第21話「筋書きのない朝」
目が覚めて、天蓋を見上げる。藍色の布地に銀糸のヒースガルド家紋。もう見慣れた景色。
いつもならここで考える。「今日の筋書きは——」と。殿下の好感度を上げるための行動リスト。フィオーレとの接触をどう誘導するか。レオンの敵意をどう逸らすか。全部、ゲームの知識に基づいた段取り。
やめよう。
そう決めた途端、頭の中が空っぽになる。
筋書きなし。前世の知識なし。ゲーム攻略のカンニングペーパーなし。
残るのは——二十八歳まで毎日終電に揺られていた元サラリーマンの魂、ただそれだけ。
「……何ができるんだ、俺」
枕に顔を埋める。リネンの匂いが鼻をくすぐる。洗いたてのこの匂いだけは、前世のアパートと変わらない。
ゲーム知識がなくなった俺に残っているスキルを棚卸ししてみる。
エクセル。パワーポイント。ビジネスメールの定型文。上司の機嫌を察知する能力。飲み会の幹事力。
全部使えない。異世界にエクセルはない。
ステータス画面があったら見てみたい。きっとこうだ。
【名前:ハルト・ヒースガルド】
【称号:元社畜】
【スキル:報連相Lv.5、議事録作成Lv.4、上司の顔色察知Lv.MAX】
【特技:飲み会の店選び】
【備考:戦闘力ゼロ。魔力ゼロ。政治力ゼロ。コミュ力だけで異世界を生き抜こうとしている】
泣きたくなるほど弱い。RPGなら初期村の村人Aより使えないスペックである。
「サラリーマンスキルで王子を攻略するのか……?」
いや、攻略って言い方がもうダメなのだ。殿下は攻略対象じゃない。ゲームのキャラクターでもない。あの冷たい目の奥で、九年間ひとりで耐えてきた生身の人間。
ベッドから体を起こす。朝の空気が頬に触れる。窓から差すのとは違う、室内にこもった夜の名残のような冷たさ。
着替えようとして、クローゼットの前で固まる。
筋書きがあった頃は、服装すら計算していた。「今日は殿下と図書室に行くからフォーマル寄りで」とか「レオンと鉢合わせる可能性があるから目立たない色で」とか。まるで営業先に合わせてネクタイを選ぶサラリーマン。
今日は——何を着ればいい?
クローゼットの中身を眺める。どれを着ても「もう来るな」と言われた相手のところに行く服であることに変わりはない。前世で言うなら、取引先に出禁を食らった営業マンが手土産もなしに再訪するようなものだ。
服装で解決する問題じゃない。分かっている。分かっているが、他にやることがないのだ。
「……前世の就活のときもこうだったな」
面接用のスーツを三十分かけて選んで、結局どれ着ても同じだと気づいた朝を思い出す。あの日もこんな感じだった。問題は服じゃなくて中身。中身が空っぽなのに外見を気にしても仕方ない。
適当に制服を取って袖を通しながら、フィオーレに言われたことを思い出す。
「攻略とか関係なく、言いたいことを言えばいいんじゃないですか」
言いたいこと。
俺がルシアンに言いたいこと。筋書きも、処刑回避も、好感度も関係なく。
——あんたのそばにいたい。
それだけだ。理由なんかない。処刑が怖いから近づいたのは事実。ゲーム知識で行動を計算していたのも事実。でも、庭で猫に餌をやるあの横顔を見てから、殿下が俺にだけ笑ってくれたあの瞬間から、「死にたくない」と「この人のそばにいたい」は別物になっていた。
気づくのが遅すぎた。
いや、気づいていたのに認めたくなかっただけかもしれない。認めたら筋書きが崩れるから。俺自身が、筋書きに縛られていたのだ。
制服のボタンを一つずつ留める。鏡に映る自分の顔を見て、思わず口の端が引きつる。
目の下に隈。寝癖。覚悟を決めた男の顔——には程遠い。前世の月曜朝、満員電車に揺られるサラリーマンと大差ない顔がそこにある。
「この顔で『そばにいたい』って言うのか……」
せめて顔を洗おう。最低限の身だしなみは社会人のマナーだ——って、ここ異世界だけど。
洗面台の冷たい水で顔を叩く。水の冷たさで目が覚めて、ちょっとだけ覚悟が固まる。不思議なものだ。筋書きを捨てた途端、足元がぐらぐらするかと思ったのに。逆だ。地面がちゃんとある。自分の足で立っている感触がある。
前世で仕事が辛かったとき、転職を決意した朝にも似ている。退路を断ったほうが頭が冴えるタイプなのかもしれない。それはもう性格だから仕方がない。
廊下に出る。東棟に向かう足取りは軽い——とは言わない。正直めちゃくちゃ怖い。「もう来るな」と言われた相手のところにノコノコ行くのだ。頭では覚悟を決めていても、胃のあたりがキリキリする。
前世なら胃薬を飲むところだが、異世界に胃薬はない。ポーションならあるかもしれないが、「胃痛に効くポーション」は聞いたことがない。需要はあると思う。
すれ違う学生が二人、俺を見て顔を背けた。
「あれ、まだ殿下のところに通ってるの?」
「やめときなさいよ、呪われるわよ」
聞こえてますけど。前と同じヒソヒソ。でも今日は気にならない。気にしている余裕がないだけかもしれないが。
というか「呪われる」って何。殿下は呪術師じゃなくて王子である。猫に餌をやる王子である。
東棟への渡り廊下を歩く。人の気配がない。いつも通りの、切り離された空間。
でも——あれ?
足を止める。渡り廊下の柱の根元に、小さな花が咲いている。名前は知らない。白くて小さくて、誰かが植えたんじゃなく勝手に生えた感じの、雑草みたいな花。
こんなの前からあったか?
あったかもしれない。筋書きばかり見ていた俺の目に、入っていなかっただけで。
膝を折って、花を見る。白い花弁が朝の光を受けて、かすかに透けている。
筋書きなしで世界を見ると、こういうものが目に入るらしい。
ゲーム画面にはマップとクエストマーカーしか映らない。でも実際にフィールドを歩いてみれば、道端の花だって目に入る。当たり前のことに気づくのに、ずいぶん時間がかかってしまった。
「……上等だ」
立ち上がる。膝を払って、東棟の扉に手をかけた。
処刑回避の取り巻きは、今日で終わり。
明日からの俺は——いや、今日からの俺は、ただのハルト・ヒースガルドだ。サラリーマンスキルしか持っていない、どこにでもいる凡人。
でも、凡人には凡人の意地がある。前世の上司に「お前の取り柄はしつこいところだけだな」と言われた、その取り柄を今日は全力で発揮してやる。
扉を押し開けた。
次話:「俺がそうしたいから」




