第12話「凍りきれない指先」
その日は雨だった。
冷たい秋雨が学園の屋根を叩き、廊下の空気がじっとり重い。窓硝子に雨粒が筋を引いて、外の景色を歪ませている。
庭の猫が心配になって中庭に行くと、殿下がすでにそこにいた。
屋根のある東屋の下。ベンチに座って、膝の上の猫を撫でている。雨に濡れないよう抱え込むようにして、猫の頭をゆっくり、ゆっくりと。
俺に気づいて顔を上げた殿下の表情は、いつもの氷とは違っていた。何と言えばいいのか——遠い。目の焦点がここにない感じ。雨の向こうの、ずっと遠くを見ている目だ。
「殿下。お茶、持ってきました」
温かい茶器を差し出す。ハチミツ入りのエルデ茶。殿下のリクエスト通りの甘い一杯だ。湯気が雨の冷気に触れて、白く立ち上る。
ルシアンが茶器に手を伸ばす。
その指先が、震えていた。
かすかに。本人も気づいていないくらいわずかに。でも確かに、陶器に触れた殿下の長い指が、ふるりと揺れている。
「……今日は」
殿下が呟く。茶器を受け取って、両手で包み込むように持った。温かさを確かめるように。
「今日は、母上の命日だ」
雨音だけが東屋の屋根を叩いている。
「九年前の今日、母上は処刑された。弑逆未遂の罪で」
淡々とした声。感情を排した、報告のような言い方。でもその声は、普段の冷たさとは質が違う。冷たいのではなく、感情を込めたら壊れるから抜いている。
「俺は八つだった」
猫が殿下の腕の中で身じろぎする。
「朝、侍女に起こされて、母上の部屋に行った。扉は開いていたが、誰もいなかった。化粧台の上にブローチが一つだけ残されていた」
殿下の指が、胸元に触れる。あのブローチ——いつも身につけている、小さな銀のブローチ。
「それから誰も来なくなった。裏切り者の息子だと。父上も、兄弟も、侍従も。広い部屋に一人で——食事だけが扉の前に置かれていた。誰とも目が合わない日が、何日も」
殿下が言葉を切った。茶器を口元に運び、一口だけ飲む。ハチミツの甘さが、今この人にとってどんな味がするのだろう。
俺は黙って聞いていた。何か気の利いたことを言うべきなのかもしれない。前世のゲーム知識では、このイベントは選択肢が出るはずだ。「大丈夫ですよ」とか「お辛かったですね」とか。
でもどれも嘘くさい。八歳で母親を殺されて九年間孤立している人間に、「大丈夫」なんて言えるわけがない。大丈夫じゃない。どう見ても大丈夫じゃない。
「……殿下」
「言うな」
先を遮られた。ルシアンの蒼い瞳が俺を見る。
「慰めは不要だ。同情も。お前がよくやる——場を丸めるための嘘も、今日は聞きたくない」
嘘も見抜かれてるし、タイミングまで指定してくる。殿下のコミュニケーション能力、低いようで妙に的確だ。必要なことだけを正確に伝える。余計なものを一切受け付けない。それが九年間で身につけた、この人の防衛術。
「……じゃあ、黙って隣にいていいですか」
ルシアンが少し間を置いて、視線を猫に落とした。
「……好きにしろ」
ベンチの端に座る。殿下との間に猫一匹分の距離。近すぎず遠すぎず。
雨が降り続ける。東屋の柱を伝って雨水が流れ、足元に小さな水たまりを作っている。冷えた空気の中で、殿下が持つ茶器から湯気が細く立ち上っていた。
ルシアンの横顔を盗み見る。
銀色の髪が雨の湿気でわずかに波打っている。まつ毛が長い。鼻筋は通っていて、唇は薄く引き結ばれている。ゲームの立ち絵そのままの端正な顔だが、今は——年相応に見えた。十七歳の少年が、母を失った記憶を抱えて雨を見ている。
凍った王子。
でもその指先は、さっき震えていた。茶器の温かさを求めるように。猫の体温にすがるように。
凍りきれていないのだ。この人は、九年間ずっと凍ろうとして、凍りきれずにいる。
——やめてくれ。
心の中でツッコむ。コメディのつもりだったのに。好感度稼ぎの作戦メモを書いて、ゲーム用語で殿下を分析して、前世の推し語りのノリで乗り切ろうとしていたのに。
こっちまで目頭が熱くなるだろ。
「……ハルト」
「はい」
「なぜ泣いている」
「泣いてません」
「嘘をつくなと言っている」
「雨が目に入ったんです」
「屋根の下だ」
正論が痛い。
殿下が俺を見ている。不思議そうに。自分の話を聞いて泣く人間がいることが、信じられないという顔で。九年間、誰にも泣いてもらえなかったのだ、この人は。
「……変なやつだ」
二度目のその言葉は、前より少しだけ温度があった。
猫が殿下の腕からするりと降りて、俺の膝に乗ってきた。濡れた毛皮の匂いと、小さな体温。猫が喉を鳴らして丸くなる。
「猫にも好かれるのか。お前は」
「動物には好かれるタイプなんで」
「人間には」
「微妙です」
殿下の唇がわずかに動いた。笑ったのかどうかは分からない。でも氷の表情が一瞬だけ揺らいだのは確かだ。
雨が小降りになっていく。空の端が明るくなって、雲の切れ間から光が差し込む。
殿下が茶器を空にして、立ち上がる。猫が地面に飛び降りて、東屋の柱に体を擦りつけた。
「……茶は」
「はい」
「悪くなかった」
それだけ言って、殿下は雨の中を歩いていった。傘もなく。銀色の髪が雨に濡れていく後ろ姿を、俺はベンチから見送った。
空の茶器を手に取る。陶器がまだ温かい。
——好感度とか、そういう問題じゃなくなってきてないか、これ。
いやいや。冷静になれ。これは処刑回避ゲームだ。感情移入しすぎると判断が鈍る。前世でも推しに感情移入しすぎて課金が暴走した前科がある。
でも。
あの震えていた指先が、目の奥にこびりついて離れない。
次話:「【Side:フィオーレ】不思議な取り巻き」




