第32話「初めての休日は二度と来ない」
宮内府との折衝が片づいた夕方、マルクスが執務室に爆弾を持ってきた。
「殿下。明日は終日、御公務がございませぬ」
ペンが止まる。殿下が顔を上げて、侍従長を見た。心当たりのない請求書を受け取った人の顔だった。
「なぜだ」
「なぜだではございませぬ。書簡の返答待ちが3件、宮内府の議事が来週へ持ち越し、狩猟の招請は先方の都合で流れましてございます。結果として、明日は空きました」
「なら書簡を前倒しにする」
「なりませぬ」
殿下が理由を求める目をする。求められることを予期していた顔でマルクスが答えた。
「休養もまた公務のうちだからでございます」
うわ、上手い。
押し返せない言い方の職人芸だ。この手のものは通すのではなく、最初から通っていることにして持ってくるほうが強い。前世の総務にもいたな、有休の申請を出させずに先に予定表へ入れてくる人。
殿下は数秒黙ってから、俺のほうを見た。助けを求める目ではない。純粋に、答え合わせを求める目だ。
「ハルト。休養とは何をするものだ」
俺は口を開いて、閉じた。
簡単な質問のはずだった。休みの日に何をするか。たいていの人間は3秒で「寝る」と答える。
ところが俺の頭に浮かんだのは、前世の休日の風景だった。洗濯物の量と溜めた買い物と、月曜の朝までに片づけておくべきことの一覧。あれ、休養だったんだろうか。今にして思うと、ただの平日の在庫処分じゃないか。
「……寝る、とかですかね」
「昼に寝ると夜に眠れなくなる」
「そこは正論なんですよ、殿下」
殿下の目が次を促してくる。
「本を読むとか。散歩とか。友人と会って飲むとか」
「本は執務でも読む。散歩は朝の巡回で済む」
三つ目については何も言わなかった。
やらかした。学園の友人は騎士団と魔導院と、それぞれの場所へ散っていった。王宮に残ったのはルシアンと、あとは俺くらいのものだ。自分の口の軽さを呪う。
同じ問いが今度は侍従長へ向けられる。
「わたくしに問われましても。わたくしの休日は、庭の手入れと、亡妻の墓参りにございます」
「参考にならぬ」
「殿下に庭の手入れをさせるわけには参りませぬな」
マルクスがわずかに口の端を動かした。笑ったのだと気づくのに少しかかる。この人の笑いは筋肉の使用量が極端に少ない。省エネにも程がある。
「とにかく、明日は東棟にお近づきになりませぬよう。ヒースガルド殿も同様に」
俺は目で抗議した。
「あなたが来れば殿下は仕事をなさいます。火のそばに油を置いておく者がありましょうか」
油。俺、油だったのか。
しかも置いてある側だ。自分から燃やしに行ってる自覚は多少あるけど、そこは本人の名誉のために黙っておく。
殿下が机の上を片づけ始める。書簡の束を隅へ寄せ、ペンを立て、インク壺に蓋をする。
ひとつひとつの動作が普段より遅い。片づけ方が分からないんじゃない。片づけたあとにやることが分からない人の手つきだ。
その夜、俺は自室で天井を見ていた。
王宮から与えられた側近用の部屋は、実家の三男部屋よりずいぶん広い。壁には作り付けの棚があって、置くものがないので半分が空いている。窓を開けると秋の夜気が入ってきて、見回りの衛兵の靴音が遠くを行って、また戻ってきた。
明日は休日だ。
何をしよう、と考えて、5分後には殿下宛ての返答文を頭の中で組み立てていた。何やってんだ、俺は。慌てて追い出して、もう一度考える。市場に行ってもいい。実家に顔を出してもいい。兄たちに会えば、次男坊は騎士団の武勇伝を、長男は書庫の埃の話をするだろう。
どれも思い浮かぶだけで、身体が動く気がしない。
動かないというより、動かし方が分からない。締切も約束もない一日ってやつを、俺はまだ一度も経験していないらしい。
……それ、社会人としてわりとまずいのでは。
結局、俺が明日いちばん気にしているのは、ルシアンがちゃんと休めるかどうかだった。休み方を知らない人間が、休み方を知らない人間の心配をしている。前世の職場でこれをやると、だいたい共倒れになる。
枕に顔を埋める。リネンの匂いがあの朝と同じだ。転生初日に寝台から転げ落ちたときの匂い。あれから一年半、俺の生活はまだ「殿下」を中心に回っている。
明日は行かない。絶対に行かない。
そう決めて、俺は眠った。
翌日の昼前、俺は東棟の廊下を歩いていた。
早い。あの決意、一晩しかもたなかった。
