第14話「俺にだけ、笑うなよ」
事件は猫のせいで起きた。
いつもの夕方、庭で殿下が猫に餌をやっている。俺は二歩後ろ——昇格した——に立って、予備の餌袋を持つ係。取り巻き業務の一環だ。
空は秋の夕暮れ。茜色の光が庭の木々を染めて、殿下の銀髪に橙の筋を落としている。猫がカリカリと乾燥餌を噛む音だけが聞こえる、穏やかな時間。
問題は、今日の猫がやたら活発だったことにある。
餌を食べ終えた猫が、急に走り出した。東屋の柱を駆け上がり、屋根の上に飛び乗って、そこから隣の木の枝に——。
枝が折れた。
猫が落ちてくる。
反射的に手を伸ばす。餌袋を投げ捨てて、落下する猫をキャッチして、そのまま勢いでバランスを崩して、後ろに尻もちをついた。背中が地面に着く寸前、猫が俺の顔の上に着地する。
肉球。
鼻の上に肉球。
柔らかくて湿った、独特の感触が顔面を押しつぶす。視界が毛皮で埋まった。猫の腹の匂い——日なたの草と、ちょっと獣くさい温かさ。
「ぶっ——」
猫が俺の顔を踏み台にして飛び降り、何事もなかったかのように毛づくろいを始める。お前いま俺の顔面を足場にしたよな。ありがとうの一言もなしか。猫だから仕方ないけど。
俺は地面に仰向けのまま、顔に猫の足跡を付けて空を見上げていた。空が茜色で、雲が流れている。とても平和な夕方だ。地面に転がっている俺を除けば。
ふ、と。
音が聞こえた。
短い、息が漏れるような音。
上体を起こして殿下を見た。
ルシアン・ヴァルトシュタインが、口元を手で押さえていた。
蒼い瞳がわずかに細められている。眉の角度がいつもと違う。吊り上がっているのではなく——下がっている。口元を覆う指の隙間から、唇の端が上がっているのが見えた。
笑っている。
殿下が、笑っている。
「……は?」
声が出た。間抜けな声だ。
「今、笑った? 殿下、今笑いましたよね?」
ルシアンの表情が瞬時に凍り直す。手を下ろし、いつもの無表情に戻る。切り替えが早い。早すぎる。
「笑っていない」
「いや笑ってた。絶対笑ってた。口元こうなってましたよ」
自分の口角を指で上げてみせる。殿下の眉がぴくりと動く。
「見間違いだ」
「見間違いじゃない。距離二歩の至近距離で見逃すわけないでしょ」
「黙れ」
「殿下が笑った。凍った王子が笑った。これ歴史的瞬間では? 学園年鑑に載せるべきでは?」
「黙れと言っている」
殿下の声にいつもの冷たさが戻る。だが耳の先が赤い。凍った王子、耳は凍らせきれていないらしい。
猫が俺と殿下の間をのんきに歩いている。お前のせいだぞ、と猫に言いたいが、猫に罪はない。いや猫のおかげだ。猫よ、ありがとう。お前には今度いい餌を買ってやる。
殿下が視線を逸らして、東屋の柱を見ている。折れた枝が地面に落ちていた。猫が飛び移ったときに折れたやつだ。殿下がそれを拾い上げて、しばらく眺めている。
「……怪我は」
えっ。
「猫を受け止めたとき、手を——」
言われて初めて気づいた。右手の甲に枝の引っかき傷がある。血は出ていないが、赤い線が走っていた。猫を掴んだときにつけたらしい。
「あ、大丈夫です。全然痛くな——」
「見せろ」
殿下が俺の手を取った。冷たい指先。でも触れ方は乱暴じゃない。猫を撫でるときと同じ、慎重な手つきだ。傷を確認して、すぐに手を離す。
「大したことはない。消毒はしておけ」
「は、はい」
手を取られた。殿下に手を取られた。三秒くらい。いや二秒か。でも確かに殿下の指が俺の手に触れていた。心臓がもう一回壊れそうになる。
「……お前の顔に、猫の足跡がついている」
「え、マジで」
袖で顔を拭う。猫の肉球の跡が泥になって頬と鼻についていたらしい。みっともない。殿下がそれを見て——。
また唇が動いた。こらえているのが分かる。笑いをこらえている。口元の筋肉が微妙に震えていて、蒼い瞳の端にかすかな光が揺れている。
「殿下、また——」
「笑っていない」
明らかに笑っていた。
心臓が暴れ出す。好感度イベントだとか処刑回避だとか、そういう計算が全部吹っ飛ぶ。
殿下の笑顔を見てしまった。凍った王子が、猫と俺のドジで口元を緩める。あの蒼い瞳から氷が溶けて、十七歳の少年が顔を覗かせた一瞬。
やばい。心臓が持たない。
「殿下」
「なんだ」
「俺にだけ笑うのやめてもらえます?」
ルシアンの眉が上がった。
「笑っていないと言っている」
「嘘をつくなと言ったのは殿下の方です」
沈黙が落ちた。
殿下と目が合う。夕日が二人の間に長い影を作っている。蒼い瞳の奥に、何か柔らかいものが一瞬だけ見える。すぐに隠された。でも確かにそこにある。溶けかけの氷の底に、温かいものが。
「……口の減らないやつだ」
ルシアンが背を向けて歩き出す。猫がその後を追いかけ、殿下の足元にまとわりつく。殿下が立ち止まって、猫を見下ろして——またほんの少しだけ、口元が緩んだ。今度は手で隠さなかった。
俺にだけ笑うなよ、殿下。
これ好感度イベントじゃなくて致死イベントなんですけど。心臓がバグってる。動悸が止まらない。前世で推しのサプライズボイスを聴いたときを超えた。あのときは「尊い」の五文字で済んだが、今は本当に胸が痛い。物理的に。
立ち上がって、服の泥を払う。膝が妙に力が入らない。餌袋を拾って、土を叩く。
殿下が庭の向こうに消えていく。銀色の髪が夕日に溶けていく。猫が殿下の足元を離れて振り返り、俺の方を見て一声鳴いた。何を言っているのかは分からないが、たぶん「ありがとう」ではない。
風が吹いて、庭の草が波打つ。青くて湿った、夕方の匂い。
俺はしばらくその場に立ち尽くしていた。
好感度を稼いでいるだけのはずだった。処刑エンドを回避するための作業。ゲーム攻略。それだけのはず。
なのに。殿下の笑顔を見て、自分の心臓が壊れそうになっている。
これはまずい。非常にまずい。
部屋に戻って、攻略メモの羊皮紙を広げた。ペンを取って、新しい項目を書こうとして——手が止まる。
好感度上昇イベント発生。笑顔確認。距離感の変化あり。
書くべき内容は分かっている。ゲーム脳は正常に機能している。
でもペンが動かない。
攻略メモに殿下の笑顔を記録するのが、なんだか違う気がした。あれはメモに書いていいものじゃない。数字で管理していいものじゃない。
ペンを置いて、天井を見上げる。
「……殿下の笑顔は反則だろ」
誰もいない部屋で呟いて、枕に顔を埋めた。
次話:「正義の剣の向く先」




