正月バレンタイン2
街が薄桃色に染まり始める、2月14日の数日前。
アオイの部屋。
アオイとユズの2人は、大きなレシピ本を机の上に広げて頭を突き合わせていた。
「やっぱり、大好きなみんなに渡すチョコだもん。本気を出したいよね……!」
「市販の板チョコを溶かすだけじゃ、気持ちが伝わらないよね!」
ユズががっしりと腕を組み、鋭い眼光をノートに向けた。
しかし、2人が大きなすり鉢で茶色いカカオ豆を力任せにすり潰し始めた、その直後。
ゴホッ、ゴホゴホッ!
部屋の空気が、一瞬にして茶色い粉末で真っ白に濁った。
床も机もカカオの粉まみれになり、2人の制服の袖が汚れに染まっていく。
さらに鍋で温めていたチョコレートは、温度の調節を誤ったのか、水分を失ってカチカチの灰色の岩のようになって固まった。
「うぅ、やっぱりカカオから作るのは無理だったよぅ……」
「市販品はダメって言った手前、どうしよう……」
アオイとユズは、シュンと肩を丸めて汚れきった手元を見つめた。
「もう……お店で高くて美味しいチョコを買って、それを交換しよっか……?」
諦めかけたアオイの肩を、ユズが手のひらでポン、と叩いた。
そのまま真面目な顔つきで、じっとアオイの瞳を覗き込む。
「アオイ、諦めたらそこで……チョコ作り終了だよ?」
「ふえっ? チョコ作り?」
「そう! 完璧じゃなくていいの。市販のチョコだって、私たちの工夫次第で最高のチョコになるよ!」
ガラッ……。
タイミングよく、部屋の引き戸が開いてコトネが顔を出した。
「おーい、二人とも何やってるの? ……って、うわ、部屋がカカオまみれじゃん」
コトネはクスッと口角を上げ、手にした紙袋を後ろに隠すようにして恥ずかしそうに視線を泳がせた。
アオイとユズも顔を見合わせ、お互いの粉だらけの鼻先を指差して小さく笑った。
放課後の台所。
ステンレスのシンクの上で、包丁がトントンと軽快な音を立てる。
アオイが市販の四角い板チョコを器用に細かく刻み、ユズはボウルを抱えて透明な生クリームを泡立て器で一生懸命にかき混ぜる。
コトネはまな板の上で、色鮮やかな赤いイチゴを一口サイズにカットしていった。
湯煎されてドロドロに溶けた黒いチョコレートに、泡立てたクリームが優しく混ざり合っていく。
オーブンの扉の隙間から、香ばしく、どこまでも甘いココアの匂いが部屋いっぱいに立ち込めた。
チン、とタイマーが鳴る。
焼き上がった丸いチョコレートケーキの形は、少しだけ左右非対称に歪んでいた。
表面に塗られたデコレーションの白いクリームも、少しだけ斜めに崩れている。
中央に置かれたこたつ。
3人は1つの大きなトレイを囲み、温かい布団の中に一斉に足を滑り込ませた。
ナイフでケーキを3つに切り分け、小さな木製のフォークを同時に口へと運ぶ。
「んん〜っ! 美味しいっ!」
「形はちょっと崩れちゃったけど、すっごく優しい味がする!」
アオイとユズが、頬を緩めて満面の笑顔を咲かせる。
コトネも嬉しそうに目を細め、白磁のカップを持ち上げて、喉を鳴らすように温かい紅茶を一口すすった。
「個別に貰ってそれぞれ自分の家で食べるのもいいけど……やっぱり、こうやって3人一緒に食べると、何倍も凄く美味しいね♪」
ハーブの香りがふわりと広がる中、3人の賑やかな笑い声が、小さな部屋の窓ガラスをいつまでも温かく震わせていた。
「うんっ! 来年も、その次の年も、ずっと一緒に食べようね!」
こたつの布団のなかで、3人の足が優しく重なり合う。
窓の外の冷たい寒風など届かない部屋のなかに、ただただ、甘くて温かいきらめきだけが静かに満ちていた。
③ バレンタイン後半
ガサゴソ。ガサゴソ。
冬の朝の冷え切った教室。
剛、賢人、刹那の3人は、自分の机の奥底へ向かって、狂ったように何度も右手を突っ込んでいた。
だが、指先に触れるのは、カサカサに乾燥して丸まったプリントの切れ端だけ。
廊下の木製の下駄箱のなかも、全員がただの『空っぽ』だった。
乾いた上履きの底が、冷たい床にむなしく響く。
「クソッ、バレンタインなんてイベント……一体どこのどいつが考えたんだよ……!」
剛が絶望の声を吐き出し、机に突っ伏した。
隣の席で、賢人がパニックを隠すように眼鏡のブリッジをクイッと指先で押し上げる。
後ろの席からは、刹那が白い包帯の巻かれた右腕を顔の前に掲げ、細めた目を泳がせた。
「フッ、諦めるな剛。まだカバンの底に……」
「ククク……我が漆黒の聖母が……」
3人が互いの乾いたサイフと手元を見つめ、声を潜めて呟き合った、その瞬間だった。
バタンッ!
「おーーーいみんな静かに〜!!」
教卓の前に立ち、大声を張り上げたのはクラスのモブ男子だった。
その横には、腕を組んで不快なニヤニヤ顔を浮かべた数人の男子たちが並んでいる。
「今から、昨日学校の片隅で剛くんが『アオイちゃんから本命チョコが欲しくてたまらない』って枕を涙で濡らしながらバレンタインを呪ってた件について、全クラスに報告しちゃうネ〜!」
「おい剛! 身の程を知れよなー! チョコメロンパンから綺麗に剥ぎ取ったこの『チョコチップ』をティッシュに集めて喜んでるお前には、これが本命チョコの代わりでお似合いなんだよぉ〜!」
モブ男子が、ポケットからしわくちゃのティッシュを引っ張り出した。
その中央に集められた、数粒の茶色いチョコのクズが、教室の蛍光灯の下で惨めにあぶり出される。
ドクン。
剛の心臓が跳ね上がり、一瞬にして顔面から血の気が引いて真っ白に染まった。
その横で、賢人と刹那も瞳の黒目を消失させ、白目を剥いて硬直した姿勢のまま、木の棒のようにその場で固まる。
パサパサッ!
その時、廊下の開いた窓のサッシに、カラフルな羽をまとったインコのボルが降り立った。
その耳元につけられた黒い無線インカムの小さなライトが、教室に響くモブ男子の大声を拾って、不穏な赤色にピカピカと明滅を始める。
『――ザザッ……こちらボル。教室内にて『剛、アオイ、チョコ、呪い』のテロの予兆を検知。対抗策として【国策チョコ大洪水配給訓練】を発動するネ!!』
インカムの雑音の直後。
ドンバババババババンッ!!!
教室の大きな窓ガラスが内側へ向かって派手に叩き割られた。
吹き飛ぶガラス破片の向こうから、凄まじい足音を響かせてトナカイやアルパカの大群が雪崩れ込んでくる。
上がる悲鳴。
獣たちの背中から、狂ったような速度で四角い板チョコの束が次々と放り投げられた。
バシバシバシバシッ!
剛、賢人、刹那の顔面や胸元に、硬い銀紙の包みが激しく激突する。
3人は床にへたり込み、ボロボロと溢れる大粒の涙を流しながら、互いのチョコレートまみれの手を固く、固く握りしめ合った。
頭上から降り注ぐ黒い壁に押し潰され、3つの影はそのまま、数千枚の板チョコの山の下へと完全に生き埋めになって消えた。
④ ケンさんのニヤニヤ煽りと、生まれて初めての『本物の殺意』
放課後。
しんと静まり返った夕暮れの廊下。
全身に甘いココアの匂いと銀紙のクズをくっつけたまま、剛、賢人、刹那の3人は、床に両膝を突いてうつむいていた。
肩が力なくすぼまり、荒い呼吸の音だけが冷たいコンクリートに響く。
カツ、カツ、カツ。
通路の奥から、硬い足音がゆっくりと近づいてきた。
3人の目の前で靴先が止まる。
長い何本もの触手を不穏にうねらせた、クラーケンのケンさんがそこに立っていた。
その斜め後ろには、腕を組んでクスクスと喉を鳴らすモブ男子たちの姿もある。
「……っで。剛くん。今日のバレンタイン、どうだったのぉ〜?」
ケンさんは上半身を低く屈め、顔を剛の鼻先へと近づけて、ねっとりとした薄笑いを浮かべた。
「おい剛、結局チョコ貰えなかったんだろ? ざまぁみろよ!」
モブ男子の一人が、剛の頭のすぐ上で指をパチンと鳴らして笑い声を上げる。
そのニヤニヤと歪んだ顔が、剛の瞳の真ん中に映り込んだ、その瞬間。
パチンッ。
剛の頭の芯で、何かが冷たく、乾いた音を立てて弾け飛んだ。
全身の毛穴が開き、冷や汗が一瞬で引いていく。
奥歯が、ギリ、と音を立てて噛み締められた。
隣に座る賢人の眼鏡の奥の瞳から、完全にすべての光が消え失せる。
刹那は包帯を巻いた右腕をダラリと下に下ろし、爪が手のひらに食い込むほどに拳を強く握りしめた。
3人は無言のまま、ただじっと目の前の冷たい床の一点を見つめ続けた。
沈黙のなかに、ドス黒い、熱いマグマのような塊が、3人の胸の底から静かにせり上がってくる。
夕暮れの赤い光が、ドロドロに汚れた3人のユニフォームの背中を、長く、重く引きずり出すように照らし出していた。




