第23話「善人の仮面の裏」
それは、偶然だった。
殿下に頼まれた書類を事務棟に届けた帰り道。渡り廊下の柱の陰から、聞き覚えのある声が漏れてきた。
「——第一王子の件、ご安心ください。卒業の儀までには、すべて整います」
穏やかで、低くて、耳に心地いい声。前世でいうなら顧客対応がうまい営業部長の声。
ギルバート・レッドモンドだ。
国王陛下の側近にして、宮廷の調整役。誰にでも公平で、誰にでも優しい紳士。ゲームでは攻略対象の一人で、ヒロインを陰から支える温厚な大人枠。
俺は反射的に柱の影に身を隠した。サラリーマンの本能だ。上司の密談を偶然聞いてしまったときは、存在を消すに限る。
「しかしギルバート殿、最近あの側近の少年が殿下の周辺を嗅ぎ回っているとか」
知らない声。宮廷の文官だろうか。
「ヒースガルドの三男ですね。心配には及びません。あの程度の下級貴族の子に何ができるわけでもない」
あの程度。
善人おじさんの口から出た言葉に、背筋がざわっとする。声のトーンが変わっていない。穏やかなまま、笑顔のまま、人を値踏みしている。
「それより、近衛に伝えてください。卒業の儀の警備配置を変更します。第一王子の動線を——」
足音が近づいてくる。俺は息を殺して、反対方向に抜けた。心臓がバクバクしている。手のひらに汗が滲んでいる。
自室に戻って、椅子にへたり込む。
待て。落ち着け。今の会話を整理しろ。
ギルバートが「第一王子の件」について誰かと密談していた。「卒業の儀までに整う」。警備配置の変更。殿下の動線。
——筋書きを捨てたはずの頭が、嫌な方向に回転する。
いや、これはゲーム知識じゃない。前世のサラリーマン勘だ。上司が笑顔で部下の異動を根回ししているときの空気。本人の前では味方の顔をして、裏で人事に手を回すタイプの上司。
ギルバートの「助言」を思い出す。俺が殿下のそばに来たばかりの頃、親切に声をかけてくれた。「困ったことがあれば相談しなさい」と。あのとき俺は——ゲーム内の味方NPCだと思っていた。
善人NPC。
でも、善人NPCが殿下の動線を変更する必要があるか?
机の引き出しからハルトの記憶にあるノートを引っ張り出す。ヒースガルド家の家庭教師が書かせた宮廷史のまとめ。走り書きの中に、前王妃エレノアの名前を見つけた。
九年前の弑逆未遂事件。前王妃が国王を毒殺しようとした罪で処刑された。証拠は王妃の部屋から見つかった毒薬と、証言者の供述。
証言者——名前は記されていない。だがノートの余白に、ハルトの前任者が書き残したメモがある。「事件当時の取り調べを主導したのはG卿」。
G卿。
「まさか」
ギルバートの姓はレッドモンド。Gはギルバートの頭文字。
偶然かもしれない。でも、さっきの会話と合わせると——。
善人NPCだと思っていた男が、前王妃を陥れた張本人で、今も殿下を処刑エンドに向かわせようとしている?
「ゲームのストーリー以上にエグいんですけど」
声に出して言ってから、自分の言葉にぞっとした。
これはゲームじゃない。筋書きを捨てたのだから、目の前にあるのは生の現実だ。善人の仮面を被った人間が、この王宮に実在している。
一人じゃ無理だ。
俺にあるのはサラリーマン勘と、たまたま聞いた断片情報だけ。証拠がない。宮廷の権力構造も分からない。ギルバートの陰謀の全容を暴くには、俺の頭じゃ足りない。
だが——足りない頭を補ってくれそうな人間に、一人だけ心当たりがある。
翌日。俺は学園の研究棟を訪ねた。
魔導研究室の扉を叩くと、インクと薬品を混ぜたような匂いが隙間から漏れてくる。
「どうぞ」
扉の向こうにいたのは、銀縁眼鏡の青年。蜂蜜色の髪を無造作に束ねて、机の上に広げた魔法陣を睨んでいる。ナシェル・ド・フォンテーヌ。天才魔導士。
「ナシェル、頼みがある」
「珍しいね、ハルト。僕に頼み事?」
ナシェルが眼鏡を押し上げて、こちらを見る。分析するような目。感情ではなく情報を読み取ろうとする目。
「お前の研究——『隠された真実を暴く』魔法、あれはどこまで完成してる?」
ナシェルの目が光った。研究の話題を振られると途端に生き生きするのは、このキャラの——いや、この人の性分だろう。
「理論は完成している。実証実験がまだ足りない。なぜ?」
「調べたいものがある」
「何を」
「九年前の弑逆未遂事件の真相」
ナシェルの手が止まった。眼鏡の奥の目が、鋭くなる。
「……それは、第一王子に関わる話か」
「ああ」
「面白い」
ナシェルは即答した。迷いがない。
「面白いって——命に関わるかもしれない話なんだけど」
「だから面白いんだよ。九年間、誰も検証していない事件だ。事実がどこかに埋まっている。それを暴くのは、僕の研究の本懐だ」
研究の本懐。この人にとっては真実を知ることが全てで、そこに感情は挟まらない。冷たいわけじゃなく、そういう人間なのだ。
頼もしいと思う。同時に、少し怖い。事実を暴いた先に何があっても、この人は止まらない。
でも今は、その冷徹さが必要だった。
「協力してくれるか」
「もちろん。ただし条件がある」
「なんだ」
「結果がどうであれ、事実を隠さないこと。僕は事実を曲げない」
「……分かった」
握手を交わす。ナシェルの手は乾いていて、インクの染みが指先に残っていた。
次話:「肩を並べて」




