つ並んだ。
「ひっ」
悲鳴を上げたのは向かいの老官吏だ。手にしていたペンを取り落とし、椅子ごと後ろへ下がる。その音に驚いた子猫が跳ね、積んであった束を蹴散らして、今度は次席の膝の上に着地した。
次席が硬直する。子猫が次席の顔を見上げて、小さく鳴いた。
「みぃ」
柊の間から音が消えた。咳払いも読み上げも。
鳴くな。今のは絶対に鳴いちゃいけない場面だった。かわいい声で国政の議事を止めるんじゃない。
机を回り込みながら、俺は頭の隅で犯人の見当をつけていた。夏からこっち、東庭の一角は事実上の給餌所だ。どこかの誰かさんが朝の巡回と称して干し肉を運び続けた結果、子猫たちは「人のいる方向に食べ物がある」という世界観を獲得した。
つまりこれ、因果応報というやつだ。まさかこんなに毛深い形で返ってくるとは思わなかったけど。
「失礼します。ええ、失礼します。すみません、動かないでください、そのまま——」
次席の膝から白い塊を回収する。前足が上着の刺繍に引っかかって、糸が一本、みょうんと伸びた。次席の顔から血の気が引く。
待て。あの刺繍、俺の給金で弁償できるやつじゃない。年単位で無理だ。
宮内府の次席が掠れた声で殿下を呼んだ。
「王宮の警備は、どのようになっておりますか」
「万全だ」
「今、猫が」
「猫は警備の対象外だ」
言い切った。殿下は言い切った。
万全の警備をすり抜けてくる相手を対象外にしておけば、そりゃ警備は永遠に万全だよな。詭弁の教科書に載せたい。
腕の中の子猫が俺の親指を噛み始める。乳歯の圧はたいして痛くないが、噛まれている状況そのものが痛い。
折衝は四半刻ほど巻きで終わった。次席は帰り際、青い足跡の残ったやつをつまむように持ち上げてしばらく眺め、深い息とともに鞄へしまう。
あれ、この先ずっと王宮の記録庫に残るんだよな。何十年か後に誰かが開いて、4つの肉球を見つけて、首をひねるわけだ。そのとき柊の間で何があったのかまでは、その紙は教えてくれない。
昼過ぎ、マルクスが執務室に現れた。
手には一枚の書き付け。表情は普段の八割増しで硬い。この人の顔面には目盛りがあって、俺は半年でだいたい読めるようになった。今日は上から二番目。一番上はまだ見たことがない。見たくもない。
本日の一件につき申し上げます、と切り出される。
「聞く」
「王宮の敷地内で野良の獣を飼うなど、前例がございませぬ」
また前例か。マルクスの口から出ると、それは反論じゃなくて判決に聞こえる。
「飼っていない」
「餌をお与えでしょう」
「与えていない」
殿下、その言い方は無理があります。
マルクスが一歩前に出る。上着の裾がその動きに遅れずまっすぐ落ちた。
「本日の朝、東庭の芝に干し肉の切れ端が7つ落ちておりました。庭師が拾い集めて、わたくしに届けました。庭師は殿下を庇うつもりで届けたのです。あの者は、わたくしが叱るとでも思ったのでしょう」
殿下は答えない。
手元の角を指で揃えながら、その一点だけを見ている。目を逸らすんじゃなくて、逸らさないことで返事をしない。学園時代、俺が何度もぶつかった壁だ。ルシアンの沈黙は防御であると同時に、こちらの言葉を全部受け止める器でもある。
沈黙が重い。マルクスの背筋が伸び直した。
俺は椅子に座ったまま、膝の上を見下ろした。回収した白い子猫は執務室に連れ帰ったあと、母猫を呼びに行くという名目でしばらく籠に入れておいたのだが、いつの間にか脱走して俺の膝で丸まっている。呼吸に合わせて、ちいさな背中が上下していた。
脱走犯が現場に居座っている。しかも寝てる。図太さがすでに王宮向きだ。
「マルクスさん。猫を追い出す、以外の案を考えませんか」
