エピローグ「取り巻きは辞められない」
卒業から三ヶ月が経った。
ルシアン・ヴァルトシュタインは第一王子として公務を開始し、俺ことハルト・ヒースガルドは正式な側近——つまり取り巻き——として王宮に出仕している。
出仕、と書くと大層に聞こえるが、やっていることは学園時代と大差ない。殿下のスケジュール管理、書類の仕分け、来客の応対、そして紅茶の準備。エルデ茶の在庫管理が地味に一番大変だ。殿下、あれ以来すっかりエルデ茶派になったので消費量が半端ない。
先週なんか、エルデ茶の在庫が切れかけたとき殿下の目が据わった。あの「凍った王子」が復活するかと思った。違う、あれは凍ったんじゃなくてカフェイン切れの顔だ。王子が紅茶で禁断症状を起こすな。
今日の公務は午前で終わり、午後は珍しく空いていた。
王宮の東庭——学園の中庭よりだいぶ広いが、殿下が選ぶベンチはいつも隅っこだ。習慣というのは場所が変わっても抜けないらしい。
「殿下、午後のご予定は特にありません。ゆっくりされてください」
「ああ」
ルシアンがベンチに座り、外套の襟を緩める。三ヶ月前までは考えられなかった仕草だ。人前で鎧を脱ぐようなことを、この人は絶対にしなかった。
「ハルト」
「はい」
「取り巻きは辞めないのか」
唐突な質問。でも殿下は時々こういうことを訊く。確認するように。まだ少し信じきれていないように。
「辞められないんですよ、殿下」
「理由を聞こうか」
「なにせ味方ゼロだった殿下の味方第一号ですから。辞めたら殿下、味方マイナス一になりますよ」
ルシアンが一瞬まばたきして、それから真顔で言った。
「……数学的にはそうだな」
「殿下、それツッコむところです」
「ツッコミとは」
「いや、ツッコミの概念から説明するのは勘弁してください」
「前にも同じことを言っていたな。結局説明しないまま三ヶ月が経っている」
「殿下にツッコミを教えたら王宮の会議が大変なことになるので封印してます」
「会議で使うつもりはない」
「いや殿下、覚えたら絶対使いますよ。あんた、便利な言葉は即座に実戦投入するタイプでしょう」
「……否定できない」
東庭の植え込みから、灰色の猫がのっそりと姿を現した。学園から俺たちを追いかけてきた——わけはないのだが、王宮にも野良猫はいるもので、殿下は早速この猫の餌付けを始めている。この人、猫への執着だけはぶれない。
猫の後ろから、小さな影がぞろぞろと出てくる。
「……子猫」
「ああ。先週生まれた」
「殿下、知ってたんですか」
「毎日見ている。四匹だ」
「毎日。公務の合間に」
「合間ではない。朝の巡回の一環だ」
「巡回に猫の出産チェックは含まれてないと思いますけど」
「含めた」
王子権限で巡回項目を増やすな。
灰色の母猫の後ろを、よちよちと四匹の子猫がついて歩いている。白いの、黒いの、縞模様の、そして——一匹だけ、母猫そっくりの灰色。
ルシアンが懐から干し肉の包みを取り出し、小さくちぎって地面に置いていく。公務用の正装のポケットに猫の餌を入れている王子。侍従が見たら卒倒する。
「殿下、侍従のマルクスさんがポケットに食べ物入れるの禁止って言ってませんでした?」
「マルクスには内密にしろ」
「共犯にしないでください」
「お前はもう共犯だ。三ヶ月前から」
それを言われると何も返せない。確かにあの大講堂から、俺はこの人の共犯だ。
「殿下」
「なんだ」
ルシアンの胸元に目がいく。外套の下、軍服の襟に隠れるようにして、小さなブローチが光っている。鳥と月の意匠。前王妃の形見だ。
「それ、もう隠す必要ないですね」
ルシアンの手が、無意識にブローチに触れる。
前王妃の名誉は回復された。もう「弑逆未遂犯の遺品」ではない。母の形見を、堂々と身につけていい。
「ああ」
ルシアンがブローチを襟の上に出す。鳥と月が午後の光を受けて、柔らかく輝く。
「でも、外さない」
「外さない?」
「これは母上の形見だ」
殿下の指がブローチの縁をなぞる。丁寧に、大切なものに触れるように。
「——そして、お前が見つけてくれたものだ」
あ。
やばい。
今の、破壊力が高すぎる。殿下、無自覚にそういうこと言うの本当にやめてほしい。心臓に悪い。取り巻きの心臓にも寿命はある。
「殿下、そういう台詞は予告してから言ってください」
「なぜだ」
「心の準備が要るんですよ!」
「意味が分からない」
分からないのが殿下のいいところであり困るところだ。
子猫が一匹、母猫から離れてこちらに歩いてきた。灰色の子猫だ。よちよちとした足取りで俺のブーツの横を通り過ぎ、ベンチの脚を嗅ぎ、それから——俺の膝に前足をかけた。
「おい、登るのか。お前」
子猫は返事の代わりに、小さな爪を俺のズボンに引っかけて、よじよじと膝に登ってくる。途中で二回ほど滑り落ちかけ、そのたびに「みぃ」と抗議の声を上げる。三度目の挑戦でようやく登頂に成功すると、くるんと丸まって目を閉じた。暖かい。手のひらに収まるくらいの、小さな毛玉の温もり。
「……懐かれたな」
ルシアンの声に笑いが混じっている。
「殿下の猫に懐かれるのは取り巻きの特権ですかね」
「猫は誰の所有物でもない」
「そういうところ、殿下はまともですよね」
「まともで悪いか」
「褒めてますよ」
残り三匹の子猫が母猫の周りをころころ転がっている。白い子猫が黒い子猫の尻尾を噛み、黒い子猫が「シャッ」と怒り、縞模様の子猫がそれを見て逃げ出す。母猫だけが王者の風格で座り、尻尾をゆっくり振っている。
「あの母猫、殿下に似てますね」
「どこがだ」
「堂々としてるところ。あと、子猫たちが好き勝手やってるのを黙って見てるところ」
「俺はお前たちの保護者ではない」
「でも周りが勝手に懐いてくるでしょう」
ルシアンが何か言いかけて、やめる。代わりに母猫を見つめて、ほんの一瞬だけ口元を緩めた。
東庭に風が吹く。植え込みの花が揺れて、甘い匂いが風に乗る。膝の上の子猫が耳をぴくりと動かし、また眠りに戻る。
取り巻き。
最初その言葉は「悪役の手下」を意味していた。処刑エンドまでついてくる、台詞が三つしかないモブ。
でも今は違う。
取り巻きは、そばにいる者だ。筋書きではなく、自分の意志で、この人の隣に立つ者。
ルシアンが餌をやり終えて、ベンチの背もたれに身体を預ける。午後の日差しが二人の上に降り注ぎ、膝の子猫がすうすうと寝息を立てている。
「ハルト」
「はい」
「……悪くない」
「何がですか」
「こういう午後が」
殿下がそう言って、空を見上げる。目を細めた横顔に、もう氷の気配はない。
取り巻きは辞められない。辞める気もない。
だって——この人のそばは、居心地がいいのだ。
膝の上で子猫がもぞりと寝返りを打ち、小さな前足が俺の指に絡まった。




