第16話「本当に悪役か」
レオンとの対話から三日。俺は殿下の執務室で、紅茶を淹れながら考えていた。
殿下は窓際の机で報告書を読んでいる。ペンを走らせる音。インクの微かな匂い。紅茶の湯気が机上の書類を避けるように漂って、窓からの光に白く透ける。
悪役王子ルシアン・ヴァルトシュタイン。
ゲーム『蒼穹のエトワール』では、こいつは明確に「悪役」として設計されていた。ヒロインを虐げ、学園を恐怖で支配し、最終的には断罪される存在。それが筋書きだ。
でも——目の前のこの人は。
「殿下、紅茶です」
「ああ」
ルシアンが顔を上げずに手を伸ばす。カップを受け取るとき、指先がほんの一瞬俺の指に触れた。冷たい。相変わらず氷みたいな手だ。
「殿下、手が冷えてませんか」
「冷えていない」
「いや、今触ったんで分かるんですけど。冷たかったですよ」
「……黙って淹れろ」
ほら。
「黙って淹れろ」であって、「黙れ」じゃないのだ。この人は「出ていけ」とは言うが、「俺の紅茶を淹れるな」とは言わない。拒絶の仕方が、いちいち中途半端に優しい。
悪役って、こうだっけ?
俺はソファに座って、頭の中でゲームの記憶を引っ張り出す。
ルシアンの悪行リスト。ゲーム内で描写されていたもの——ヒロインへの冷遇、学園内での威圧、教師への不遜な態度。しかし思い返せば、「ルシアンが直接暴力を振るった」シーンは一つもなかった。全部、周囲の証言と評判だけだ。
「凍った王子」という異名がつく前の、八歳の少年がいたはずだ。母親を目の前で奪われて、宮廷から「裏切り者の血筋」と指さされ続けた子供。
ゲームでは、その背景はルシアンルートでしか掘り下げられない。他のルートでは「悪役」というラベルだけが貼られて、プレイヤーはそのラベルを疑う機会がない。
俺もそうだった。前世では「ルシアンルートはめんどくさい」と途中で投げて、レオンルートばっかり周回していた。隠しルートの攻略情報を漁ることもなく、ルシアンは「倒すべき悪役」のまま記憶に残っていた。
攻略wikiにも「ルシアンルートは心が折れる。好感度が全然上がらない。イベント回収率100%にするためだけにやった」というレビューが並んでいたのを覚えている。あの頃の俺は「分かる〜」とか呑気にいいねを押していた。今なら分かる。好感度が上がらないのは、バグじゃなくて——あの人が、そういう人生を送ってきたからだ。
でも今、俺はこの人のそばにいる。
「殿下」
「なんだ」
「殿下って、昔は何が好きだったんですか」
ペンが止まる。
ルシアンの目が報告書から離れて、俺を見る。「何を聞いている」と言いたげな、怪訝な目。
「いきなり何の話だ」
「いや、殿下のことをもっと知りたいなと思いまして」
「……取り巻きの仕事にそれは含まれていない」
「取り巻きだからこそ知りたいんですよ。殿下が何を好きで、何が嫌いで——」
「必要ない」
ルシアンの声が硬くなる。でも、怒りとは違う。何かを、遮断しようとしている。
「昔の話をする意味はない。今の俺に、好き嫌いは不要だ」
好き嫌いは不要。
それは嘘だ。庭の猫に餌をやるとき、殿下は好きで撫でているのだから。報告書を読むとき、詩集だけ別の棚に丁寧に並べているのだから。
ゲームの設定では「冷酷」。でも目の前のルシアンは、冷酷を演じている人間に見える。本当に冷酷な人間は、演じる必要がない。
「殿下」
「もういい。仕事に戻れ」
はい、と返事をして、俺は自分の席に戻る。
……いや待て。今の会話、殿下は「好き嫌いは不要」と言ったが、その直前に「昔の話をする意味はない」とも言った。つまり「昔は好き嫌いがあった」ということだ。過去形で否定するのは、現在の自分が別人になったと思いたいから。本当に興味がなければ「昔から不要だ」と言うはず。
取り巻き歴数か月で殿下の発言パターンを解析し始めている俺も大概だが、営業職の前世スキルがこんなところで役に立つとは思わなかった。
報告書の整理をしながら、頭の中はぐるぐる回っている。
ゲームの「悪役」設定と、目の前のルシアン・ヴァルトシュタインが噛み合わない。
設定上は悪。だけど俺が見ているこの人には、悪の要素がどこにもない。冷たく振る舞っているのは「そうするしかなかった」からだ。八歳で母を失い、味方ゼロの宮廷で生き延びるには、全員を遠ざけるしかなかった。
レオンの言葉が蘇る。「悪を断つのが正義だ」と。
でもこの人は、悪なんかじゃない。
——だとしたら、ゲームの筋書き自体が間違っているのか?
「ハルト」
名前を呼ばれて、顔を上げる。ルシアンが紅茶のカップを掲げていた。
「……冷めている」
「あっ、すみません。淹れ直します」
「温度管理くらいまともにやれ」
カップを受け取る。殿下の指がまた冷たい。でも今度は、カップの陶器越しにかすかな体温も感じる。この人は凍りきっていない。凍ろうとしているだけだ。
新しい紅茶を淹れながら、俺は思う。
もしゲームの筋書きが「嘘」だとしたら。ルシアンが悪役に仕立て上げられているだけだとしたら。
誰が、何のために、この人を悪役にした?
湯を注ぐ。茶葉が湯の中でゆっくり開いていく。赤銅色の液体が、ポットの中で渦を描いている。
答えはまだ見えない。でも一つだけ確信していることがある。
この人の隣にいて——悪役の気配は、一度も感じたことがない。
むしろ感じるのは、孤独だ。ずっと一人で耐えてきた、途方もない孤独。
紅茶を差し出すと、ルシアンは今度は黙って受け取って、一口飲み、小さく息をついた。
「……温度は、まともだな」
殿下。あなたは紅茶の温度にうるさくて、猫を撫でる手が優しくて、詩集を大切にしていて、冷たいふりをしながら俺を追い出さない。それのどこが悪役なんだ。
ゲームの制作スタッフに文句を言いたい。キャラ設定、雑すぎませんか。
その横顔に「悪」の文字を貼り付けるには、俺はもうこの人のことを知りすぎている。
次話:「筋書きを知る者」




