第22話「俺がそうしたいから」
ルシアンの執務室の前に立つ。樫の扉。獅子のノッカー。ここに来るのは何度目だろう。初めて来たときは心臓が爆発しそうだったが、今日は別の意味で心臓がうるさい。
拒絶される覚悟はできている。できていると思いたい。
ノッカーに手を伸ばして——一度引っ込める。
待て。何を言うか整理しろ。前世の営業時代、アポなし訪問で玄関先で追い返された数は両手じゃ足りない。あのとき学んだことがある。「最初の一言で用件を言え。言い訳から入るな」。
よし。用件は一つ。「殿下のそばにいたい」。シンプル。明快。
——いや、シンプルすぎて怖い。前世の営業トークならもっとクッション言葉を挟む。「お忙しいところ恐れ入りますが」「先日はお時間をいただきありがとうございました」。でもここは異世界だし、相手は王子だし、クッション言葉を挟んだら殿下に「何の話だ」と睨まれる未来しか見えない。
ノッカーを叩いた。銅の硬い感触が指に伝わる。
返事がない。
もう一度叩く。
「……誰だ」
低い声。以前よりさらに感情を削ぎ落とした音。刃物みたいだ。
「ハルトです」
長い沈黙。
「帰れ」
予想通り。想定通り。でも、聞いた瞬間に胸の奥がきゅっと縮んだのは想定外だった。
——ここで帰るのが普通だ。前世の俺なら帰っている。出禁の取引先にしつこく通うのはストーカーであり、営業ではない。
でも、俺はもう営業をしに来たんじゃない。
「殿下、お話ししたいことがあります」
「もう来るなと言ったはずだ」
「はい。聞こえてました」
「ならば——」
「聞こえた上で来ました」
沈黙。扉の向こうから、椅子を引く音がする。足音。近づいてくる。
扉が開いた。
——やつれている。
それが最初に思ったことだ。銀色の髪は相変わらず整っているけれど、紫水晶の目の下に隈がある。頬が少し痩せた気がする。インクの匂いが濃い。ずっと書き物をしていたのだろう。
ルシアンの目が俺を射抜く。怒りじゃない。もっと厄介なもの——期待を殺した諦めの目。
「何の用だ。筋書きの続きを実行しに来たか」
「筋書きは捨てました」
ルシアンの目が微かに揺れる。ほんの一瞬、睫毛が震えるみたいな小さな動き。
「……何?」
「ゲームの知識は、もう使いません。使えないんじゃなくて、使わないと決めました」
俺は真っ直ぐ殿下の目を見た。心臓がうるさい。膝がちょっと笑っている。でも視線は逸らさない。
「では、何のために来た」
来た。この質問。
あの日——初めてこの部屋に呼ばれた日。殿下は同じことを聞いた。
「なぜ俺のそばにいる」
あのとき俺は答えた。「取り巻きですから」と。嘘じゃなかった。でも全部でもなかった。
今日は、全部言う。
「俺がそうしたいからです」
ルシアンが固まった。文字通り、動きが止まる。まばたきすら忘れたみたいに。
「殿下のそばにいたいから来ました。ゲームも攻略も関係ない。俺が、そうしたいから」
言い切った。声が震えていないことだけが奇跡。
沈黙が落ちる。廊下の空気が冷たく肌を刺す。遠くで鳥の声がする。
ルシアンが口を開きかけ、閉じた。開きかけ、また閉じる。何か言おうとして、言葉を探しているのが分かる。
この人はきっと、こういう言葉をかけられた経験がない。九年間、誰も「そばにいたい」なんて言ってこなかったのだ。だから受け取り方が分からない。処理が追いつかない。
それは、ルシアンの瞳に浮かんだ光で分かった。怒りでも拒絶でもない、もっと柔らかくて危ういもの。揺れている。
「……理由がないなら、信じようがない」
ルシアンの声が低い。でもさっきまでの刃物みたいな冷たさは消えている。
「理由ならあります。殿下が庭で猫に餌をやっているのを見ました。殿下が俺にだけ見せてくれた詩集のこと、覚えています。殿下が笑ったとき——」
「やめろ」
遮られた。でも怒声じゃない。照れ隠しに近い響き。
「そういうことを——並べ立てるな」
「いや全部事実なんですけど」
「事実かどうかの問題ではない」
「じゃあ何の問題なんですか」
「……お前は、本当に読めない男だ」
ルシアンが片手で額を押さえる。整った顔に困惑が浮かんでいる。「凍った王子」の仮面が完全にズレている。
あ、これ知ってる。前世の上司が「お前の提案は予想外すぎて対応できない」と言ったときと同じ顔だ。想定外のことを言われて処理落ちしている顔。
「殿下、いま処理落ちしてません?」
「……何の話だ」
「いえ、こっちの話です」
ルシアンが俺を見る。怒りではない。戸惑いでもない。
名前のつけられない表情。
「入れとは言っていない」
「はい」
「帰れとも——」
ルシアンが言葉を切った。視線を逸らして、窓の外を見る。耳の先が、ほんの少し赤い。
——え、いま耳赤くなかった?
見間違いかもしれない。夕陽の加減かもしれない。でも確かに、あの白い耳の先端がうっすら色づいていた。凍った王子の、耳が赤い。情報量が多すぎて俺の方が処理落ちしそうである。
「……今日のところは、好きにしろ」
それは「入れ」でも「帰れ」でもなかった。でも、扉が閉まらなかった。
ルシアンは背を向けて執務机に戻っていく。その歩き方がいつもより少しだけ速い。逃げているわけじゃないだろうが、間合いを取りたい人間の歩き方だ。前世の合コンで、いきなり告白されて困った女性が席を立つときの動きに似ている——いや、その例えは殿下に失礼すぎる。
俺はその背中を見ながら、一歩だけ部屋に足を踏み入れる。
机の上に詩集が開いてある。殿下が一人で読んでいたのだろう。その横に、小皿が置いてある。干し肉が数切れ。
猫の餌だ。
まだ庭に、行っていたのか。
何かが胸の奥で軋む。泣きそうになるのを全力で堪える。ここで泣いたら台無しだ。感動シーンじゃない。俺はまだ何もしていない。ただ扉が閉まらなかっただけ。
でも——それだけで十分だった。今日は、それだけでいい。
「殿下。一つだけ聞いていいですか」
「なんだ」
「今日の猫の餌やり、俺も行っていいですか」
ルシアンがペンを止めた。こちらを見ないまま、小さく息を吐く。
「……勝手にしろ」
それは「いい」という意味だと、俺はもう知っている。
殿下の「勝手にしろ」辞典があったら、かなりの厚みになるはずだ。「勝手にしろ(許可)」「勝手にしろ(照れ隠し)」「勝手にしろ(本気で怒ってる)」。今のは間違いなく二番目。声のトーンが半音高い。
俺は部屋の隅の椅子に腰を下ろして、殿下が書き物をする横顔を眺める。ペン先が紙を走る音だけが響く静かな時間。
筋書きがあった頃は、この時間にも「次の手」を考えていた。殿下の好感度がいくつ上がったか、次にどのイベントが来るか。
今は何も考えていない。ただ、ここにいる。
窓の外で鳥が鳴いている。殿下のペンが止まって、またすぐに動き出す。干し肉の塩気の混じった匂いが鼻をかすめる。
——悪くない。筋書きのない時間も、悪くない。
次話:「善人の仮面の裏」




