正月バレンタイン3
全身に甘い匂いと銀紙のクズをくっつけたまま、剛は自室のベッドへと倒れ込んだ。
天井の白い木目をじっと見つめ、喉の奥から乾いた息を漏らす。
「僕はもう、誰も信じない……」
ピンポーン。
静まり返った家の中に、玄関のチャイムの音が鋭く響き渡った。
「剛、なんか可愛い女の子が来てるわよー?」
階下から響く母親の声に、剛の身体が跳ね上がった。
心臓がドクドクと狂ったように脈打ち、一瞬で顔面へカッと熱い血が上る。
剛はベッドを蹴り飛ばし、階段を一段飛ばしで駆け下りて、玄関の重い木製のドアを勢いよく引いた。
カチャリ。
冬の夜の冷たい空気の向こう。
はにかみながら、小さなリボンのついたラッピング袋を両手で差し出すアオイの姿があった。
街灯の光に照らされ、ピンクのポニーテールが揺れている。
「あの……お昼、クラスですごい騒ぎになっちゃったから……これ、受け取ってくれる? 3人で一生懸命作ったチョコレートケーキなの。これ、剛くんの分! ……あとの二つは、賢人くんと刹那くんの分! 二人の家は知らないから、剛くんから渡してほしいな、って……!」
「あ、あ、アオイちゃん……ッ!!」
視界が、急激に熱い涙で歪んでいく。
剛は喉の奥を大きく鳴らし、差し出された袋を大切そうに両手で受け取った。
「アオイちゃん、こんな夜遅くにわざわざ本当にありがとう……! 本当に、本当に嬉しいっ!!」
剛は胸を強く張り、夜の暗い道路の先へ鋭い目を向けた。
「夜だし、特区のアニマルたちも徘徊してて危ないから、僕が家まで送っていくよ!」
ザッ、ザッ、と2人の靴音が、静かなアスファルトの上に並んで響き始める。
冷たい風のなかに、あの泥だらけのグラウンドで泥を跳ね上げてベースへ滑り込んでいた時の熱い記憶が、アオイの小さな笑い声と共にフワリと蘇ってきた。
歩幅を合わせるたび、彼女の衣服から漂う甘いココアの匂いが鼻腔をくすぐり、2人の影が街灯の下で優しく重なり合っていく。
アオイの家の門扉の前。
剛はもう一度深く頭を下げ、静かに閉まるドアの音を見送った。
アオイの姿が見えなくなった直後、剛はポケットからスマートフォンをひったくるように取り出し、冷たい画面を爆速の速度で叩きつけた。
深夜。特区の街灯に照らされた、誰もいない静かな公園。
すべり台の影で、剛から茶色い包みを受け取った賢人と刹那の動きが、ピキリと凍りついた。
「ユズさんから……僕に……?」
賢人は震える指先で眼鏡を押し上げ、包み紙のシワをじっと見つめる。
「コトネの愛の結晶が……!?」
刹那は眼帯を強く押さえ、包帯を巻いた右腕を激しく小刻みに震わせた。
剛は2人の前に一歩詰め寄り、そのユニフォームの胸元を力任せに、がっしりと鷲掴みにした。
剥き出しの熱い息が、白い霧となって2人の顔面に吹きかかる。
「おい! 僕はアオイちゃんに直接お礼を言えたけど、お前らはまだ何も言ってねぇだろ! 漢なら、今すぐちゃんとお礼を伝えるべきだ!!」
「しかし剛、僕たちはLINEも電話番号も知らないんだ!」
剛はすぐさまスマートフォンを耳元に押し当て、発信ボタンを強く叩きつけた。
コール音が3回響き、スピーカーから低く、雑音混じりの声が響く。
『――あァ? なんだ剛、こんな夜中に……。何? チョコ貰ったから連絡先を教えろ? ……ククッ、お前ら最高にダサくて熱いじゃねぇか。いいぜ、ユズとコトネの番号、今送ってやるよ。漢を見せてこいネ』
ピッ。
無線の切れる電子音と共に、2人のスマートフォンの画面が、深夜の暗いベンチの上で青白く、まばゆく輝き始めた。
メッセージの通知音。
そこに、文字列となった新しい数字が、2つの瞳の真ん中にくっきりと映し出されていた
3人はそのまま一番家が近い刹那の部屋へと突撃し、賢人と刹那は震える手で初めてユズとコトネに通話をかけた。
「あ、あの! ユズさん!! ケーキ、本当に、本当にありがとうございます!!」
