第20話「【Side:ルシアン】猫だけの庭」
ルシアン・ヴァルトシュタインの庭に、あの男がいない。
当然だ。俺が「もう来るな」と言ったのだから。言った通りにしているだけ。正しい行動だ。俺の命令に従っている。取り巻きとして——。
取り巻き。
その言葉が、妙に引っかかる。
壁際のベンチに座ると、膝の上に重みが乗った。灰色の猫だ。庭に住みついている野良で、名前はつけていない。名前をつけると情が移る。情が移ると、失ったときに面倒だ。
猫は俺の膝の上で丸くなり、喉を鳴らし始める。
温かい。
この庭は誰も来ない。王宮の一角にある、手入れの行き届かない裏庭。雑草が繁茂し、壊れかけの噴水から水が細く流れている。母が生きていた頃は薔薇が咲いていたと、庭師が言っていた。今は蔦だけが壁を這っている。
ここは俺だけの場所だった。母がいなくなってから、誰も手入れしなくなった庭。宮廷の人間は近づかないし、庭師もこの区画を避ける。「呪われた王妃の庭」だと、誰かが言い始めてからだ。呪いなどない。薔薇が枯れて、手入れする人間がいなくなっただけだ。
——違う。いつの間にか、あの男も来るようになっていた。
猫の背を撫でる。毛の下に骨の形が分かる。もう少し太らせた方がいい。餌を増やすべきか。
……餌の量を気にしている場合じゃない。
ハルト・ヒースガルド。あいつは、筋書きを知っていた。
俺の周囲で起きることを、先回りして処理していた。レオンとの衝突を避けさせ、フィオーレの行動を変え、俺に気づかれないように「良い結果」を積み上げていた。全部、計算ずくだ。
最初から——俺を、ある方向に動かすために。
母を殺した連中と、何が違う。
あの連中も「国のため」と言っていた。王妃を排除することが国益だと。正しいことをしている顔で、母を処刑台に送った。
俺の周りにいる人間は、いつだってそうだ。「お前のため」と言いながら、自分の都合で俺を動かす。ギルバートも。宮廷の大臣たちも。学園の教師も。
ハルトも——。
猫が身じろぎする。爪が太腿にちくりと食い込む。
「痛い」
声に出してから、自分が声を出したことに驚く。この庭では独り言が増える。話す相手が猫しかいないから。
……あいつがいた頃は、違った。
あの男は無駄に喋る。紅茶を淹れながら天気の話をし、報告書を整理しながらくだらない質問をしてくる。「殿下は甘いものは好きですか」「殿下、昨日の夕焼けが綺麗でしたよ」「殿下、猫の名前つけないんですか」。
うるさかった。朝から晩まで、黙っている時間の方が短い男だ。報告書を渡すときですら「殿下、これ三枚目の数字おかしくないですか」と余計なことを言う。おかしかった。確かにおかしかったが、それを指摘する取り巻きが他にいるか。
でもあの声がない執務室は、妙に広い。机の上の紅茶が冷めても、淹れ直してくれる人間がいない。自分で淹れればいいのだが、あいつの淹れ方——少しだけ蒸らし時間を長くとる癖——に慣れてしまった体が、別の味を受け付けない。
くだらない。
人を動かしていた人間の淹れた茶の温度を、体が覚えている。
猫の喉がごろごろ鳴っている。この獣は何も企まない。餌をくれる人間のそばにいるだけ。見返りを求めない。裏切りもしない。
——あいつも、そうだと思っていた。餌はくれないが、茶をくれた。見返りを求めない——わけではなかったのだ。
違ったのだ。
あいつは最初から、何かを知っていて、その知識で俺の周囲を操作していた。「取り巻きですから」と言いながら、取り巻き以上のことをしていた。
なぜ。何のために。
分かっている。本当は分かっている。あいつが俺を害そうとしていたわけではないことくらい。あいつの行動の全てが、俺を守る方向に向いていたことくらい。
でも——。
「守る」と「操る」の境界線は、守られる側から見えない。
母を処刑した連中だって、「国を守っていた」のだから。
風が庭を吹き抜ける。蔦の葉がざわめき、噴水の水が揺れる。
猫が顔を上げて、庭の入口を見た。誰もいない。当然だ。この庭に来る人間は——もういない。
猫は再び俺の膝に頭を戻し、目を閉じた。
暖かい毛の塊が呼吸のたびに膨らみ、縮む。
あの男がいなくなっても、猫はここにいる。猫はいつも通りだ。何も変わらない。俺も何も変わらない。元々一人だったのだから。
元々——。
風が変わる。冬の匂いが混じり始めている。秋の終わりの、少し乾いた土の匂い。あいつが「殿下、季節が変わりますね」と言いそうな風だ。
言わない。もう言わないのだ。俺が追い出したのだから。
猫を撫でる手が、止まる。
……信じたかった。
あの男のことを。筋書きだの操作だの、そんなものがなくても——あいつが俺のそばにいるのは、そうしたいからだと。理由なんかなくても。
信じたかっただけだ。
猫が細い声で鳴く。腹が減ったのだろう。餌を取りに行かなければ。
「待っていろ」
膝の上の猫を下ろして立ち上がる。猫はベンチの上に座り直し、丸い目で俺を見上げている。
「——お前は逃げないな」
猫が瞬きをする。
返事の代わりに、もう一度鳴いた。
俺はその声に何かを返しそうになって、やめて、庭を出た。
振り返ると、猫がベンチの上で毛繕いを始めていた。俺がいてもいなくても変わらない。それでいい。それがいい。
途中で立ち止まる。棚の上に、詩集が一冊残っている。先週、あいつがどこからか見つけてきた古い詩集。「殿下、この詩人お好きかなと思って」と差し出してきたものだ。好きだった。好きな詩人だった。なぜそれを知っている——と訊く前に、あいつは笑って「勘です」と言った。
勘ではなかっただろう。筋書きに書いてあったのだ。俺の好きなものまで。
詩集の背表紙に触れる。革の手触りが指先に残る。
——ただ、あの男がいた頃の庭の方が、少し狭く感じていたことだけは、認めてもいい。
次話:「筋書きのない朝」




