第13話「【Side:フィオーレ】不思議な取り巻き」
フィオーレ・アマリッティは、困惑していた。
王立学院に入学して二週間。授業にはなんとかついていけるようになり、食堂で一人でご飯を食べることにも慣れた。地図はまだたまに上下逆にしてしまうけれど、図書室と教室の往復くらいはできるようになっている。
困惑しているのは、一人の男子生徒のことだ。
ハルト・ヒースガルド。
下級貴族の家の出で、第一王子ルシアン殿下の側近——いわゆる「取り巻き」と呼ばれている人。
学院の生徒たちは、殿下のことを怖がっている。「凍った王子」。お母様が大罪を犯した方。近づいてはいけない人。廊下ですれ違うだけで、みんなが壁際に寄って道を開ける。
その殿下のそばにいつもいるのがハルトさんだ。
最初に会ったのは入学初日。わたしが地図を逆さまに持っていたとき、図書室の場所を教えてくれた。笑わない人だ。呆れた顔はしていたけれど、馬鹿にする感じではなく、むしろ心配しているような目をしていて。
次に助けてもらったのは魔法の実技。火球を盛大に上に飛ばしてしまったとき、殿下に叱られて泣きそうだったわたしに「俺も天井焦がしました」と言ってくれた。
あれは——たぶん嘘だ。
ハルトさんの魔法の成績は中の上で、天井を焦がすような失敗をする人には見えない。でも、あの場でわたしが必要としていた言葉をくれた。嘘だとしても、それは優しい嘘だ。
不思議なのは、そこからだ。
ハルトさんは殿下の取り巻きだ。悪役と恐れられる王子の側近。普通に考えれば、怖い人のそばにいる怖い人——のはずなのに。
全然怖くない。むしろ殿下に振り回されているように見える。
今朝もそうだった。
朝の廊下で、ハルトさんが温かい茶器を持って殿下の部屋の前をうろうろしていた。ノックしようか迷っているのか、茶器を持ったまま三歩進んで二歩下がって、また三歩進んで立ち止まる。最終的に扉の前のテーブルに茶器を置いて全速力で逃げていった。
取り巻きというより、お供え物を置いて逃げる信者みたいだ。
お昼休みの食堂でも見かけた。ハルトさんが殿下の分の食事を給仕係に頼んでいる。
「殿下は辛いものが苦手なので、香辛料抜きで——あと、デザートは果物がいいです。甘いもの好きなので——いやこれは俺の推測であって殿下が直接言ったわけでは——とにかくお願いします」
給仕係が困惑していた。わたしも困惑する。
放課後には中庭のベンチの横で風よけの布が緩んでいないか確認し、図書室では殿下が次に読みそうな本を探して棚を整理し、夕方には庭で猫の餌を準備している。全部一人で。命じられてやっているのではなく、勝手に。
なぜあの人は、あんなに必死に殿下を庇うのだろう。
取り巻きだから? それだけ?
殿下はハルトさんに対しても冷たい。わたしが見る限り、感謝の言葉を口にしたことはないし、笑顔を見せたこともない。それなのにハルトさんは毎日茶を用意し、食事を手配し、殿下の後ろを歩いている。
報われているように見えない。
でも——不幸そうにも見えないのが、もっと不思議だった。むしろ殿下が茶を飲んでくれたとき、殿下が本を手に取ったとき、ハルトさんは遠くからこっそり嬉しそうにしている。本人は隠しているつもりかもしれないが、顔に出ている。
放課後。図書室で魔法理論の参考書を探していたとき、廊下から声が聞こえた。
ハルトさんの声だ。独り言を言っている。
「好感度が……好感度がまだ足りない……」
わたしは書架の影で足を止めた。
「エルデ茶のハチミツ増量で好感度プラス1として、詩集の入れ替えがプラス0.5、風よけが……いや風よけはもう効果切れてるかもしれない。累計しても——足りない。圧倒的に足りない」
何の話をしているのだろう。
「せめて中盤までに好感度30は欲しいんだけど、今たぶん12くらい……いや10かも。殿下の好感度ゲージ長すぎるんだよ。開発に文句言いたい。運営どこだ運営」
好感度? 開発? 運営?
わたしの知らない言葉が次々と出てくる。ハルトさんは頭を抱えながら廊下を歩いていく。壁に額をつけて「しんどい」と呟いてから、気を取り直したように背筋を伸ばして歩き出した。
その背中を見送りながら、わたしは首をかしげた。
あの人は、何と戦っているのだろう。
翌日の講義中、ハルトさんを観察してみた。
殿下が窓の外を向いているとき、ハルトさんはチラチラと殿下の方を見ている。殿下がペンを置くとハルトさんも動きを止め、殿下がノートに何か書くとハルトさんが安心したように息をつく。殿下が水を飲もうとしてカップが空だと、ハルトさんが自分のカップをそっと殿下の机に置く。殿下は何も言わずにそれを飲む。
まるで殿下の一挙一動が気になって仕方ないみたいだ。
それは——怖い人に仕える恐怖からくる緊張ではない。もっと別の何か。
講義が終わって、ハルトさんが殿下に駆け寄る。
「殿下、次の講義は演習室ですけど、先に道を——」
「知っている。毎日通っている道だ」
「あ、はい。そうですよね。すみません」
「……だが」
殿下が少しだけ歩調を緩めた。
「来るなら、三歩ではなく二歩でいい」
ハルトさんの顔がぱっと明るくなった。犬が褒められたときみたいに、全身で喜んでいる。
殿下はそれを見ていない。前を向いたまま歩いている。でも——歩調を緩めたのは確かだ。待っている。ハルトさんが追いつくのを。
わたしは思う。
悪い人じゃない。ハルトさんは、絶対に悪い人じゃない。
そして殿下も——もしかしたら。
教室を出るとき、ハルトさんとすれ違った。
「あ、アマリッティ嬢。魔法の練習、進んでる?」
「少しずつ。今日は的の方向に飛ぶようになりました」
「おお、進歩だ。いいね」
普通に褒めてくれる。普通に話してくれる。殿下の取り巻きなのに、普通の人だ。
「ハルトさん」
「ん?」
「殿下のこと、好きなんですか?」
ハルトさんが盛大にむせた。
「ご、ゴホッ——なっ、何を——」
「あっ、すみません! 変なこと聞いちゃいましたか?」
「いや、好きとかそういうのじゃなくて——俺は取り巻きであって——好感度とか処刑回避とか——いやなんでもない。なんでもないです」
顔を赤くして早口でまくしたてて、ハルトさんは逃げるように去っていった。
やっぱり、不思議な人だ。
でも——嫌いじゃない。
次話:「俺にだけ、笑うなよ」




