表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪役王子の取り巻きに転生したら、殿下が俺にだけデレてくる  作者: 夜凪 蒼


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
22/46

第22話「俺がそうしたいから」

ルシアンの執務室の前に立つ。樫の扉。獅子のノッカー。ここに来るのは何度目だろう。初めて来たときは心臓が爆発しそうだったが、今日は別の意味で心臓がうるさい。


 拒絶される覚悟はできている。できていると思いたい。


 ノッカーに手を伸ばして——一度引っ込める。


 待て。何を言うか整理しろ。前世の営業時代、アポなし訪問で玄関先で追い返された数は両手じゃ足りない。あのとき学んだことがある。「最初の一言で用件を言え。言い訳から入るな」。


 よし。用件は一つ。「殿下のそばにいたい」。シンプル。明快。


 ——いや、シンプルすぎて怖い。前世の営業トークならもっとクッション言葉を挟む。「お忙しいところ恐れ入りますが」「先日はお時間をいただきありがとうございました」。でもここは異世界だし、相手は王子だし、クッション言葉を挟んだら殿下に「何の話だ」と睨まれる未来しか見えない。


 ノッカーを叩いた。銅の硬い感触が指に伝わる。


 返事がない。


 もう一度叩く。


「……誰だ」


 低い声。以前よりさらに感情を削ぎ落とした音。刃物みたいだ。


「ハルトです」


 長い沈黙。


「帰れ」


 予想通り。想定通り。でも、聞いた瞬間に胸の奥がきゅっと縮んだのは想定外だった。


 ——ここで帰るのが普通だ。前世の俺なら帰っている。出禁の取引先にしつこく通うのはストーカーであり、営業ではない。


 でも、俺はもう営業をしに来たんじゃない。


「殿下、お話ししたいことがあります」


「もう来るなと言ったはずだ」


「はい。聞こえてました」


「ならば——」


「聞こえた上で来ました」


 沈黙。扉の向こうから、椅子を引く音がする。足音。近づいてくる。


 扉が開いた。


 ——やつれている。


 それが最初に思ったことだ。銀色の髪は相変わらず整っているけれど、紫水晶の目の下に隈がある。頬が少し痩せた気がする。インクの匂いが濃い。ずっと書き物をしていたのだろう。


 ルシアンの目が俺を射抜く。怒りじゃない。もっと厄介なもの——期待を殺した諦めの目。


「何の用だ。筋書きの続きを実行しに来たか」


「筋書きは捨てました」


 ルシアンの目が微かに揺れる。ほんの一瞬、睫毛が震えるみたいな小さな動き。


「……何?」


「ゲームの知識は、もう使いません。使えないんじゃなくて、使わないと決めました」


 俺は真っ直ぐ殿下の目を見た。心臓がうるさい。膝がちょっと笑っている。でも視線は逸らさない。


「では、何のために来た」


 来た。この質問。


 あの日——初めてこの部屋に呼ばれた日。殿下は同じことを聞いた。


 「なぜ俺のそばにいる」


 あのとき俺は答えた。「取り巻きですから」と。嘘じゃなかった。でも全部でもなかった。


 今日は、全部言う。


「俺がそうしたいからです」


 ルシアンが固まった。文字通り、動きが止まる。まばたきすら忘れたみたいに。


「殿下のそばにいたいから来ました。ゲームも攻略も関係ない。俺が、そうしたいから」


 言い切った。声が震えていないことだけが奇跡。


 沈黙が落ちる。廊下の空気が冷たく肌を刺す。遠くで鳥の声がする。


 ルシアンが口を開きかけ、閉じた。開きかけ、また閉じる。何か言おうとして、言葉を探しているのが分かる。


 この人はきっと、こういう言葉をかけられた経験がない。九年間、誰も「そばにいたい」なんて言ってこなかったのだ。だから受け取り方が分からない。処理が追いつかない。


 それは、ルシアンの瞳に浮かんだ光で分かった。怒りでも拒絶でもない、もっと柔らかくて危ういもの。揺れている。


「……理由がないなら、信じようがない」


 ルシアンの声が低い。でもさっきまでの刃物みたいな冷たさは消えている。


「理由ならあります。殿下が庭で猫に餌をやっているのを見ました。殿下が俺にだけ見せてくれた詩集のこと、覚えています。殿下が笑ったとき——」


「やめろ」


 遮られた。でも怒声じゃない。照れ隠しに近い響き。


「そういうことを——並べ立てるな」


「いや全部事実なんですけど」


「事実かどうかの問題ではない」


「じゃあ何の問題なんですか」


「……お前は、本当に読めない男だ」


 ルシアンが片手で額を押さえる。整った顔に困惑が浮かんでいる。「凍った王子」の仮面が完全にズレている。


 あ、これ知ってる。前世の上司が「お前の提案は予想外すぎて対応できない」と言ったときと同じ顔だ。想定外のことを言われて処理落ちしている顔。


「殿下、いま処理落ちしてません?」


「……何の話だ」


「いえ、こっちの話です」


 ルシアンが俺を見る。怒りではない。戸惑いでもない。


 名前のつけられない表情。


「入れとは言っていない」


「はい」


「帰れとも——」


 ルシアンが言葉を切った。視線を逸らして、窓の外を見る。耳の先が、ほんの少し赤い。


 ——え、いま耳赤くなかった?


 見間違いかもしれない。夕陽の加減かもしれない。でも確かに、あの白い耳の先端がうっすら色づいていた。凍った王子の、耳が赤い。情報量が多すぎて俺の方が処理落ちしそうである。


「……今日のところは、好きにしろ」


 それは「入れ」でも「帰れ」でもなかった。でも、扉が閉まらなかった。


 ルシアンは背を向けて執務机に戻っていく。その歩き方がいつもより少しだけ速い。逃げているわけじゃないだろうが、間合いを取りたい人間の歩き方だ。前世の合コンで、いきなり告白されて困った女性が席を立つときの動きに似ている——いや、その例えは殿下に失礼すぎる。


 俺はその背中を見ながら、一歩だけ部屋に足を踏み入れる。


 机の上に詩集が開いてある。殿下が一人で読んでいたのだろう。その横に、小皿が置いてある。干し肉が数切れ。


 猫の餌だ。


 まだ庭に、行っていたのか。


 何かが胸の奥で軋む。泣きそうになるのを全力で堪える。ここで泣いたら台無しだ。感動シーンじゃない。俺はまだ何もしていない。ただ扉が閉まらなかっただけ。


 でも——それだけで十分だった。今日は、それだけでいい。


「殿下。一つだけ聞いていいですか」


「なんだ」


「今日の猫の餌やり、俺も行っていいですか」


 ルシアンがペンを止めた。こちらを見ないまま、小さく息を吐く。


「……勝手にしろ」


 それは「いい」という意味だと、俺はもう知っている。


 殿下の「勝手にしろ」辞典があったら、かなりの厚みになるはずだ。「勝手にしろ(許可)」「勝手にしろ(照れ隠し)」「勝手にしろ(本気で怒ってる)」。今のは間違いなく二番目。声のトーンが半音高い。


 俺は部屋の隅の椅子に腰を下ろして、殿下が書き物をする横顔を眺める。ペン先が紙を走る音だけが響く静かな時間。


 筋書きがあった頃は、この時間にも「次の手」を考えていた。殿下の好感度がいくつ上がったか、次にどのイベントが来るか。


 今は何も考えていない。ただ、ここにいる。


 窓の外で鳥が鳴いている。殿下のペンが止まって、またすぐに動き出す。干し肉の塩気の混じった匂いが鼻をかすめる。


 ——悪くない。筋書きのない時間も、悪くない。


次話:「善人の仮面の裏」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