他にどのような案が、という顔がこちらを向く。
「東庭に留めておけばいいんですよ。餌の場所を庭の隅に固定して、そこから動く理由をなくす。今日みたいに人のいる方へ来るのは、餌のほうが動いてるからです」
言いながら、殿下の視線が刺さるのを感じていた。今のは「餌をやっている人間がいる」を前提にした言い方だ。つまり共犯の自白である。
ルシアンと組んだ時点で、俺の身ぎれいさなんてとっくに終わってる。
「餌の場所を固定するとなれば、誰かが毎日与えることになりますな」
そうですね、としか言えない。
「それは飼うと申すのです」
「言い方の問題です」
「王宮は言い方の建物でございます」
あ、それはたしかに正しい。
「ならば、こうしましょう。飼うのではなく、東庭の預かりということにする。庭の生き物は庭師の管轄ですよね。庭の一部として台帳に載せる。載っていれば、猫は野良ではなく王宮の——備品というと語弊がありますが、管理の対象になります」
マルクスの眉が動いた。
侍従長は「前例がない」に強いが、台帳にはもっと強い。
というか、俺の呼び名がいつまでも決まらないのだって、要するに同じ話じゃないか。猫には載せる先があって、俺にはまだない。順番としてどうなんだ、それは。
「……庭の台帳、でございますか。あれには花壇と噴水と、樹木しか載っておりませぬ」
「なら猫の欄を作ればいいじゃないですか」
「前例が」
「今日作れば明日から前例です」
マルクスが黙った。
沈黙のあいだ、この人が何と戦っているのかは分かる。守ってきた「そういうことはしない」の壁に、俺は毎日ひとつずつ穴を開けている。開けられている側の気持ちを考えると多少申し訳ない。多少である。
「……庭師と協議いたします」
「ありがとうございます」
「礼を言われる筋合いはございませぬ。わたくしは面倒が増えただけです」
言いながら、マルクスは裏返した書き付けに何かを書き始めた。東庭、預かり、給餌場所の指定。段取りを組むのが速い。
その手がふと止まる。
「して、管理の責任者は、いかがいたしましょう」
「ハルトだ」
殿下が即答した。手元から目を上げないまま、日付を答えるような調子で。
責任者、俺なんだ。目の前で脱走を許した男に管理を任せるの、人選としてどうなんですかね。
「ですから、役職名を」
返事はない。羊皮紙をめくる音が二度して、そこで途切れた。
膝の上で白い子猫が身じろぎする。マルクスがそちらへ視線を落とし、何か言いかけて、口を開いたまま止まった。
「起こすな」
ルシアンの声だった。
小さい。聞き取れるかどうかの音量で、しかも視線は落としたまま。俺とマルクスにしか聞こえていない。
マルクスの目盛りが、上から二番目から一段下がるのが分かった。
膝の上の重みがちょっとだけ増した気がする。眠っているものは重い。前世で電車で肩を貸されたときのことを思い出す。あのときは正直、次の駅まで長いなと思っていたのに、今はこの重さを動かしたくない。
……いや、動かしたくないというか、動かすと怒られるからだ。うん。そういうことにしておこう。
ただし宮内府は、膝の上のこいつほど気長ではない。空けたままでいられるのは、せいぜいあと数日だろう。
「ヒースガルド殿。そちらは、後日でよろしゅうございますか」
構いませんよ、と答える。どのみち今日はこの膝を動かせない。
「よろしくはございませぬがな」
マルクスが羽根ペンの尻で自分の額を押さえた。押さえたまま、俺の膝の上へ目だけを向けて言う。
「……本日ばかりは、わたくしも猫になりとうございます」
「なぜです」
「何も書かずに済みますゆえ」
次話:「役職名、第一次選考」




