閑話 変わらないその営み
大草原の真ん中、一本の巨大な木の根元。
たくさんのモフモフたちが、ただ静かに集まっていた。
コト、と木製の湯呑みが置かれ、香ばしいお茶の湯気が冬の空気に白く溶けていく。
パリ、ポリ。
大皿に盛られた大根の漬物を、誰からともなく口へ運び、のんきに顎を動かしている。
泥にまみれた、一人の人間がその輪の中に転がり込んできた。
アニマルたちは誰も立ち上がらない。
ただ、そっと静かに、湯気の立つ温かいお出汁の入った器をその手元へと押し出した。
じわぁ……。
人間が器を両手で包み込み、ゆっくりと喉を鳴らしてお出汁を飲み干す。
そのまま、モフモフたちの厚い毛並みの間に身体を沈め、一緒の波に揺られるように、ただプカプカと水面へ浮き上がっていった。
――人間の学校の、すぐ裏山にあるアニマル特区。
見渡す限りの青い海辺には、太陽の光が1600万色のきらめきとなって白く砕け散っていた。
茜色と紫色のグラデーションが混ざり合う夕暮れの川べりでは、水面が穏やかに揺れている。
満月の冷たい月明かりが静かに降り注ぐ深い夜の滝つぼは、厳かなしじみを湛えていた。
そのあちこちの水辺の澱みに、いくつかの茶色い袋がポチャリと沈んでいる。
お日様の熱に温められた砂の底で、クシャクシャだった乾燥昆布や干し椎茸が、ゆっくりと水分を吸って大きく広がっていった。
生の海水や川水からは絶対に漂ってこない、香ばしくも心がホッとするような優しい香りが、水中へとふわりと溶け出していく。
名前を持たない小魚の群れ、小さなカメ、波打ち際のカニたち。
彼らはただそのスープの周りに集まり、ハサミを振り回すこともなく、縄張りも主張せず、ただのんきに水面や水底でプカプカと浮かんで、じっと整っていた。
――その海辺の白い砂浜に、一つの影が落ちる。
正午。まばゆい陽光が降り注ぐ中、アオイは小さく膝を抱え、うつむいていた。
制服のピンクのポニーテールが、力なく砂の上に垂れ下がっている。
「……私、あんな酷いこと言うつもりじゃなかったのに。もう元に戻れなかったら、どうしよう……」
ポタポタと、大粒の涙が熱い砂の上に落ちて染みを作っていく。
世界が止まってしまったかのように怯えるアオイの視線の先。
はるか遠くの青い水平線では、巨大なクジラが悠々と潮を吹き、その周りでイルカたちが尾ひれを跳ね上げて、ただ楽しそうに理由もなくジャンプを繰り返していた。
ぷかり、ぷかり。
アオイのすぐ隣、寄せ波の泡のなかに、名前を持たない小さな海の生き物たちが無言で近づいてきた。
彼らは何をするわけでもなく、ただ口元をモグモグと動かし、お出汁を含みながら、アオイの周りを囲むようにして波に揺られている。
ざざぁん、ざざぁん。
変わらない波のリズムが、熱い砂の上に響き続ける。
アオイは小さく息を吐き出し、膝を抱える腕の力を少しだけ緩めた。
肌に触れる小さな生き物たちの体温が、かじかんでいた胸の奥をじんわりとほぐしていった。
夕方から夜へ。
世界がオレンジ色から深い藍色へと移り変わる、静かな川べり。
ユズは草むらに膝を突き、目に涙を溜めて地面を見つめていた。
緑色のツインテールが、夜風に揺れてカサカサと細い音を立てる。
「私のせいで、2人を傷つけてしまいました……」
震える声が、水面に小さな波紋を作って消えていく。
耳を澄ませば、草むらの奥から虫たちの細い鳴き声が優しく響き始めていた。
水際では、蛍の淡い緑色の光が、一つ、また一つと数を増やしてまたたいている。
穏やかな川水が、ただ静かに、何事もないようにユズの横を流れていった。
カサ、カサ。
一匹の小さなカメが、水面からそっとユズの足元の泥へと這い上がってきた。
それに続くように、たくさんの小さな川の生き物たちが、何をするでもなくユズの周囲に静かに身を寄せ合う。
カメは川底から運んできた平らな貝殻を、ユズの目の前へとそっと押し出した。
その中には、椎茸の香ばしい匂いのする温かいスープが溜まっている。
カメはそのまま、ユズの靴の横にぺたりと甲羅を伏せた。
ユズは指先を震わせながら貝殻を持ち上げ、そのお出汁を一口、喉へと流し込んだ。
お腹の底からじわっと温かさが広がり、強張っていた肩の力がすとんと抜けていく。
そして、お日様が高く昇る、幻想的な滝つぼのほとり。
金髪のコトネが冷たい岩に腰掛け、ポロポロと涙を流していた。
長い睫毛にたまった水滴が、頬を伝ってスカートの上に落ちていく。
「あいつらの優しさに、なんで素直になれなかったんだろ……。私のばか……」
袖口で何度も、何度も目元を拭う。
ドォォォォォオオオオオウン……!!!
頭上から、すべてを押し潰すような滝の圧倒的な大轟音が降り注いでいた。
白い水しぶきが激しく舞い散り、周囲の木々を濡らしていく。
コトネがどれだけ声を詰まらせていても、滝はただひたすらに、変わらない爆音を世界へ響かせ続けていた。
ドォォォォォオオオオオウン……!!!
頭上から降り注ぐ激しい大轟音のなか、滝つぼの静かな澱みから、きらきらと光る名前を持たない小魚の群れが水面へと上がってきた。
魚たちは何も言わず、ただコトネのすぐ目の前で、互いの身体を寄せ合うようにしてプカプカと静止している。
水面から、椎茸の優しい香りをまとった温かい水がフワリと立ち上る。
コトネは細い手のひらでそれをすくい、静かに一口、口に含んだ。
じわ、とお腹の底から熱が広がり、喉の奥の震えがゆっくりと収まっていく。
コトネは衣服の袖でしっかりと目元を拭い、冷たい岩の上から力強く立ち上がった。
――夕暮れが夜へと溶け出す、特区の帰り道。
草むらから虫たちの鳴き声が響き、空の赤みが深い群青色へと染まっていく。
特区の中央へと続く、誰もいない静かな交差点の真ん中。
アオイ、ユズ、コトネの3人は、異なる3つの角から歩み出て、バッタリと正面から視線を突き合わせた。
3人は一瞬、お互いの顔を見て瞳を大きく見開いた。
少しだけ肩をすぼめ、爪先をモジモジと動かす。
だが、その目元にはもう、先ほどまでの涙の跡はどこにも残っていなかった。
アオイがはにかむように微笑み、ユズが優しく目を細め、コトネが少し照れくさそうに口元を緩める。
「「「ごめんね」」」
重なった言葉のあとに、3人は同時に「ふふっ」と、いつもの弾けるような笑顔を咲かせた。
「……うん、ありがとう! じゃあ、また明日ね!」
満面の笑顔を交わし合い、小さく手を振りながら、3人の制服の背中が、それぞれの夜の街灯の下へとトコトコと遠ざかっていく。
特区の海は、あるがままを映し出す巨大な鏡のように、静かに凪いでいた。
太陽の最後の光が水面に反射し、ギラギラとした虹色のきらめきが、群青色の夜闇へとゆっくりと吸い込まれて消えていく。
押し寄せるさざ波の音だけが、誰もいない砂浜に、いつまでも、いつまでも淡々と響き続けていた。




