第18話「信じたかっただけか」
三日間、殿下が俺を見なかった。
執務室に行けば仕事はある。紅茶を淹れれば飲んでくれる。報告書を渡せば受け取る。でも——目を合わせない。声をかけても、返事は最低限の単語だけ。
冷たいのではない。意図的に俺を視界から外している。
紅茶を淹れても「温度が違う」と言われない日々は、思ったより堪える。正確には、文句を言ってくれる人がいないのだ。前世なら「上司がいない日は天国」だったのに、この世界では殿下がいない日が一番きつい。成長したのか退化したのか。
三日目の夕方、殿下から召喚があった。
場所は、庭に面した小部屋。猫に餌をやるときに使う、殿下だけの秘密の部屋——だったはずの場所。俺が勝手に出入りするようになって、二人の秘密の部屋になっていた。窓から庭が見えるけれど、今日は猫の姿がない。花の匂いもしない。季節が変わりかけている。
ルシアンは窓に背を向けて立っていた。逆光で表情が読めない。腕を組み、壁にもたれている。
「座れ」
「はい」
椅子に座る。殿下は立ったまま。意図的に見下ろす位置取りだ。尋問の構図を作っている。
「三日、考えた」
ルシアンの声が低く響く。
「お前の行動を、最初から辿り直した。出会いの日から今日までの全てを」
胃が縮む。
「最初の日、お前は俺に会ったとき動揺していなかった。王子への謁見で緊張する人間は多いが、お前は違った。怯えてはいた——だが驚いてはいなかった。まるで俺がどういう人間か、会う前から知っていたかのように」
そうだ。ゲームで何百回もルシアンの立ち絵を見ていたのだから、驚くはずがない。むしろ「あ、立ち絵より美形だな」とか余裕のある感想を持っていた記憶がある。我ながら肝が据わっていたのか、単に馬鹿だったのか。
「猫のことも、そうだ。俺が庭で猫に餌をやっていることは、誰にも話していない。だがお前は、あの日『偶然通りかかった』と言いながら——猫用の餌を持っていた」
……あれ。持ってた。ゲームで「ルシアンは庭の猫と親しい」という情報を知っていたから、仲良くなるきっかけになると思って用意したのだ。完全に計画的犯行である。
「それだけではない。フィオーレへの対応。レオンとの接触回避。ナシェルの研究への言及。全て、お前は俺の周囲で起きることを——事前に知っていた」
全部。全部見抜かれている。
「ルシアン殿下——」
「黙れ」
声が、斬りつけるように鋭い。
ルシアンが壁から離れて、俺の正面に立つ。逆光が消え、顔が見える。
怒り——ではなかった。
もっと深い場所を抉られた人間の顔。
「お前は最初から、この世界の筋書きを知っていたのか」
否定できない。
「全部知っていて——俺に近づいたのか」
否定——。
「全部知っていて、俺を——」
ルシアンの声が揺れる。初めて聞く揺れ方。
「——操っていたのか」
沈黙が落ちる。
窓の外で風が枝を揺らす音がする。葉擦れが、この部屋の静寂をかえって際立たせている。
「操って、なんかいません」
声が掠れる。喉の奥が渇いている。唇を噛む。自分の唇の味がする。鉄っぽい、情けない味。
「殿下のためにやっていたんです。殿下の——」
「俺のため?」
ルシアンの唇が歪む。笑みではない。嘲りですらない。もっとひどい何かだ。
「俺のために筋書き通りに俺を動かしていた? 俺のために俺の行動を予測して、思い通りの場所に誘導していた?」
「違——」
「それを世間では何と呼ぶか、知っているか」
分かっている。分かっているから否定の言葉が出てこない。
「お前も結局——」
ルシアンの目が、光を失う。
「俺を利用する側の人間か」
言葉が胸に刺さったまま抜けない。
違う。利用なんかしていない。殿下を守りたくて——処刑エンドから救いたくて——。
でもそれは、俺の都合だ。
俺がこの世界で生き残るために。俺が処刑されないために。殿下の好感度を上げることが、俺の生存条件だったから。
動機がどうであれ、やったことは同じだ。ゲーム知識で人間を動かした。攻略対象を効率よく攻略するために、最適解を選び続けた。その最適解の中に、殿下の意志は入っていなかった。
「……もう来るな」
ルシアンが窓を向く。背中が、壁のように硬い。
「殿下」
「聞こえなかったか。もう来るなと言っている」
「殿下、俺は——」
「お前がいると」
ルシアンの声が、かすかに震える。視線が俺から外れ、窓の外——猫のいない庭を見ている。
「——誰を信じていいか分からなくなる」
その一言で、俺の足が止まる。
誰を信じていいか分からない。八歳で母を奪われ、宮廷の全員に背を向けられた少年が、やっと一人だけ——ほんの少しだけ信じかけていた人間が、筋書きで自分を動かしていた。
反論できない。
立ち上がろうとして、足がもつれる。膝が椅子の脚に当たり、鈍い痛みが走る。その痛みのおかげで、かろうじて体が動く。
一礼する。顔を上げられない。上げたら殿下の顔を見てしまう。見たら——何か、取り返しのつかないことを言ってしまいそうだ。
部屋を出る。
廊下に出た途端、膝から力が抜けそうになる。壁に手をついて、息を吐く。指先が冷えている。殿下と同じくらい冷たい。壁の漆喰がざらりと掌に触れる。この感触が現実だと教えてくれている。
最悪のバッドエンドルートに入った気がする。攻略wikiなら「この選択肢でフラグが折れます。セーブポイントに戻ってやり直してください」と注意書きがつくやつ。
問題は——セーブデータが存在しないことだ。
この世界にリセットボタンはない。コンティニューもない。課金で石を割って体力を回復する方法もない。
前世で「ゲームなんて所詮データだ」と思っていたことを、今さら後悔している。データの向こう側に、こんな顔をする人間がいるとは知らなかった。
ルシアンの「もう来るな」が、耳から離れない。あの声の震えが、離れない。
次話:「人を動かしていた」




