第25話「母の形見が語ること」
ナシェルの研究室は、いつにも増してカオスだった。
机の上に広がる魔法陣。壁に貼られた数式の羅列。床に散らばった参考文献。足の踏み場がない。ここ数日、ナシェルはほとんど寝ていないらしい。蜂蜜色の髪がボサボサで、眼鏡が曇っている。
「お待たせ、準備は整った」
ナシェルが眼鏡を拭きながら言う。目だけが爛々と輝いている。研究者の目だ。
俺の手元にはルシアンのブローチ。青い宝石を銀の台座が抱く、質素な意匠。ルシアンもここにいる。壁際に立って腕を組み、ナシェルの動きを見ている。
「壊れないんだな」
ルシアンが確認する。三度目だ。
「壊れません。僕の魔法は対象に記録された情報を読み取るだけです。物理的な損傷は生じない」
「三度同じことを聞いた」
「三度とも同じ答えです。事実は変わりませんから」
ナシェルが淡々と返す。この二人のやりとりは妙にテンポがいい。王子と天才魔導士、どちらも無駄な言葉を嫌う人種だ。間に挟まれる俺だけが庶民枠。
「じゃあ、始めてくれ」
俺がブローチをナシェルに渡す。ナシェルは白い手袋をはめた指でそれを受け取り、魔法陣の中央に置いた。
「『隠された真実を暴く』——正式名称は『ディヴェラティオ・ヴェリタス』。対象に蓄積された魔力の残滓から、関連する事実の断片を映像として再構成する魔法だ」
「要するに、ブローチの記憶を見るってことか」
「乱暴な要約だけど、概ねそう。発動するよ」
ナシェルの指先が光を帯びる。白く、鋭い光。魔法陣が床から浮き上がり、ブローチを包み込む。
部屋の空気が変わった。温度が下がる。薬品とインクの匂いが消えて、代わりに——花の香り? どこかで嗅いだことがある。甘くて、少し青い、春の花の匂い。
ブローチが光を放つ。青い宝石の内側から、映像が溢れ出す。
最初に見えたのは、女性の手だった。白くて細い指がブローチを裏返す。台座の裏側に、小さな紋章が刻まれている。鳥と月のマーク。
そして声が聞こえた。
「——もしこれを見つけた人がいたら。書斎の二番目の棚の裏に、手記を隠しています」
優しくて、どこか疲れた声。若い女性の声。
「全部、書きました。ギルバートが何をしたか。私が何を知っていたか。あの人は——私が黙っていれば満足すると思っていたけれど、きっとそうはならない」
映像がぶれる。女性の顔は見えない。でも、声だけで伝わるものがある。怖がっている。でも、諦めてはいない。
「ルシアン。あなたがこれを聞いてくれているなら——ママはあなたを守りたかった。それだけは、忘れないで」
映像が消えた。
部屋に沈黙が落ちる。
俺は動けなかった。横を見る勇気がない。でも見なければいけない。
ルシアンは壁際に立ったまま、動かなかった。腕を組んだ姿勢も変わらない。表情も——変わらない。凍った王子の顔のまま。
でも、目が赤い。
堪えている。この人は今、全力で堪えている。
「ナシェル」
俺の声がかすれている。自分でも驚くほど。
「紋章の意味は分かるか」
「鳥と月——フォンテーヌ家の分家の紋章に近い。古い貴族の記録を当たれば特定できる。それより重要なのは、手記の存在だ」
ナシェルは冷静だった。声も表情も揺れていない。——嘘だ。眼鏡を外して拭いている。レンズは曇っていない。
「書斎の二番目の棚の裏、と言っていた。前王妃の書斎がまだ残っているなら——」
「封印されている」
ルシアンの声だった。低く、硬い。
「母上の部屋は事件後に封印された。立ち入り禁止だ。父上の命令で」
「解除する方法は」
「王族の命令があれば」
「では殿下が——」
「第一王子には権限がない。『裏切り者の息子』だからな」
苦い笑み。自嘲。九年間、自分の母親の部屋にすら入れなかったのだ。
俺は拳を握った。爪が掌に食い込む痛みで、頭を回す。
「正面から行かなくていい。ギルバートに気づかれる前に手記を確保する方法を考えましょう。ナシェル、お前の魔法で封印を解くことはできるか」
「できる。ただし痕跡が残る。三日が限度だ。三日以内に手記を見つけて、封印を元に戻す必要がある」
「三日か」
「卒業の儀まであと十日。逆算すれば、動くなら今しかない」
ルシアンが壁から背を離した。ブローチを魔法陣から取り上げ、胸元に戻す。その手が、わずかに震えていた。
「母上は……無実だった」
呟くような声。確認するような、自分に言い聞かせるような。
俺の目頭が熱い。泣くな、と自分に命じる。ここで俺が泣いてどうする。九年間信じ続けたのは殿下だ。母の無実を信じて、証拠もなく、味方もなく、たった一人で。俺は何もしていない。泣く資格なんかない。
でも——よかった。
殿下のお母上は悪人じゃなかった。殿下が信じ続けたものは、間違いじゃなかった。
鼻の奥がツンとする。必死に上を向く。天井のシミを数え始める。一つ、二つ、三つ——ダメだ、全然効かない。
「ハルト」
ルシアンの声。
「は、はい」
「泣いているのか」
「泣いてません。花粉です」
「この時期に花粉はない」
「異世界の花粉は年中あるかもしれないでしょう」
「ないな」
「ないですか」
「ない」
ルシアンの声に、ほんの微かな温かみが混じる。
「……ありがとう」
小さな声だった。俺に向けられた言葉なのか、映像の中の母に向けた言葉なのか、分からない。どちらでもいいと思った。
ナシェルが眼鏡をかけ直す。
「感動に浸るのは後にしてくれ。三日しかない。作戦を詰めるよ」
「お前ちょっとは空気読めよ」
「空気は読まない。事実を読む」
ナシェルがメモを取り始める。ルシアンが地図を広げる。俺は鼻を啜りながら、二人の間に座った。
三人。味方ゼロだった殿下の周りに、今は三人。まだ少ない。全然少ない。でも、ゼロじゃない。
次話:「【Side:ナシェル】事実の、その先」