言い訳は用意してある。エルデ茶の発注書に印を押し忘れた気がする。あくまで確認だ。確認したら帰る。
門衛に「休日ではないので?」と訊かれたので「確認だけです」と答えたら、生温かい目で通された。あの目には覚えがある。休みだというのに自分から仕事のほうへ歩いていく人間が浴びる目だ。
執務室の扉が細く開いていた。
嫌な予感を抱えて覗き込むと、窓を背にした机に銀髪がある。
「……殿下」
「なぜここにいる」
「それはこっちの台詞です」
ルシアンの手にはペンがあった。机の上には昨日隅へ寄せたはずのものが、きれいに元の位置へ戻っている。着ているものは正装ではなく、襟の緩い簡素な上着。休日の格好で、休日じゃないことをしている。
「朝の巡回のついでだ」
巡回の順路に執務机は含まれていない。
「猫に餌をやった。そのあと手が空いた」
「手が空いたから仕事を増やす人がいますか」
殿下が問い返してくる。目だけで、じゃあお前はどうなんだと。
この目が厄介なんだ。口で言われるより逃げ場がない。
「発注書の確認です」
「あれは昨日押した。俺が見ている」
完敗だった。
しばらく、二人とも黙っていた。窓の外で楓の葉が数枚落ちて、中庭の敷石を滑っていく音がする。
休日の王宮は音の種類が違う。人の足音が減ると、建物そのものの軋みが浮かび上がってくる。
殿下が無言で顎を動かす。机の横、いつも俺が座っている椅子のほうへ。
座れ、ということらしい。
断る前に身体が椅子のほうを向いていた。口より先に足が返事をしている。おい足。
「マルクスさんに見つかったら二人とも怒られますよ」
「見つからなければいい」
「その理屈で、俺は今まで何回連座させられたと思ってるんですか」
「数えていない」
こっちは数えてるんだよ。
椅子に座って、自分の分を引き取る。開封済みの陳情、日程の照会、地方領主からの季節の挨拶。休日にやる仕事じゃない。休日にやる仕事じゃないのに、指がひとりでに分類を始めている。
三通目で手が止まった。
宛名が「ルシアン殿下附きの御方へ」となっている。差出人の地方領主は、俺の名を知らなかったのではない。書くべき呼び方を知らなかったのだ。遠くの誰かが記せる名前を、俺はまだ持っていない。
ペンの音が二つになった。
窓の外で、遠くの鐘が正午を告げる。休日の鐘は平日より一打多い決まりらしく、最後のひとつだけが余分に長く尾を引いた。半年通って、それに気づいたのが今日というのはどうなんだ。平日はこの部屋にいながら、鐘の数なんて数えたこともなかった。
30分ほどして、扉が音もなく開いた。
俺と殿下が同時に顔を上げる。マルクスが立っていた。手には茶の載った盆がある。碗が二つ、湯気の立ち方まで揃えて並んでいる。誰の分か訊くまでもない。
「……お叱りはないんですか」
「叱ったところで明日も同じことをなさるでしょう」
マルクスは盆を机の隅に置き、それから、深く長い息を吐いた。小言の代わりに息が出るのを俺は初めて見た。
「殿下。休養とは、何もせぬことでございます」
「何もしないとは、何をするのだ」
「何もせぬのです」
「それは休養の説明になっていない」
「……なっておりませぬな」
マルクスが引き下がっていく。扉が閉まる直前、独り言のような呟きが聞こえた。長年勤めて、この問いに答えられぬとは、とかなんとか。
その背中に言ってやりたい。それ、答えられる人のほうが少ないですよ。
俺は茶をひと口飲む。エルデ茶ではない、宮廷用の渋いやつだ。舌の奥に苦味が残って、それが妙に頭を冷やす。
冷えた頭でひとつ気づいた。この部屋の空気が平日より軽い。捌いてる量は同じはずなんだけど、なんだこれ。
「今日の休日、もう二度と来ませんよ」
「来月にもある」
「来月のは来月の休日でしょう。今日の分は今日しかないって話です」
殿下の手が止まった。こちらへ一度だけ視線が来て、すぐ手元へ落ちる。今日の分は今日しかない、という言葉を、ルシアンはたった今どこかから拾ってきたような顔をしている。
殿下が羽根ペンを置いた。置いて、しばらく指先で転がして、また持った。
今日の分は今日しかない、と言った当人が、その今日を仕事で埋めている。人のことは言えない。俺も自分の休日を、わざわざこの部屋まで運んできた口だ。次は何もしないほうをやってみるか。二人とも一度も成功したことがないやつを。
次話:「子猫、王宮に住んでいいのか問題」