「コ、コトネ、本当に嬉しかった、ありがとう……ッ!!」スマートフォンの小さなスピーカーから、夜の静かな部屋に、少しだけ照れたような「どういたしまして♪」という鈴を転がすような声が返ってきた。ドクン、と2人の心臓が同時に跳ね上がる。
刹那の部屋の真ん中、3人は涙と鼻水をボタボタと畳に滴らせながら、丸いケーキを囲んで一斉に叫び声を上げた。
「俺たち、生き延びたぞォォオオ!!」フォークを狂ったように動かし、濃厚なココアの甘みを口いっぱいに放り込んでいく。
「何時だと思ってるの!!」襖が乱暴に蹴り開けられ、割れんばかりの母親の怒号が部屋の空気を一瞬で引き裂いた。剛と賢人は襟元をがっしりと掴まれ、夜の住宅街のなか、激しくペダルが立ち漕ぎされるママチャリの後ろへ、魂の抜けた白目のまま次々と連行されていく。
ガタガタとチェーンの音だけが、冷たい夜風のなかに虚しく響き渡っていた。
だが、それぞれの家のベッドに回収され、天井の暗闇を見つめる3人の胸の奥には、確かな熱い塊が残り続けていた。
⑥ヘタレ3人組の魂の4連撃とケンさんの末路翌日の朝。
剛、賢人、刹那の3人は、顎を天に向けて突き出し、ふんぞり返った胸を大きく張って、最高に引きつったドヤ顔で廊下を闊歩していた。
昨日とは違う、世界がギラギラと眩しい極彩色に見える。
ガラッ……!教室の木製の扉を勢いよく開けた、まさにその瞬間だった。
教卓の前。何本もの触手を不穏にうねらせたクラーケンのケンさんが、腕をがっしりと組んで待ち構えていた。その横には、ポケットに手を突っ込んで不快な薄笑いを浮かべたモブ男子たちが並んでいる。
「おやぁ〜? 剛クンたちが、なんだか勘違いしたニヤケ面で登校してきたネ〜?」
「聞いたよ剛〜。昨日アオイちゃんたちからチョコ貰ったんだってぇ〜? ウケるんだけど」
モブ男子の一人が、教卓を手のひらでバンバンと叩いて下品な笑い声を上げた。
「それさぁ、俺たちが昨日クラスで大声張り上げて同情を誘ってあげた『おかげ』だって気づいてる〜?」
「そうそう、ケンさんもわざわざ煽って外堀をガチガチに埋めてあげたから、アオイちゃんたちも可哀想になって、施しをくれたんだよねぇ〜」ケンさんは上半身を低く屈め、ねっとりとした濁った目を剛の顔面へと近づけてくる。
モブ男子が、剛の制服の肩を手のひらでペシペシと軽く叩いた。
「ほんとほんと〜。感謝のしるしとしてさ、今日から3ヶ月間、毎日購買の焼きそばパンとマックシェイク、俺たちの分までパシリで買ってきてもらおうかぁ〜?」歪んだニヤニヤ顔が、3人の瞳の真ん中に映り込む。教室の蛍光灯の下、モブたちのクスクスという嘲笑が、冷たく響き渡っていた。
剛の奥歯が、ギリ……と鋭い音を立てて噛み締められる。
賢人は眼鏡の奥の光を完全に消し去り、刹那は包帯の巻かれた右腕の拳を、爪が肉に食い込むほどの力で強く、強く握りしめた。
剛の口角が、不敵に、左右へ「にたぁ……」と大きく吊り上がった。
失うものなど何もないと言わんばかりに、剛はゆっくりと教卓の上へと飛び乗った。
顔面の全筋肉を歪めて、最上級の薄笑いをケンさんたちの顔面に叩きつける。
手にしたカバンから、あのリボンのついたチョコレートケーキの箱を、机のど真ん中にドンッ!と重く置いた。
「あのさぁ……。僕は好きなアオイちゃんからチョコを貰って、さらにアオイが上げるならという理由で、あのユズちゃんともコトネちゃんからもセットで貰ったんだよね……。学年の頂点に立つ三人全員からチョコ貰ってる俺たちって、どうみえるよ?」
ケンさんたちの息が、ぴたりと止まる。
3人はふっと冷酷に目を細め、一斉に牙を剥いた。
「おめぇらに聞くけどよぉ……」
剛が教卓を踏み締め、喉を太く鳴らして咆哮を上げた。
「今日、誰からもチョコ貰ってない奴いる? ……いねえよなぁ!?」
ドォォン!
剛の怒号が前列のモブたちの机を物理的にガタガタと激しく震わせる。
間髪入れず、賢人が眼鏡をギラリと白く光らせて一歩前に出た。
「下駄箱の中身が乾燥したプリントだけの奴いる? ……いねえよなぁ!?」
ビキィィン!
冷徹な叫びの風圧が、教室の窓ガラスをビリビリと激しく激震させる。
さらに刹那が、包帯の巻かれた右腕を天に向かって高く掲げた。
「ボルの国策訓練で顔面に板チョコぶつけられただけの奴いる? ……いねえよなぁ!?」
パキィィン!
突き抜けた叫びが空気を引き裂き、黒板の溝に置かれていたチョークが、バキバキと音を立てて跡形もなく粉々に砕け散った。
そして最後――。
剛、賢人、刹那の3人はガシッと互いの肩を並べ、肺活量の限界を超えて、教室全体を物理的に揺るがす特大の咆哮を同時に絶叫した。
「「「外堀埋めたとか勝手に手柄泥棒して、本当は1個も貰えなくて泣きそうな奴いる? ――いねえよなぁっぁぁあああッッッッ!!!!!」」」
ドゴォォォォォンッッッッ!!!
放たれた圧倒的な音圧の衝撃波が、教室のすべての空気を強烈に押し出す。
「「「あ、あばばばばばばネ……ッ!!!」」」
昨日、ティッシュの上へ茶色いチョコチップを並べて笑い声を上げていたモブ男子たちが、その場にバタバタと床へ崩れ落ちていく。
口元から、白い泡がじわりと滴り落ちた。
さっきまであれだけ騒がしかった部屋から、一瞬にしてすべての音が消え失せる。
しんと静まり返った床の上。剛は教卓の上から、ガタガタと激しく震えるケンさんを冷酷に見下ろした。その瞳の奥から、完全にすべての温度が消え失せている。
「俺たちは本命から貰ったけど、おめぇらどうよ? ま・さ・か……いや、これ以上は残酷だな……」
剛はフッと冷たく口角を上げた。
「……煽るなら、煽られる覚悟もしとけ」
「ぐ、ぐぬぅぅ……!」ケンさんとモブ男子たちは、泥の上にへたり込んだまま、ただ涙をボタボタと床にこぼして震え続けた。
ガラッ……!教室の木製の扉が、再び勢いよく開く。
そこに立っていたのは、ホタテ貝の高倉くんだった。
「あ、あらすてき! 高倉クン!」ケンさんの目が、一瞬にしてギラリと輝く。
しかし、高倉くんの殻の隙間には、リボンのついた黒い箱がそのままの形で挟み込まれていた。
ケンさんが昨日、彼の前に差し出したチョコレートの箱。高倉くんは、ケンさんの目の前で静かにその箱を机へと突き戻した。
その殻の奥から、低く、渋い重低音の響きが放たれる。
「……人の心を茶化すような人は、ちょっと。自分、不器用なんで」
「「「キャーーーッ!!! フラれたァァァーーー!!!」」」教室の後ろから、別の男子たちの叫びが響き渡る。
「そんなバカなァァァアアア!!!」絶叫と共に、ケンさんは両手で顔を覆い、涙を飛び散らせながら廊下へと猛スピードで逃げ去っていった。
それを見たモブ男子たちも、もはや立ち上がる力すら残っていない様子で、「お、俺たち、ちょっと購買行ってくるわ……」と、背中を丸めてコソコソと、這うようにして教室から這い出していった。
静まり返った教卓の上。剛、賢人、刹那の3人は、ガシッと互いの泥のついた拳を力強く突き合わせた。
ガラッ……!
「ちょっと作りすぎちゃったから、もしよかったらみんなで食べてね♪」扉の向こうから、アオイ、ユズ、コトネの3人が、大きな銀色のトレイを両手に抱えて笑顔で入ってきた。
トレイの上には、切り分けられたあの丸いチョコレートケーキが綺麗に並んでいる。
3人は教室に残っていた他のクラスメイトたちの机へと、笑顔で一切れずつ配り歩き始めた。
甘く、瑞々しいココアの匂いが、冷え切った部屋全体へとフワリと広がっていく。
「やっぱり、みんなが笑顔になってくれるのが一番嬉しいね、アオイちゃん、ユズちゃん」
「うん、コトネちゃん! みんなで食べると、もっともっと美味しいね!」こたつの部屋でハモった時と同じ、眩しい笑顔。その姿を、剛、賢人、刹那の3人は教卓の上から、ふんぞり返った胸をさらに大きく張って、誇らしげな、最高に深いドヤ顔で見つめ続けていた。
窓の外から差し込む朝の光が、3人の泥だらけのユニフォームの背中を、白く、まばゆく照らし出していた。




