第26話「【Side:ナシェル】事実の、その先」
ナシェル・ド・フォンテーヌにとって、世界は解析可能な対象の集合体だ。
魔力の流れには法則がある。歴史には因果がある。人間の行動にはパターンがある。僕はそれを読み取り、分解し、再構成する。それが魔導士としての僕の仕事であり、生き方でもある。
だから、前王妃の事件の真相を暴くことに躊躇はなかった。
九年前の事件は、検証されないまま放置された異常なケースだ。証拠の不備、証言の矛盾、裁判記録の欠落。調べれば調べるほど穴が見つかる。穴のある事実は、事実ではない。僕はそれを正しい形に戻すだけ。
——そのはずだった。
ブローチに『ディヴェラティオ・ヴェリタス』を発動したとき、僕の頭は完全に研究モードだった。映像の解像度、音声の鮮明さ、魔力残滓の減衰率。すべてデータとして処理していた。
前王妃の声が聞こえた。
「ルシアン。あなたがこれを聞いてくれているなら——ママはあなたを守りたかった」
データだ、と僕は思った。音声データ。声紋を分析すれば、前王妃エレノア本人のものか照合できる。感情のピッチ変動から、発言時の精神状態も推定可能。
そこまでは、よかった。
問題はその後だ。
僕は壁際のルシアンを見てしまった。
あの男は泣いていない。表情も変えていない。腕を組んだまま微動だにせず——ただ、目が赤くなっていた。それだけで、僕のデータ処理が止まる。
なぜ止まったのか。
帰り道、研究室を片づけながら考える。散らばった文献を棚に戻し、魔法陣を消去し、使い終わった触媒を廃棄する。手を動かしていると思考が整理される。僕の脳はそういう構造になっている。
事実:前王妃は無実だった。
事実:ギルバートが事件を操作していた可能性が極めて高い。
事実:ルシアンは九年間、母親の無実を証明する手段を持たなかった。
事実:あの映像を見たルシアンの目は赤かった。
四つとも事実だ。どれも等しくデータとして処理できる。
——はずなのに、四つ目だけが引っかかる。
棚に文献を戻す手が止まる。引っかかりの正体を特定しなければ気が済まない。僕は未解決の違和感を放置できない性質だ。放置すると夜眠れなくなる。研究者にとって睡眠不足は効率の大敵であり、つまりこの違和感は生産性の問題として処理する必要がある。
——と、もっともらしい理屈を並べてみたが、嘘だ。引っかかっているのは効率の問題じゃない。
ルシアンの赤い目を思い出すたびに、胸の辺りが妙にざわつく。これは何だ。心拍数の変動か。交感神経の誤作動か。測定器具を当ててみたくなるが、あいにく自分の胸に魔力測定器を押し当てている姿を誰かに見られたら、変人の評価が確定する。——いや、もう確定しているかもしれない。
僕は事実を暴くことを研究の目的にしてきた。真実は常に明るみに出るべきであり、隠蔽は知性への冒涜だ。それが僕の信条で、この魔法を開発した動機でもある。
でも今日、僕は一つのことを見落としていたと気づかされた。
事実を暴いた先に、人がいる。
前王妃の無実は事実だ。その事実を知ったルシアンの目が赤くなったのも事実。事実は事実のまま存在するが、それを受け取る人間には感情がある。九年分の感情が。
僕の研究にその変数は含まれていなかった。
ハルトという男を観察していると、考えさせられることが多い。
あの男は論理的ではない。行動の根拠が「そうしたいから」という非合理な衝動に基づいている。効率が悪い。予測不可能。分析者として言えば、最も扱いにくいタイプの人間だ。
にもかかわらず、あの男はルシアンの防壁を突破した。
僕には無理だっただろう。仮に僕がルシアンに「前王妃の事件に矛盾がある」と伝えたとして、ルシアンは僕にブローチを預けただろうか。答えは否だ。データの正確性を説いても、人はデータに心を開かない。
ハルトは「俺がそうしたいから」と言った。その言葉にデータとしての価値はない。論理的根拠もない。なのにルシアンは、あの男にブローチを渡した。
試しに、ハルトの行動を数値化してみようとした。
パラメータ設定:好意、信頼、自己犠牲の意志。それぞれ0から100の尺度で評価する。ルシアンへの好意——高い。数値で言えば85前後。信頼——これも高い。90は超えている。自己犠牲——あの男、殿下と共に断罪される危険を知っていながらそばにいる。100だ。
合計275。十分に高い。しかし問題がある。
同じ数値を持つ人間が十人いたとして、十人全員がルシアンの防壁を突破できるかと言えば、それは否だ。ハルトの行動には数値化できない何かがある。「そうしたいから」——この四文字に含まれる情報量を、僕の解析は捕捉できていない。
つまり、僕の分析フレームには盲点がある。
これは不愉快だ。自分の理論に穴が見つかるのは、研究者として最も不愉快な事態である。同時に、最も興奮する事態でもある。穴のない理論は完成であり、完成は死を意味する。穴がある限り、研究は続く。
感情で動くことが、必ずしも非合理ではない。
——そう結論づけるのは、僕にとってかなり不本意な認識の更新だ。
研究室の窓から夜空が見える。星が出ている。星の光は過去のデータだ。何百年も前に放たれた光が、今ここに届いている。事実は時間を超えて届く。
前王妃の声も、九年前のデータだ。ブローチに込められた魔力の残滓に乗って、今日、息子に届いた。
事実は事実だ。それは変わらない。
でも、事実の先に人がいる。事実を受け取る人間がいて、その人間には時間の積み重なった感情がある。
それを、僕は計算に入れていなかった。
メモ帳を開く。魔法の改良案を書き込む手が止まる。
改良すべきは魔法ではない。僕自身の認識フレームだ。
ハルトが研究室を出るとき、振り返って言ったことを思い出す。
「ナシェル、ありがとう。お前がいなきゃ、殿下の母上の声は届かなかった」
礼を言われる筋合いはない。僕は事実を暴いただけだ。それが僕の仕事だ。
——なのに、悪い気はしなかった。
それが最も不本意な事実だ。
しかもあの男、帰り際にもう一つ余計なことを言った。
「お前さ、たまには研究以外のことで笑ったら? 顔の筋肉が退化するぞ」
顔の筋肉は研究以外で使う必要がない、と反論しようとしたのだが、言葉が口から出る前にハルトは研究室のドアを閉めていた。議論に応じない相手ほど厄介なものはない。
今、無意識に唇の端が上がっていることに気づく。
これは笑っているのか。研究以外のことで? まさか。口角の筋肉が無意識に収縮しただけだ。表情筋の不随意運動。生理現象に過ぎない。
——生理現象にしては、少し長く続いている。
メモ帳を閉じる。明日から手記の捜索が始まる。三日以内に書斎の封印を解き、手記を確保し、封印を元に戻す。やるべきことは明確で、手順は論理的に組み立てられる。
僕の役割は変わらない。事実を暴くこと。それだけ。
ただ——暴いた事実を誰かに届けるところまでが、僕の仕事なのかもしれない。
事実の、その先。
そこに何があるのか、僕はまだ分からない。でも、分からないものを前にしたとき、研究者は仮説を立てる。検証する。理解する。
分からないなら、調べればいい。
それだけのことだ。
次話:「あと三日」




