第31話「公文書に『取り巻き』とは書けませぬ」
王宮の朝は、鐘よりも侍従長のほうが早い。
東棟の廊下を曲がった瞬間、俺は待ち伏せに遭った。白いものの混じった頭、皺ひとつない黒の上着、若い衛兵よりも伸びた背筋。侍従長マルクス、勤続三十年。王宮の格式がそのまま人の形をとって歩いていると説明されたら、俺は疑わずに頷く。
出仕してこのかた、この人の小言を浴びずに済んだ朝がない。皆勤である。俺の出勤より正確だ。
「ヒースガルド殿」
「おはようございます、マルクスさん」
「おはようございますではございませぬ。左の袖のボタンが一つ外れております。それから今の礼、角度が浅い。あと5度」
5度。
目視で5度を測る技能をどこで習得するんだ。前世で使っていた定規は、季節ごとに狂ってた。侍従長のは机の引き出しではなく目のほうに入っていて、勤め上げた年月のあいだ一度も狂ってないらしい。
歩き方についても指導が入る。踵から落としてはなりませぬ、この東棟の廊下は音を集めるように造られておるのです、と。
「音を集めるように造る意味あります?」
「密談を防ぐためでございます」
「防ぐどころか、廊下の会話が全部響き渡るだけでは」
「ゆえに廊下では喋らぬのです」
じゃあ今の3分間は何だったんだ。
俺は歩きながら袖のボタンを留め直す。マルクスは当然のように横についてくる。指摘するなら止まってからにしてほしい。歩きながらボタンをいじる姿勢のほうが、礼の角度よりよっぽど格式に反していると思うんだが。
秋に入ってから、王宮の朝は空気の底のほうだけが冷たい。廊下の窓の外では中庭の楓が日ごとに色を落としていて、出仕した頃には掌がいつも汗ばんでいたのが嘘みたいだ。今は指先のほうが先に冷える。
歩きながら本日の予定を報告する。マルクスへの報告は要点から先に置くと機嫌がいい。結論、理由、期日。この順を崩すと、予定の報告のはずが報告の作法の話にすり替わって、廊下がやたら長くなる。
「午前は宮内府との折衝、午後は書簡の処理です。あと、エルデ茶の残りが2日分しかありません。今日中に発注をかけないと3日目の朝に王宮が滅びます」
「王宮は茶葉では滅びませぬ」
滅びるって。切れた翌朝の殿下の顔を、マルクスはまだ見ていない。見たら絶対に言い方が変わるよな。
「マルクスさんは殿下のカフェイン切れを見たことがないからそう言えるんですよ」
「……カフェインとは」
しまった。
説明すると長いので割愛した。マルクスの眉間に皺が寄る。寄ったまま、しばらく戻らない。たぶん今日一日これを考えて過ごすことになる。悪いことをした。反省はしている。まあ、次も言うと思うけど。
角をもう一つ曲がったところで、本日は申し上げねばならぬことがもう一件ある、と切り出された。
「小言以外にですか」
「小言と申されるな。指導と申せ」
マルクスが小脇の束から一枚を抜き出した。宮内府の紋章が青いインクで押されている。あの紋章が押されたやつに、ろくなものが書かれていた例しがない。
「来月の公務日程表にございます。宮内府へ提出するにあたり、随行者の氏名と役職を記載せねばなりませぬ。……ヒースガルド殿の欄が、埋まらぬのです」
受け取って目を落とす。殿下の名前があり、その下に護衛騎士が4人並び、さらにその下に俺の名前がある。ハルト・ヒースガルド。そこはきれいに埋まっている。
問題はその右隣だった。何も書かれていない。白いというより、そこだけが病気みたいに見える。
「先月までは何て書いてたんですか」
「『王子付』とだけ。曖昧なままで半年は通りました。ですが日程は宮内府から各府へ回り、門衛の手元にも写されます。記載なき随行者は、そもそも門を通れませぬ」
通れない。顔じゃなくて、紙が通る。
「名の知れた顔であろうと関係なく、書かれておらぬ者は、存在せぬものとして扱われます」
存在せぬもの。
いや待って、朝いちばんにする話にしては重くないか、これ。廊下ですれ違う官吏は全員俺の顔を覚えてるはずなのに、一行足りないだけで俺は門の外に置かれる。覚えられてることと、記されてることは、まったくの別勘定だ。
「じゃあ何て書けばいいんですか」
「それをわたくしが伺っておるのです」
俺が決めるのか、と口を開きかけたら、先回りで潰された。
「決められませぬ。役職とは本人が名乗るものではなく、宮廷が定めるもの。だからこそ厄介なのです。定めるための前例がない」
出た。前例がない。この王宮で最強の呪文である。
考えてみれば当たり前の話ではある。俺は「王子の側近」ではあるけど、正式な任官を受けたわけじゃない。学園でくっついてた取り巻きが、そのまま王宮までくっついてきただけだ。宮廷の側から見れば、いつの間にか東棟に住み着いた正体不明の生き物である。東庭の猫と扱いが変わらない。あっちは餌が出るぶん、待遇は俺より上かもしれない。
「仮に、ですけど。『取り巻き』では」
マルクスが立ち止まった。
音を集めるように造られた廊下が、その沈黙をやたら丁寧に反響させる。
「ヒースガルド殿。公文書に『取り巻き』とは書けませぬ」
……ですよね。
国の記録として何十年も残るかもしれないところに、取り巻きと書かれる。前世の履歴書で職種の欄に、自分の手で「その他大勢」と書き込むようなものだった。
昼の休憩に殿下のお時間をいただきます、と言い残してマルクスは去っていく。廊下の突き当たりまで、その足音は一度も響かなかった。三十年分の踵の使い方だ。
俺はもう一度、白いままのところを見下ろす。指の腹で撫でてみたが、当然ながら何も浮いてこない。撫でて出てくるなら誰も苦労していない。この件を殿下の判断に委ねるのは、たぶんこの王宮で一番遠回りな道になる。
嫌な予感というのはだいたい当たる。
昼の執務室はエルデ茶の匂いがする。朝に淹れた分が、壁のどこかにまだ残っている。
ルシアンは窓を背にした執務机で書簡を捌いていた。銀の髪が秋の薄い日差しを弾いて、襟の上の小さなブローチが呼吸に合わせて上下している。鳥と月の意匠。あれを隠さなくなってから、姿勢が変わった。肩の位置が高い。背筋の伸ばし方だけを見れば、さっきまで俺を叱っていた人と大差ない。
侍従長がお話をしたいそうです、と伝える。聞いている、とだけ返ってきた。ペン先は止まらない。
マルクスが一礼して机の前に立ち、例のやつを天板の端へ滑らせた。宮内府より差し戻された旨を、余計な語をひとつも足さずに述べる。
「埋めろ」
「埋まらぬから申し上げております」
この二人の会話は毎回こうだ。単語だけが往復して、意味が最短距離で通る。議事録を取る係がいたら泣く。俺なら泣く。
「何が要る」
「ヒースガルド殿の役職名にございます」
殿下が椅子に預けていた背を、わずかに前へ倒した。俺以外には気づけない程度の動き方だった。
……いや、なんで俺には気づけるんだ。半年で妙な技能がついてしまった。前世の上司の機嫌はあんなに読めなかったのに、どうしてルシアンの背中だけ読めるようになるんだよ。
「候補を用意いたしました。まず『王子付侍従次席』」
「待ってください。侍従になったら俺、一日中お茶淹れる人になりません?」
「今も淹れておられましょう」
今も淹れてはいる。淹れてはいるが、書類も日程も来客も俺の担当だ。茶だけが残る肩書きって、業務の八割を伏せて名刺を刷るようなものじゃないか?
「ならば『補佐官』——いえ、駄目です。補佐官は文官の職階、ヒースガルド殿は登用試験を受けておられませぬ」
「自分で出して自分で潰さないでください」
マルクスは俺の抗議を空気として処理し、次の候補を読み上げていく。客分。近侍。随身。奥番。
どれも耳に馴染まない。聞くたびに、あ、これ俺のことじゃないなという感想が先に来る。名前って不思議なもので、合ってないと音のほうが先に嫌がる。口の中で一度言ってみても、自分の名前の隣には並んでくれない。
いずれかをお選びくださいませ、と促されて、殿下が顔を上げた。
「その紙は、誰が読む」
「宮内府と、門衛と、各府の長にございます」
「ならば通る文字でいい。お前が選べ」
「殿下がお定めにならねば、宮廷の側が納得いたしませぬ」
羽根ペンが置かれた。
紫水晶の目がマルクスを見て、それから俺のほうへ一度だけ動く。この人は言葉を選ぶとき、必ず一拍だけ黙る。学園の頃はその沈黙が怖かった。今は何を言うつもりなのか読めなくて、別の意味で怖い。
「肩書きなどどうでもいい」
書簡を捌くのと同じ、なんでもない調子だった。
「あれはそばにいればいい」
執務室が静止した。
インク壺の縁に溜まった一滴が落ちる音まで聞こえた気がする。マルクスの口が半分開いて、そのまま閉じ方を忘れている。
俺はといえば、自分が今「あれ」と呼ばれた事実の処理に手間取っていた。指示語。名前の話をしていたのに、この人は俺を指示語で片づけた。
いやそれ、普通に失礼じゃないか? だって「あれ」って、机とか壺とか、名前を呼ぶ必要のないものを指すときに使うやつだろ。
なのに、なぜか、腹が立たない。
殿下の耳の先がうっすら赤い。本人は書簡に目を戻していて、今の一言の破壊力をかけらも自覚していない。自覚してたら言えるはずがないのだ、こんなことは。
マルクスの口がようやく本来の使い方を思い出した。
「その一文を、わたくしに宮内府へ提出せよと仰せですか」
「駄目か」
「駄目に決まっておりましょう!」
マルクスの声が廊下側の扉まで届いて、音を集める構造が律儀にそれを跳ね返す。積み上げてきた格式が、たった二行の会話で足元から崩れた人の顔だった。
抱えていた束を胸に押しつけたまま天井を仰ぎ、それから、ゆっくりと俺を見る。
「……あなたは、一体、何者なのです」
それを一番知りたいのは俺だ。
次話:「初めての休日は二度と来ない」




