第30話「味方ゼロの殿下へ」
嵐が去った翌朝は、いつも静かだ。
大講堂での騒動から一夜明けて、学園は奇妙な穏やかさに包まれていた。ギルバートは王宮からの衛兵に拘束され、前王妃の裁判記録は正式に再審議が決まった。九年越しの冤罪が、ようやく光の下に引きずり出される。
中庭のベンチに座って、俺はぼんやりと空を見上げていた。雲ひとつない青空。卒業の儀の翌日がこんなにいい天気だと、昨日の騒動が嘘みたいに思える。
ベンチの横には風よけの布がまだ張ってある。ずいぶん前に俺が張ったやつだ。端がほつれて、風に揺れるたびにぱたぱたと音を立てている。
「ヒースガルド」
振り向くと、レオンが立っていた。正装ではなく普段の騎士服。剣は腰に帯びているが、柄に手はかけていない。
「セラフィムさん。朝から訓練ですか」
「いや」
レオンが隣に——ベンチの端に、明らかに距離を取って座る。座り慣れていない場所に座る人間の、ぎこちない動作だ。
「……今後は、協力する」
顔はそっぽを向いている。耳が赤い。この男、殿下と同じ病気なのでは。
「協力って、殿下と?」
「王子は無実だった。ならば私の剣が守るべきは——」
そこで言葉を切って、レオンは不機嫌そうに腕を組む。
「……とにかく、協力する。それだけだ。深く訊くな」
「めちゃくちゃ深く訊きたいんですけど」
「黙れ」
「いやだって、昨日まで殿下を断罪する側にいた人が協力するって言ってくれてるんですよ。これ深く訊かないでどうするんですか」
「だから黙れと言っている」
「セラフィムさん、頬も赤くなってきてますよ」
「日焼けだ」
「今朝はまだ日が出たばかりですけど」
「……朝日は意外と強い」
苦しい言い訳だった。騎士のくせに嘘がへたくそすぎる。
素直じゃない正義の味方。でもまあ、レオンがレオンらしいのはいいことだ。
次に来たのはナシェルだった。手に分厚い報告書を抱えて、中庭をまっすぐ歩いてくる。
「やあ。昨日の記録をまとめたよ。学術論文にできるレベルのデータが取れた」
「おい、あれ論文にする気か」
「冗談だよ」
ナシェルが眼鏡を押し上げる。レンズ越しの目が、いつもの分析的な光を帯びている。でも——唇の端が、かすかに上がっていた。
「でも面白いデータだったのは本当。人間の感情が社会構造を変える瞬間を、定量的に観測できた」
「ナシェル、それ褒めてるのか分析してるのか分からないんだけど」
「両方」
「両方って言い切るの、お前だけだぞ」
「効率的だろう? 一つの行為で二つの成果を得ている」
「褒めるのに効率求めるな」
レオンが横から「同感だ」と呟く。ナシェルがレオンをちらりと見て、「騎士と意見が一致するのは珍しいね」と首を傾げた。レオンの眉間の皺が深くなる。
悪びれもせずに笑う。この天才、最近ちょっと人間味が出てきた気がする。
三人目。フィオーレが花束を抱えてやってきた。小さな白い花——中庭の花壇に咲いている、名前の知らない花だ。
「ハルトさん。昨日はありがとうございました」
「いや、俺にお礼を言われても。勇気を出して証言したのはフィオーレさんでしょう」
「でも、私に声をかけてくれたのはハルトさんです」
フィオーレが花束をベンチの上に置く。花の甘い香りがふわりと広がって、朝の冷えた空気に溶けていく。
「それにしても、昨日の大講堂は凄かったですね。ナシェルさんの映像が天井いっぱいに広がったとき、隣の子が腰を抜かしてました」
「僕の魔法の出力を適切に調整した結果だよ。演出ではなく視認性の最適化」
「ナシェル、それを世間では演出って言うんだ」
「違う。僕は事実を見せただけで——」
「はいはい、事実ね。お前の口癖な」
「口癖ではない。信条だ」
「あの映像、レオンさんが剣を抜いた瞬間が一番怖かったです」
フィオーレの言葉に、レオンの背筋がさらに伸びる。
「あれは正当な行為だ。不正を目の前にして剣を抜かない騎士はいない」
「いやセラフィムさん、めちゃくちゃかっこよかったですよ。フィオーレさんもそう思いますよね」
「はい! すごく——あ、いえ、そのっ」
フィオーレの頬が急に赤くなる。レオンの頬も赤い。二人して目を逸らした。
なんだこの空気。おい、ここは俺とルシアンの作品だぞ。勝手にサブカプ展開を始めるな。
「改めて——よろしくお願いします、殿下」
フィオーレの視線は、俺の後ろに向けられていた。
振り返る。
ルシアンが、中庭の入り口に立っていた。いつからいたのか分からない。軍服ではなく普段の外套を羽織って、蒼い瞳でこちらを——いや、全員を見つめている。
レオンが立ち上がって敬礼しかけ、途中でやめて、ぎこちなく頭を下げる。ナシェルが報告書をひらひら振って「おはよう、王子」と軽く挨拶する。フィオーレが微笑む。
殿下の周りに、人がいる。
味方ゼロだった殿下の周りに。
ルシアンがゆっくりと近づいてくる。その表情は——うまく言語化できない。戸惑いと、驚きと、それから名前のつかない何かが混ざっている。
「殿下、ベンチ空いてますよ。——あ、レオンさんがめちゃくちゃ端に座ってるので真ん中が空いてます」
「俺は端が好きなだけだ」
「はいはい」
俺はベンチから立ち上がる。
「殿下」
「……なんだ」
「味方ゼロだった殿下。もう味方ゼロじゃないですよ」
ルシアンが俺を見る。蒼い瞳が揺れて、それから——ふっと、息を吐くように笑った。
「お前のせいだ」
「褒めてます?」
「……褒めている」
殿下が、褒めてると認めた。嫌味でもなく皮肉でもなく、まっすぐに。
やばい。なんか目の奥が熱い。泣くな取り巻き。ここで泣いたらコメディの品格が崩れる。
「殿下、それ最高の褒め言葉なんですけど、もうちょっとこう、表情に出しません? 能面みたいな顔で褒められると受け取り方に困る」
「これが精一杯だ。文句を言うな」
「精一杯で能面なの逆にすごいですよ殿下」
「データとしては興味深い。表情筋の可動域と感情表現の相関には個人差がある」
「ナシェル、今それを分析するな」
「はは、殿下はきっとこれから少しずつ——」
「フィオーレ、フォローしなくていい。殿下が能面なのは個性だから」
「個性で片づけるな」
ルシアンが低い声で言う。怒っているのか呆れているのか——いや、唇の端がほんの少し上がっている。この人なりの、精一杯の「楽しい」の顔だ。
レオンが「うるさいぞお前ら」と呟き、ナシェルが「貴重なデータだ、続けてくれ」とメモを取り出し、フィオーレが口元を押さえて笑いをこらえている。
中庭の猫が、花壇の陰からのそのそと出てきて、ルシアンの足元に擦り寄る。殿下が屈んで、猫の顎の下を撫でる。その仕草は、もう誰かに見られることを恐れていない。
味方ゼロの殿下は、もういない。
ルシアンが猫を撫でながら、ふと顔を上げた。中庭にいる全員を見渡して、それから——自由に、笑った。
不器用で、ぎこちなくて、少し照れくさそうな笑顔。
でも、氷は溶けていた。凍った王子はもういない。そこにいるのは、ようやく笑い方を思い出した一人の青年だ。
風が吹いて、花壇の花びらが舞い上がる。白い花弁が朝日に透けて、中庭を春の色に染めていく。
——ああ、これが。
筋書きにない結末の、その先だ。
次話:エピローグ「取り巻きは辞められない」




