第19話「人を動かしていた」
殿下に拒絶されて五日。
俺は学園の渡り廊下のベンチに座って、中庭を眺めていた。噴水の水音が一定のリズムで繰り返される。前世なら昼休みのオフィスでぼんやりコンビニおにぎりを齧っていた時間帯だ。あの頃は「仕事がつらい」が最大の悩みだった。今は「異世界で王子の信頼を粉々にした」が最大の悩みになっている。スケールが違いすぎる。
殿下の「もう来るな」が、五日経っても耳の奥で反響している。
考えるな——と思っても、考えてしまう。
俺は何をしていた?
転生してからの自分の行動を、順番に辿り直す。
ゲーム知識で殿下の好感度を上げるために動いた。猫の餌を持って庭に行った。レオンとの接触を避けさせた。フィオーレの行動を軌道修正した。全部、ゲームのイベントフラグを知っていたからできたこと。
「攻略」と言えば聞こえはいい。
でも冷静に考えれば、俺がやっていたのは——人を、自分の思い通りに動かそうとしていたことと何が違う?
殿下の好感度を上げる。フィオーレの行動を変える。レオンとの衝突を回避する。全部、俺の計算の中にある。俺が描いた「理想の展開」に、周囲の人間を嵌め込んでいく作業だ。
RPGの攻略と同じ感覚でやっていた。
NPCじゃないのに。
この世界の人間には、全員に感情がある。意志がある。自分の人生を生きている。なのに俺は、ゲーム知識というチートで、その人生に勝手に手を突っ込んでいた。
レオンの「盲従だ」という言葉が蘇る。殿下の「利用する側の人間か」という声が重なる。
二人とも、正しい。
「ハルトさん?」
顔を上げると、フィオーレが立っていた。教科書を抱えて、小首を傾げている。男爵家の令嬢らしい控えめな佇まいだが、その目だけは遠慮なくこちらを覗き込んでくる。
「あ、フィオーレさん。どうしました」
「最近、ルシアン殿下のお側にいらっしゃいませんよね。何かありました?」
ヒロイン、直球すぎる。
「ちょっと——事情がありまして」
「喧嘩ですか?」
「いえ、喧嘩というか——俺が殿下の信頼を壊した、というか」
自分で言って、胸が軋む。壊した。そう、壊したのだ。
フィオーレがベンチの隣に座る。教科書を膝の上に置いて、俺をじっと見ている。花壇の百合の匂いが風に乗って流れてくる。甘くて、少し重たい香り。
「ハルトさんは、殿下のことが心配なんですよね」
「……はい」
「殿下を守りたくて、いろいろ先回りして動いていたんですよね」
「それは——そうなんですけど」
「でもそれが、殿下を自分の思い通りに動かしているように見えてしまった?」
見透かされている。ヒロインの洞察力、ゲームでも高かったけど、生身だとさらに容赦ない。
「フィオーレさん。俺がやっていたことって——攻略とか、筋書きとか、そういう計算ずくの行動なんです。殿下のためと言いながら、全部俺の計画通りに物事を進めようとしていた。それは——」
「操作、ということですか?」
その単語を他人の口から聞くと、余計にこたえる。
「はい」
フィオーレが噴水を見つめる。水しぶきが細かく散って、午後の光に虹が架かっている。
「ハルトさん。一つ訊いてもいいですか」
「はい」
「殿下のことが心配なのは、計算ですか?」
「え?」
「殿下のそばにいたいのは、筋書きに書いてあったからですか。それとも、ハルトさんが自分でそう思っているんですか」
言葉が詰まる。
計算で始まった。処刑エンドを回避するために。自分が死にたくなかったから。
でも——。
殿下が猫を撫でるとき、指先がかすかに震えていたこと。初めて笑ったとき、自分でも驚いたように目を瞬かせていたこと。紅茶を「まとも」と評価してくれたときの、ほんの少しだけ和らいだ声。
あれを見たとき、俺の胸が締めつけられたのは——計算じゃない。
「計算じゃ、ないです」
「でしたら」
フィオーレが微笑む。春の花みたいな、あったかい笑顔。
「攻略とか筋書きとか関係なく、そう言えばいいんじゃないですか? 殿下に」
まっすぐだ。この子は。
乙女ゲームのヒロインってこうだった。理屈じゃなくて、感情の正解をまっすぐ言い当てる。攻略対象を落とすのではなく、攻略対象の本音を引き出す存在。
「……ヒロイン、まっすぐすぎて眩しい」
「ヒロイン?」
「あ、いえ。なんでもないです」
フィオーレが不思議そうに首を傾げている。ゲーム用語を口走るのは危険だ。学習しろ、俺。
「でも——殿下にもう来るなと言われたんです。俺が行っても」
「言われたなら、行かなくていいんですか?」
「え」
「『もう来るな』って言われて、本当に行かないのが正解なんですか? それは殿下の本心なんですか?」
フィオーレの目が、まっすぐ俺を射抜く。
レオンとは違う種類のまっすぐさ。レオンは正義でまっすぐ。フィオーレは感情でまっすぐ。どっちも眩しくて直視できない。
「殿下は、裏切られるのが怖い人ですよね。でも『もう来るな』って言えるのは——来てほしいと思ったことがある人だけだと、私は思います」
その言葉が、渡り廊下の静かな空気の中に落ちる。噴水の水音が、ぽたぽたと句読点を打つように響く。
来てほしいと思ったことがある人だけが、「もう来るな」と言える。
……そうか。
俺は立ち上がる。何かが胸の中で動き始めている。答えはまだ見えない。でも——動かなきゃいけないことだけは分かった。
「フィオーレさん。ありがとうございます」
「頑張ってください、ハルトさん。殿下は——一人にしておくには、もったいない人ですから」
ヒロインが去っていく。教科書を抱え直して、百合の花壇の脇を通り過ぎる。
俺はベンチに座り直して、空を見上げた。
筋書きを捨てよう。
ゲーム知識で人を動かすのは、もう終わりだ。次に殿下の前に立つときは——「攻略」じゃなくて、俺自身の言葉で。
問題は、殿下が聞いてくれるかどうか。
でも、そこから先は——俺の「筋書き」じゃ決められない。
次話:「【Side:ルシアン】猫だけの庭」




